
ポルトガルの国旗
ポルトガルの国土
ポルトガル(正式名称:ポルトガル共和国)は、西ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家です。国土はイベリア半島西端の平地と大西洋上のアソーレス諸島、マデイラ諸島で構成され、気候区は地中海性気候に属しています。首都は「欧州文化首都」として知られるリスボン。
この国ではとくに農業が発達しており、中でもオリーブ、小麦の生産がさかんです。またポルトガル王国時代の遺産を背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。
そんなポルトガル共和国の歴史は、868年にアルフォンソ3世によって建設されたポルトゥカーレ伯領から始まるといえます。その後王国となったポルトガルは大航海時代に数多くの海外領土を得るなど繁栄を極めました。1910年に共和国化して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなポルトガル共和国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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古代ポルトガルには、先住民としてルシタニア人が暮らしていました。前2世紀以降、古代ローマの進出が始まり、その同化圧力に抵抗を続けていましたが、前1世紀には、ポルトガル含めたイベリア半島全体が完全にローマの支配下におさまります。
前500年頃 ポルトガル北部にケルト人が居住開始
イベリア半島の支配を目論む共和政ローマと現地住民との戦争が起こる。
イベリア半島の支配を確立したい共和政ローマと、西部ルシタニア(現ポルトガルの中北部)のルシタニア人との武力衝突ルシタニア戦争が起こる。決着はなかなかつかなかったが、ルシタニアの王がローマの差し向けた刺客に暗殺されたことにより、ルシタニア軍は瓦解していき、敗北を喫した。
ローマ皇帝アウグストゥスのもと、現在のポルトガル・スペイン西部地域を管轄するローマ属州ルシタニアが作られる。州都はエメリタ・アウグスタ(現スペインのメリダ)に置かれた。
4世紀末期にはローマ帝国が西ローマ帝国と東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に分裂し、ポルトガルは西ローマ帝国の支配下に入る。
西ローマ帝国の衰退にともない、イベリア半島にゲルマン系西ゴート族が流入。彼らはここに西ゴート王国を建国した。ゲルマン文化、ローマ文化、キリスト教文化が合わさった独特の文化が栄えた。
西ローマ帝国が崩壊すると、西ゴート王国はその機に乗じて、旧西ローマ帝国領にまで勢力を広げた。
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西ローマ帝国が崩壊すると、今度はイスラム勢力に服属しますが、12世紀半ばにアルフォンソ1世がイスラム勢力と戦い、レコンキスタ(再征服)を達成。ポルトガル王国を成立させました。
6世紀に入り、ガリアを中心に勃興したフランク王国が、イベリア半島を中心とした西ゴート王国の勢力圏を圧迫するようになった。フランク王国軍との戦闘ではことごとく敗れ、領地を次々と失っていった。また6世紀末には西ゴート王レカレド1世がカトリックへの改宗を行った。
6世紀末の改宗以降、徐々に勢力を取り戻していき、7世紀前半には再びイベリア半島のほぼ全域の支配を確立することができた。
イスラム勢力がイベリア半島に侵入。グアダレーテ河畔の戦いでロデリック王が戦死したことで西ゴート王国は滅んだ。以降イベリア半島はウマイヤ朝の支配下におかれる。一部の王族はイベリア半島北部に逃れ、アストゥリアス王国を建国。キリスト教勢力によるレコンキスタ(国土回復運動)の拠点となった。
イベリア半島北西部のコバドンガ近辺の山中にて、アストゥリアス王国軍とウマイヤ朝軍が衝突。キリスト教勢力のアストゥリアス王国が勝利し、レコンキスタが一歩前進した。
レコンキスタを目的として、現ポルトガルの北部地域にポルトゥカーレ伯領が設置される。
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アストゥリアス王国は首都を軍事的要衝のレオンに遷都し、以降この国はレオン王国と呼ばれるようになる。
レコンキスタ(国土回復運動)でポルト(ポルトガル北部の港湾都市)を奪還。
ポルトゥカーレ伯アフォンソ1世が、オーリケの戦いでイスラム勢力を破る。その後ポルトガルの王を自称したことでポルトガル王国が成立した。
アフォンソ1世率いる十字軍がレコンキスタに乗り出し、現ポルトガルの首都リスボンを奪還した。
サンシュ2世により、アルガルヴェ地方(ポルトガルの最南端)にアルガルヴェ王国が建設され、ポルトガル王がアルガルヴェ王を兼ねるようになる。アルガルヴェがポルトガル支配におさまったことで、現在のポルトガルの国土が完成した。
アヴィス修道会長のジョアン1世がポルトガル王に即位しアヴィス王朝が創始した。この王朝は積極的な海外進出を行い、ポルトガル大航海時代を確立した。
イングランドとの間で、現存する最古の2国間同盟「ウィンザー条約」の締結(年)
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15世紀にはエンリケ航海王子の指揮のもと、バスコ・ダ・ガマやマゼランなど有能なポルトガル人航海士を支援し、新航路を開拓。スペインと共に一大海洋帝国を築き上げ、世界有数の海洋国家として繁栄を謳歌しました。しかしピークが過ぎると内政の乱れから国力は衰えていきます。
イスラム勢力の脅威を根絶する目的で、アフリカ大陸北岸のセウタを攻撃・占拠する。アヴィス王朝が断絶(1580年)し、スペインに支配圏が渡るまではポルトガル領として過ごした。
ポルトガル人航海者によりリスボン西方の海洋に浮かぶアゾレス諸島が発見される。紀元前にはカルタゴ人が暮らしていた島々。発見まもなくポルトガル人の植民が開始され、新大陸進出のための重要な中継路となった。
ポルトガル人航海士のバルトロメウ・ディアスが、ヨーロッパ人として初めて喜望峰を発見。ポルトガルはこの発見を足掛かりとして、いち早くインド洋に進出し、貿易の覇権を握った。
スペインとトルデシリャス条約を結ぶ。紛争回避を目的に、「新世界」で発見された土地を2国で分割することが決定する。
ポルトガルの探検家バスコ・ダ・ガマがインドへの航路を発見する。その後ポルトガル人のゴア(インド西海岸の地域)への入植やインドとの貿易が開始された。
ペルシア湾の都市ホルムズを征服。香料交易で優位に立つ。
明から租借したマカオにポルトガル人居住区が設立される。その後、中国や日本との貿易(主に生糸、金、銀など)で多大な利益をあげた。
大航海時代の栄光が書かれた叙事詩『ウズ・ルジアダス』が生まれる
スペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世がポルトガル王位を継承し、ポルトガルがスペインに併合される。
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海上覇権を確立し、アジアにおける貿易利権を独占していたポルトガルおよびスペインだが、17世紀になると、オランダやイギリスといった新興勢力が競合してくるようになった。
リスボンで起こったポルトガル人貴族による反スペインの革命運動から、ポルトガル王国とスペイン帝国の戦争に発展。ポルトガルの自治を縮小し、中央集権化をはかるスペインへの反発がきっかけとなった。
ポルトガル王政復古戦争の結果、ポルトガルの勝利となり、60年に渡って続いたスペインとの同君連合が解消。スペインにポルトガルの独立を認めさせた。
18世紀からは南米ブラジルの植民活動に力を入れるようになり、とくにブラジルにおける金の産出はポルトガルに莫大な利益を生んだ。
スペイン国王の死去にともない、遺言に従いスペイン王位を継ごうとするフランスと、フランスの強大化を恐れ、それを阻止したいイギリス・オランダ・オーストリアとの間で、スペイン継承戦争が勃発した。ポルトガルは対仏連合に味方し、フランス・スペインと争った。ユトレヒト条約とラシュタット条約の締結により講和。
ポルトガルとイギリスの間で、イギリスが毛織物を輸出する代わりに、ポルトガルから輸入するワインの関税を引き下げるという通商条約が結ばれる。この条約をきっかけに、ポルトガル経済はイギリスに依存していった。
港湾都市リスボンに壊滅的な被害をもたらしたリスボン大震災が発生し、津波によるものも含め6万2000人が犠牲になった。多くの歴史ある建築物や美術品もこの震災で失われた
リスボン震災は「国家」として、はじめてその対応や復興に責任を負ったことから、ヨーロッパ社会に科学や技術の面で転機をもたらした「近代的災害」ともいわれています。この震災を教訓にしたリスボンは世界初の耐震都市になりました。
ポルトガル植民地ブラジル・ミナスジェライス州で、金の産出量減に対するポルトガル王室の課税強化をきっかけとする反乱計画「ミナスの陰謀」が露呈。反乱計画参加者は主にエリート層が占めていた。アメリカの独立に刺激を受けて起こったもので、独立運動の先駆けといわれている。
ポルトガルのブラジル植民地バイーアにて、仕立て屋をはじめとした平民、さらには奴隷や自由身分の黒人まで巻き込んだ反乱計画が露呈。フランス革命に刺激を受けた人々の支持を受けたとみられている。
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19世紀になるとポルトガル王国最大の植民地ブラジルが独立し、20世紀初頭には共和革命で王制は崩壊し共和政に移行します(ポルトガル第一共和政)。第一次世界大戦が終結すると財政悪化から共和国政府への不満が高まり、軍事クーデターにより共和制は崩壊。軍事独裁政権が誕生してしまいます。その後のポルトガルでは、ファシズム憲法のもと全体主義体制が確立され、以後「エスタド・ノヴォ」と称される、40年にもおよぶヨーロッパ最長の独裁政権が続いたのです。
ヨーロッパ征服戦争(ナポレオン戦争)を開始したナポレオン・ボナパルトが、敵対するイギリスに加担するポルトガルに侵攻を開始。ポルトガル王室はブラジルに逃亡を余儀なくされ、その間ポルトガルの首都はリオデジャネイロに遷都した。
イベリア半島にて、スペイン、ポルトガルがナポレオン支配からの解放を掲げ戦争を起こす。結果的にフランス軍を撤退させることに成功し・ナポレオン凋落の一因となるも、戦争終結後ポルトガルの国土は荒廃し、長期間の政治的混乱につながってしまった。
ナポレオンによるポルトガル征服をうけ、ポルトガル王室は植民地のブラジル・リオデジャネイロに避難。以降はブラジル公国をポルトガルと同格の王国とみなし、「ポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国」としてポルトガル・ブラジルによる同君連合を結成した。
北部ポルトでの蜂起から始まり、ポルトガル全土で革命運動が起こった。スペイン立憲革命に刺激を受けて起こったもの。この運動の中で、自由主義的な憲法が公布され、ポルトガルにおける立憲時代が始まった。
ブラジルがポルトガルとの同君連合を解消し、ブラジル帝国として独立した。
自由主義と絶対王政の対立が深まり、自由主義者のジョアン6世没後、ポルトガル王国の王位継承をめぐり内戦に発展した。
自由主義派の勝利をもってポルトガル内戦が終結。ブラジル皇帝ペドロの娘、マリア2世がポルトガル王位を継承した
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ポルトガル王室の政策に対する不満や国内の共和主義者が勢力を拡大する中、リスボンで1910年革命が勃発し、王党派が打倒される。ブラガンサ王朝は滅び、ポルトガル第一共和政が成立した。
ポルトガル共和国憲法が採択され女性参政権が認められる
サラエボ事件をきっかけとして第一次世界大戦が開始される。ポルトガルは当初中立を維持したものの、1916年に対独宣戦を行ない連合国側として参戦した。
第一共和政政府の不安定な政権運営に業を煮やし、ポルトガル軍がクーデターで政権を奪い、軍事政権を樹立させた。以降ポルトガルでは74年のカーネーション革命まで、軍事独裁体制が続くこととなる。
エスタド・ノヴォ憲法が採択され、ストライキや反政府運動の禁止、言論の自由の制限など独裁が強化された。軍事独裁といえど表向きの国名は「ポルトガル共和国」であり、この憲法の採択をもって第二共和政が成立したともいえる。
ドイツのポーランド侵攻を発端として第二次世界大戦が勃発。ポルトガルは当初ドイツ・イタリアのファシズム政権に親和的だったが、枢軸国の戦局が劣勢に傾くと、連合国寄りの姿勢にシフトした。
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独裁政権下で起こった第二次世界大戦では中立の立場をとりましたが、戦後冷戦下では西側諸国(ソ連中心の社会主義陣営に対抗する資本主義陣営)の一員として北大西洋機構(NATO)に加盟しています。そして冷戦時代末期には、国軍革新派の無血クーデター(カーネーション革命)により独裁体制が崩壊。こうして現在に続くポルトガル共和国(ポルトガル第三共和政)が成立しました。なお民主化の実現とともに、海外植民地の自決権を認めたことで、アフリカの5つの植民地の独立が決定。20世紀末にはマカオが中華人民共和国に返還されたことで、ポルトガルが持つ全ての植民地を手放すこととなりました。
インド軍がポルトガルが植民地として領有していたゴア(インド西海岸に位置)に進軍し、ポルトガル勢力をインドから完全に追い出した。ゴアはポルトガル海上帝国時代、ポルトガルのアジアにおける重要な拠点とされていた。
ポルトガル植民地のモザンビークにて、モザンビーク解放戦線がポルトガル支配に対する反乱を起こし、モザンビーク独立戦争が開始された。
1926年以来続いていた軍事独裁制が、ほぼ無血の革命により倒れる。カーネーションが革命運動のシンボルに使われたため「カーネーション革命」と呼ばれる。新政府のもと民主制に移行し、第三共和政が開始され、現在にいたる
前年にカーネーション革命でポルトガルの軍事独裁政権が倒れた結果、新政府は植民地戦争の停戦を宣言。モザンビークの独立を承認した。
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