
19世紀のヨーロッパで「イタリア統一運動(リソルジメント)」が巻き起こったとき、もっとも神経をとがらせた国のひとつがオーストリア帝国でした。なにしろ当時のイタリア北部は、事実上オーストリアの“裏庭”だったんです。ロンバルディアやヴェネツィアなど、重要な領土を握っていたこの帝国にとって、イタリアの独立・統一運動はまさに“火種”。今回はこのイタリア統一運動が、オーストリアにどんな影響を与えたのか、その内政・外交・国際秩序の観点からわかりやすくかみ砕いて解説します。
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もともとイタリア北部は、オーストリアにとって「手放せない生命線」だったのです。
ウィーン会議(1815年)でオーストリアはロンバルディア=ヴェネツィア王国を手に入れ、正式な支配権を持っていました。経済的にも戦略的にも重要なこの地をイタリア人が「取り戻したい」と考えたことで、オーストリアはリソルジメントの直接の“敵役”となったんです。
とくに1848年の「ミラノの5日間」では、民衆の蜂起によりオーストリア軍が一時撤退。オーストリアは大きなショックを受け、軍を再投入してなんとか制圧しますが、民衆反乱に脆弱であるという弱点が露呈します。これが帝国内の他民族にも連鎖する形で、体制への不信が広がっていきました。
1848年革命時、ミラノで起こったオーストリアに対する蜂起「ミラノの5日間」
イタリア統一を巡る戦争は、オーストリアの外交バランスや軍の権威を大きく揺るがすものとなりました。
1859年の第二次イタリア独立戦争では、ナポレオン3世率いるフランスとサルデーニャ連合軍に敗れ、ロンバルディアを失います。さらに1866年、普墺戦争でプロイセンに敗北した際、ヴェネツィアもイタリアに譲渡。これにより、オーストリアのイタリア支配は完全に終わることになります。
オーストリアは、イタリア戦線での度重なる敗北によって軍の無力さと外交の失策が浮き彫りにされ、列強のなかでの立場も微妙に揺らぎます。とりわけプロイセンとの対立で主導権を奪われたことが、のちのオーストリア=ハンガリー二重帝国への変革を後押しすることになっていきます。
イタリア統一運動は、オーストリア国内にいるさまざまな民族に“火”をつける結果にもなりました。
リソルジメントの成功は、オーストリア帝国内のチェコ人・ハンガリー人・スロベニア人などにとって、「自分たちも独立を目指せるのでは?」という刺激になりました。とくにハンガリー民族主義が強まったことは、後の1867年の二重帝国成立(オーストリア=ハンガリー帝国)へとつながります。
一枚岩のように見えたハプスブルク帝国でしたが、イタリア人の離反をきっかけに各民族の求心力が低下。強権的な支配では抑えきれない時代に入っていたことが露呈します。リソルジメントは、そんな“帝国の限界”を炙り出すきっかけだったのです。
イタリア統一運動は、単なる“イタリア国内の話”にとどまりませんでした。オーストリアにとっては、領土を奪われただけじゃなく、帝国そのもののあり方を揺るがす一撃。まさに“外からの火種が、内からの崩壊を促した”例だったといえるでしょう。
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