ハプスブルク家が近親婚を繰り返した理由やその「負の影響」とは?

ハプスブルク家の近親婚

ハプスブルク家は領土と権力の集中を目的に親族間で婚姻を重ねたが、その結果、遺伝的疾患や容姿の特徴が顕著になった。この政策は短期的には安定をもたらしたが、長期的には王家の健康と存続に深刻な影響を及ぼした。本ページでは、このあたりの歴史的背景と後世への影響について詳しく掘り下げていく。

断絶に繋がる「負の影響」を知るハプスブルク家が近親婚を繰り返した理由とは

ハプスブルク家最後のスペイン王カルロス2世
何重もの近親婚の影響で、極度の下顎前突症の他、様々な身体障碍を患っていた。


王家どうしの結婚、血統を守るための婚姻、政略で結ばれた夫婦関係。
ヨーロッパ史を見ていると、結婚が政治そのものだった場面が何度も出てきます。
中でもハプスブルク家は、「また親戚同士?」と驚くほど近親婚を重ねてきましたが、なぜそこまでこだわったのでしょうか?


結論から言うと、領土と権力を家の中に固定するため
ただしその選択は、後に王朝そのものを揺るがす深刻な負の影響を生むことになります。


本節ではこの「ハプスブルク家が近親婚を繰り返した理由」というテーマを、ハプスブルク家・カルロス2世・スペイン継承戦争──という3つの視点に分けて、ざっくり楽しく紐解いていきたいと思います!



ハプスブルク家とは──家を守るための結婚戦略

ハプスブルク家は、神聖ローマ帝国をはじめ、スペインやオーストリアなど、ヨーロッパ各地にまたがる広大な領土を支配した名門中の名門です。時代の中心に立ち続けた彼らを象徴する言葉として、よく知られているのが、「戦争は他国に任せ、幸運なオーストリアよ、汝は結婚せよ」という合言葉。少し不思議に聞こえますが、ここにこそハプスブルク家の本質が詰まっています。


土地と王位を外に出さない発想

当時の王侯貴族にとって、結婚は恋愛ではなく、きわめて現実的な政治行為でした。王女を他国に嫁がせるということは、単に家族が増えるという話ではありません。領土や王位継承権が、よその家へ流れ出てしまう危険と、常に隣り合わせだったのです。


そこでハプスブルク家が選び取ったのが、親戚同士で結婚し、財産と権力を家の中に閉じ込めるという発想でした。叔父と姪、いとこ同士といった婚姻も、特別なものではなくなり、あくまで「家を守るための手段」として受け入れられていきます。血縁を固めることが、そのまま国を守ることにつながる──そんな感覚だったわけですね。


スペイン・ハプスブルク家の事情

この傾向がとくに強く表れたのが、スペイン系ハプスブルク家でした。ヨーロッパだけでなく、新大陸にまで及ぶ広大な海外領土を抱えた帝国を、他家に渡すわけにはいかない。そう考えたとき、近親婚は「もっとも安全な選択肢」と映ったのです。


短い目で見れば、たしかに合理的な判断でした。
ですが、その選択はやがて、体質の弱体化という形で重くのしかかってきます。家を守るために選んだ戦略が、別の形で家を追い詰めていく──ハプスブルク家の歴史には、そんな皮肉もまた刻まれているのです。


カルロス2世とは──近親婚が生んだ悲劇

近親婚の影響が、これ以上ないほどはっきりと表れた人物。それが、スペイン王カルロス2世(1661 - 1700)です。彼は、ハプスブルク家同士の婚姻を何世代にもわたって重ねた末に誕生しました。いわば、結婚戦略の「最終形」とも言える存在だったわけです。


深刻な健康問題

カルロス2世は幼少期から極端に病弱で、身体的・精神的な成長も著しく遅れていました。言葉を話し始めるのが遅く、歩行もままならなかったと当時の記録に残されています。成人後も体調は安定せず、日常的な政務をこなすことすら難しかったようです。


遺伝的な問題が集中的に表面化した結果と考えられており、国王として政治を主導できる状態ではありませんでした。そのため、宮廷内では権力争いが激化し、実際の国政は周囲の大貴族や、フランス・神聖ローマ帝国といった外国勢力の思惑に大きく左右されていきます。


後継者が生まれないという現実

そして、最も深刻だったのが、カルロス2世に子どもが生まれなかったという事実です。二度の結婚にもかかわらず後継者は得られず、スペイン王位は宙に浮いた状態となりました。この問題は、彼の死を待たずして、すでにヨーロッパ全体を緊張させていたのです。


「次のスペイン王は誰になるのか」


この問いは、単なる王位争いでは済みませんでした。巨大なスペイン帝国の行方を左右する問題として、列強諸国が神経を尖らせ、やがてヨーロッパ全体を巻き込む大戦争へとつながっていくことになります。


家を守るために選ばれた近親婚という戦略。その行き着いた先に待っていたのが、カルロス2世という悲劇的な存在だったのです。


スペイン継承戦争とは──断絶が招いた大混乱

ビーゴ湾の海戦
スペイン継承戦争の海戦の一つ。スペイン継承戦争は、スペイン・ハプスブルク家の断絶をきっかけに始まった。


1700年、スペイン王カルロス2世が死去すると、ついにスペイン・ハプスブルク家は断絶します。長く続いてきた王家の血筋が途切れたことで、「次に誰がスペイン王になるのか」という問題が一気に噴き出しました。こうして始まったのが、スペイン継承戦争です。


ビーゴ湾の海戦が示す国際化

この戦争は、単なる一国の王位争いではありませんでした。イングランド、フランス、神聖ローマ帝国など、当時の列強が次々と介入し、ヨーロッパ全体を巻き込む国際戦争へと発展していきます。スペイン王位の行方は、そのままヨーロッパの勢力均衡に直結していたのです。


象徴的な出来事が、1702年のビーゴ湾の海戦でした。スペイン艦隊はフランス艦隊と連合して迎え撃ちますが、イングランド・オランダ連合軍に敗北します。 この一戦は、かつて世界帝国だったスペインの衰退が、誰の目にもはっきりと示された瞬間でした。


近親婚が残した結末

戦争の末、スペイン王位はブルボン家へと移り、ハプスブルク家による支配の時代は終わりを迎えます。家と帝国を守るために続けられてきた近親婚は、結果として後継者不在という致命的な問題を生み、王家そのものの終焉を早める形になりました。


血統を守ることと、国家を安定させ続けること。
この二つは、必ずしも同じ方向を向くとは限りません。その現実を、スペイン・ハプスブルク家の最期は、あまりにもはっきりと物語っているのです。


ハプスブルク家が近親婚を繰り返した理由は、権力と領土を家の中に留めるためでした。
しかしその積み重ねは、カルロス2世の健康問題と後継者不在を生み、スペイン・ハプスブルク家の断絶へとつながります。
合理的に見えた選択が、長い時間の中で大きな負の影響を生んだのです。


結婚という私的な決断が、国家の命運を左右する。
ハプスブルク家の歴史は、その重さを静かに教えてくれます。