フランス革命の始まりを告げたバスティーユ牢獄襲撃事件を描いた絵
1861年に達成されたイタリア統一に関しても、1871年に達成されたドイツ統一に関しても、その出発点が1789年にフランスで起こったフランス革命にあるという点で共通しているでしょう。
フランス革命が勃発すると、革命精神に刺激を受けたイタリアやドイツでも民族意識(ナショナリズム)の高揚が起こり、ナポレオン戦争後に構築された保守反動のウィーン体制下でも沈静化することはありませんでした。
そして1848年革命をきっかけに、ドイツではプロイセン、イタリアではサルデーニャ王国主導の統一運動が本格化していったのです。
ただ異なる点もあります。
イタリアは全てのイタリア人地域を併合しようとしたのに対し、プロイセンは普墺戦争の結果、小ドイツ主義に基づきオーストリアを排除したからです。
小ドイツ主義に対立する大ドイツ主義というのは、オーストリアを盟主としてドイツ人地域を全て統一しようとする立場で、オーストリアにライバル意識を持つプロイセンはこれを嫌がったのです。
大ドイツ主義(オーストリア)は、イタリアにおける民族独立運動を弾圧していた立場なので、イタリア統一運動の進行とともに衰退し、小ドイツ主義に圧倒されていくのはある意味必至でした。
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イタリア統一とドイツ統一の主要な共通点には
などが挙げられ、詳しくは以下の通りです。
両国の統一は、19世紀に広まった国民主義の波によって強力に推進されました。国民主義は、共通の言語、文化、歴史、そして民族的なアイデンティティを持つ人々が、外部の支配や分裂状態を脱し、一つの独立した国家を形成するべきだという考えに基づいています。この思想は、フランス革命後のヨーロッパで急速に広まり、多くの民族や地域で独立や統一を目指す運動の原動力となったのです。
特に、イタリアとドイツでは、長い分裂の歴史を経た後に、こうした国民主義が人々の心に強く訴えかけ、国家の再編成を目指す強い意志が育まれました。このため、両国の統一は単なる政治的な出来事ではなく、深く根付いた民族的感情と結びついた歴史的な運動であったのです。
カミッロ・ディ・カヴール(イタリア)とオットー・フォン・ビスマルク(ドイツ)のような卓越した政治的才能を持つ指導者たちは、戦略的な判断と強力なリーダーシップを発揮し、それぞれの統一運動を推進しました。カヴールはサルデーニャ王国の首相として、巧みな外交交渉と軍事同盟を駆使し、イタリア全土の統一に向けた基盤を築きました。
そしてビスマルクも「鉄血政策」と称された積極的な外交と戦争戦略を通じて、プロイセンの主導のもとでドイツ諸邦を統一へと導きました。彼らのリーダーシップは、複雑な政治状況を読み解き、国民の支持を獲得しつつ、国内外の敵対勢力を巧みに排除していくことで、国家の統一を現実のものにしたのです。
両国統一は、軍事的な衝突と巧妙な外交的駆け引きを通じて達成されました。
イタリアでは、サルデーニャ王国がフランスの支援を取り付けて1859年の第二次イタリア独立戦争でオーストリアを破り、ロンバルディアを獲得しました。その後、ジュゼッペ・ガリバルディの「千人隊」が南部イタリアを征服し、ナポリ王国を倒すなど、一連の戦争と協議を経て統一が進展しました。
そしてドイツ統一についても、ビスマルクによって巧妙に仕組まれた一連の戦争を通じて進められました。まず、1864年のデンマーク戦争でシュレスヴィヒ=ホルシュタイン問題を解決し、次に1866年の普墺戦争でオーストリアの影響力を排除し、最終的には1870年の普仏戦争でフランスを打ち破ることで、ドイツ帝国の成立を実現させました。これらの戦争と外交交渉は、単に領土の問題だけでなく、民族的な団結を高めるための重要な手段であったのです。
上記のような共通点がある一方で
という点で大きく異なります。以下で詳しく解説していきます。
イタリア統一は、複数の小さな国家や都市国家の統合によって行われました。19世紀半ば、イタリア半島はサルデーニャ王国を除けば、オーストリア帝国の影響下にあるロンバルディアやヴェネツィア、教皇領、ナポリ王国などの多様な地域に分かれていました。これらの地域は、言語や文化において共通点があるものの、長い間、異なる支配者によって治められていたため、それぞれが異なる政治的背景を持っていたのです。
一方、ドイツ統一は、既に存在していたドイツ連邦(ドイツ諸国の緩やかな連合体)の下で、プロイセンの指導力が統一の鍵となりました。プロイセンは他のドイツ諸邦に対して経済的・軍事的優位を確立し、1866年の普墺戦争後に北ドイツ連邦を成立させ、その後普仏戦争を通じて南ドイツ諸邦も巻き込み、1871年にドイツ帝国が成立したのです。
ドイツ統一は、産業革命と経済的な近代化の中で進行し、プロイセンの経済力が統一の成功において重要な役割を果たしました。プロイセンはすでに関税同盟(ツォルフェライン)を通じて、他のドイツ諸邦と経済的な統合を進めており、この経済的ネットワークが統一への足掛かりとなったのです。
これに対して、イタリア統一は主に政治的・軍事的な動きにより特徴づけられ、経済的な側面はドイツほど強調されていませんでした。経済的には、イタリアはまだ発展途上にあり、特に南部の経済的遅れが顕著であり、統一後もこれが問題となりました。したがって、ドイツの統一が経済成長と密接に結びついていたのに対し、イタリア統一はむしろ政治的熱意と軍事力によって推進されたという違いがあるのです。
イタリア統一後も、地域間の経済的・文化的な格差は大きな問題となりました。南北間の経済的な差異や、統一前の長い分裂と異なる支配の歴史が原因となり、統一後も「未回収のイタリア」としての課題が残されました。特に南イタリアは経済的に遅れており、農業社会から工業化への移行が進まず、これにより地域間の経済的・社会的な不均衡が深刻なものとなりました。
これに対して、ドイツでは統一後に比較的迅速に国内統合が進展し、ビスマルクの指導の下で強力な中央政府が確立されました。さらに、教育制度の整備や軍事力の拡充、産業基盤の強化などを通じて国内の一体感が醸成され、ドイツ帝国としての結束が強化されたのです。これにより、イタリアとドイツの統一後の国内統合には、顕著な差異が見られたのです。
これらの違いと共通点は、19世紀ヨーロッパの政治的・社会的文脈の中で理解することが重要です。両国の統一は、それぞれ独自の歴史的条件の下で進行し、そして後のヨーロッパの政治的地図に大きな影響を与えたのです。
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