
北マケドニアの国旗
北マケドニアの国土
北マケドニア(正式名称:北マケドニア共和国)は、東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和制国家です。国土はバルカン半島の付け根の内陸部で構成され、気候区は地中海性気候と高山性気候の中間に属しています。首都は古代ローマの遺跡が数多く残る都市として知られるスコピエ。この国ではとくに農業が発達しており、中でもたばこやワインの生産がさかんです。また人件費の安さを背景にした繊維産業もこの国の基幹産業となっています。
そんな北マケドニア共和国の歴史は、国名の由来にもなっているアレクサンドロス大王で有名な古代マケドニア王国の時代まで遡ることができます。マケドニア王国は前4世紀に東地中海一帯から中央アジア、果てはインドにまで至る広大な帝国を建設し、北マケドニアの地はその帝国の要地として機能していました。マケドニア王国はやがて古代ローマ帝国に征服され、この地もその支配下に入ります。
4世紀のローマ帝国分裂後は東ローマ帝国、次いでオスマン帝国の支配下に入り、第一次大戦後にユーゴスラビア王国の、第二次大戦後にユーゴスラビア連邦人民共和国の構成国として過ごしますが1991年に「マケドニア共和国」として独立。2019年に「北マケドニア共和国」に国名を改名して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんな北マケドニア共和国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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北マケドニアの首都スコピエに、スキタイ、ケルト人、イリュリア人からの影響を受けたトラキア人の一派トリバッリが居住を開始する。
マケドニア地方北部(現・北マケドニアの国土に相当)がマケドニア王国の支配下に入る。
西方から勢力を拡大してきたローマが、マケドニア戦争でマケドニア王国を破ったことで、マケドニア地方全域がローマの支配下に入る。
ローマ帝国が東西に分裂し、マケドニアは東ローマ帝国の支配下に入る。
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マケドニア北部にゲルマン民族やフン族、南スラブ人などが侵入を繰り返すようになる。7世紀までにマケドニア全域にスラブ人が住みつくようになる。
北方から勢力を拡大してきた第一次ブルガリア帝国の支配下に入る。シメオン1世(在位:893年 - 927年)の死後、再び東ローマ帝国の支配下に戻る。
マケドニア伯の息子サムイルが東ローマ帝国に反乱を起こす。その結果ブルガリア帝国の再建を果たし、オフリド(現北マケドニアの都市)に首都を置いた。
サムイルの死後、ブルガリア帝国は急速に衰退していき、1018年に滅亡。再び東ローマ帝国の支配下に入った。
1100年代末頃からマケドニアの地では、第二次ブルガリア帝国、セルビア王国、ラテン帝国、ニカイア帝国などによる勢力争いが繰り返されるようになる。
マケドニア地方全域がセルビア王国の支配下に入る。
セルビア王ウロシュ4世が皇帝に即位し、スコピエ(現・北マケドニアの首都)は帝国首都の地位を得る。
ウロシュ4世の死後、内乱により急速に衰退していき、アナトリアから急速に勢力を拡大した新興国オスマン帝国の支配下に入る。オスマン帝国支配下ではスラブ人、トルコ人、ギリシャ人、ユダヤ人など多様な民族の混合が進んだ。
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露土戦争後、サン・ステファノ条約が結ばれた結果、マケドニア地方全域が新しく成立したブルガリア公国の支配下に入ることとなった。しかしその後ブルガリア独立を支援したロシア帝国の影響拡大を懸念し、列強諸国によりブルガリア領が三分された結果、マケドニア地方は再びオスマン帝国領土に戻ることとなった。
反オスマン帝国を掲げる民族主義団体マケドニア革命組織(VMRO)が結成される。ブルガリアへの併合を求める動きが強まると同時に、「マケドニア人」としての民族意識の萌芽もみられた。
1900年代初頭頃から「統一マケドニア構想」と呼ばれる、マケドニア民族主義者(大部分がスラブ系マケドニア人)によるマケドニア全域の統一を目標とする概念が台頭するようになる。
マケドニア奪還に野心を燃やすブルガリアに対し、オスマン帝国、ギリシャが共同で対抗し、第二次バルカン戦争が勃発する。その結果、ブカレスト条約によってマケドニアはギリシャとセルビアにより分割支配されることとなった。
第一次世界大戦の敗戦国となったブルガリアはマケドニアの支配権を完全に喪失。同時にセルビアを盟主とするスラブ諸国による連合国家ユーゴスラビア王国が成立し、マケドニアもその支配下に入った。しかしマケドニア革命組織による抵抗運動は続けられた。
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1939年第二次世界大戦が勃発し、ナチスドイツをはじめとした枢軸国がユーゴスラビアへの侵攻を開始する。かねてよりマケドニアの領有権を主張していたブルガリアは枢軸国につき、連合国と戦った。その結果、1941年には大半の地域がブルガリア領に入り、内部のマケドニア革命組織も、ブルガリアの占領統治に協力した。
枢軸国に対する国内抵抗組織としてマケドニア人民解放反ファシスト会議(ASNOM)が創設される。ASNOMを筆頭としたパルチザンにより、マケドニアの大半の地域は解放され、現北マケドニアにあたる地域に、ユーゴスラビア連邦構成国としてマケドニア社会主義共和国が成立した。
ASNOMはマケドニア地域内のスラブ人を初めて「マケドニア人」と規定し、母語をマケドニア語に定めた。
首都スコピエで大地震が発生し、1100人の死者が発生した。
チトーの死後、ユーゴスラビア全体で独立の気運が急速に高まっていき、憲法改正で共産主義体制を放棄し、国名をマケドニア共和国に改めた上で独立を宣言した。他の独立を宣言したユーゴスラビア諸国が流血ともなう紛争に巻き込まれる中、北マケドニアは唯一無血で独立を達成した国家となった。
独立当初、国名を「マケドニア」とし、国旗にヴェルギナの星を採用し、公用語を「マケドニア語」と定めたことに、隣国ギリシャが反発。ギリシャから経済制裁を課され、国連はじめ国際組織への加盟を妨害されるなど、弊害が大きくなったため、「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」と改称することで妥協。
コソボ紛争終結後、コソボ解放軍の武器や兵員が大量に北マケドニアに流入し、アルバニア人武装勢力・民族解放軍が結成。北マケドニア内のアルバニア人の権利拡大を要求するようになる。
アルバニア人武装勢力・民族解放軍による武装蜂起が勃発。マケドニア紛争に発展した。マケドニア政府とアルバニア人代表との間でオフリド合意が結ばれ、紛争は終結した。(なお紛争の発端である民族解放軍は交渉に不参加)
セルビアから独立を宣言したコソボを、正式な主権国家として承認した。国内のアルバニア人勢力からの圧力が、承認の大きな後押しとなった。
ギリシャ政府との合意のもと、国名を北マケドニア共和国に改名し、国名論争に終止符を打った。
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