18世紀から19世紀にかけて、オスマン帝国とロシア帝国との間で11回にわたり繰り返された戦争を露土戦争といい、不凍港獲得のために黒海・バルカン半島進出(南下政策)を敢行するロシア帝国に、同地域に勢力を持つオスマン帝国が衝突した結果として起こりました。
18世紀前半までは互角の戦いでしたが、18世紀後半からはロシアが優勢となり、ついにオスマン帝国は黒海における制海権を喪失してしまいます。そしてロシアの勢力拡大を脅威とみた英仏など西側諸国が、仇敵であるオスマン帝国を支援するという、歴史的に異例な状況が作り出されました。
その結果、クリミア戦争(1853〜56年)でロシアの南下はなんとか食い止めることができたものの、オスマン帝国は露土戦争の講和条約ベルリン条約(1878年)でヨーロッパ領の大半を喪失し、「瀕死(ひんし)の病人」と呼ばれるほどに衰退してしまうのです。
▲ロシアのオスマン帝国に対する優位が確定した第二次露土戦争(1787〜1791年)
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