ソ連といえば、冷戦時代の閉じられた未知の国というイメージを持つ人も多いかもしれません。しかし意外と外国人の入国に関してはオープンで、冷戦時代でも、東側諸国の人間はもちろん、西側諸国の人間であっても、ソ連に旅行することは可能でした。
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観光客を受け入れることは、外国に向けてソ連の優位性をアピールする良い機会になりますし、外貨を獲得できるなどメリットも多かったのです。70年代、いわゆる「デタント(緊張緩和)」の時代には、対立関係にあったアメリカ含め、自由主義諸国から観光客が殺到しています。
ソ連にとって、外国人観光客を受け入れることはプロパガンダの一環でもありました。観光客に対して自国の繁栄や社会主義の優位性を見せることで、ソ連のイメージ向上を図ったのです。観光客に提供される情報や見せられる施設は、厳しく管理され、政府が望む形でソ連を紹介するために工夫されていました。
観光客の訪問は、外貨を獲得する貴重な手段でもありました。特に西側諸国からの観光客が落とす外貨は、ソ連の経済にとって重要な収入源となりました。観光産業は、国際的な経済関係を強化し、ソ連の経済に貢献しました。
もちろん、ソ連内を自由に行き来できるわけではなく、政府が定めたルートの範囲内の観光に限られていました。観光客はガイド付きツアーに参加し、厳密に監視された環境下で観光を行いました。観光ルートには、モスクワやレニングラード(現サンクトペテルブルク)などの主要都市が含まれ、歴史的建造物や文化施設が紹介されました。
78年のアフガン侵攻の後でも、ソ連は観光客の入国を拒否することは基本的にはありませんでした。しかし、観光客の動きはさらに厳しく制限され、監視が強化されました。この時期には、ソ連への旅行は政治的に敏感な問題となり、一部の観光客は入国をためらうようになりました。
その一方でソ連は社会主義国故に優秀な人材の海外流出(亡命)を何より恐れていたため、ソ連人がただの旅行で外国(とりわけ西側諸国)に渡るというのは不可能に近いものでした。政府は厳格なビザ制度を導入し、海外旅行を希望する市民に対して厳しい審査を行いました。海外旅行が許可されるのは、国家の信頼を得た少数のエリートや政府関係者に限られていました。
以上のように、冷戦時代のソ連は観光客の受け入れに関してオープンであり、外国人に対して自国の優位性をアピールし、外貨を獲得することを目的としていました。しかし、観光は厳しく管理され、自由な行動は制限されていました。また、ソ連市民が海外旅行をすることは非常に困難であり、政府の厳しい監視と制限のもとで行われていました。冷戦期のソ連旅行は、プロパガンダと経済的利益のための重要な手段であり、その管理と制約が特徴的でした。
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