異文化の民族と統一化を図る場合、宗教や言語などの文化も同時に統一化する政策がとられ、多くの場合は被征服民族に対する弾圧や迫害がともなうものですが、多民族国家のオスマン帝国はあえてそういった方針はとらなかったようです。
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最盛期のオスマン帝国の官僚機構は、イスラム教と深いかかわりがあります。特に法律に関する事柄を扱う法官たちは、宗教学校でイスラム法を修めた人たちで構成されていて、イスラムの法に基づいて裁判が行われました。
後に西欧化が徐々に進む中でも、イスラム法とそれを遵守する人々の影響力は非常に強く、20世紀に入ってトルコ革命でイスラム法からの脱却が行われた際も非常に大きな反発がありました。
オスマン帝国の支配者層は主にムスリムの人々で構成されていて、常にムスリムの優位が守られていたとはいえ、他の民族や宗教に対する圧政や弾圧はほとんどありませんでした。
オスマン帝国内には3つのムスリムの主要宗派、10以上のキリスト教派に加えてユダヤ教徒も多く居住していました。ヨーロッパでフス派やルター派、またユダヤ教徒に対する弾圧があったとき、多くの人がオスマン帝国の領内に移住したほどです。
背景には、かなりの程度自治を認めるオスマン帝国の統治政策があり、人々はほとんどの場合、オスマン帝国に税を納めながら、同じ宗教や文化の人たち同士で小さな社会を作って生活することができたのです。この共存体制は、フランス革命とナポレオンの影響で民族主義が高まり、ギリシア王国を筆頭にいくつもの民族が独立のための戦いを始めるまで続きました。
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