ブルガリアは他の東欧諸国と比べ、親ソ連の体制を維持したため、ポーランドやチェコのような反ソ暴動などもなく、比較的体制基盤は安定していました。そのソ連への親密ぶりは「ソ連16番目の共和国」と揶揄されたほどです。
しかし84年にトルコ系住民に対して強制的な民族同化政策をとったことで潮目が変わります。この政策によりトルコ系住民のトルコへの大量流出を招き、労働力不足による経済悪化から、政権基盤が大きく揺らいだのです。
そして89年、東欧における民主化の波がブルガリアに押し寄せると、11月10日(ベルリンの壁崩壊の前日)、54年以来、実に35年間も独裁者として君臨していたジフコフが失脚しました。
35年にわたりブルガリアの最高指導者として君臨したトドル・フリストフ・ジフコフ
政権交代の後に一党独裁が放棄され、91年の自由選挙にて社会党(共産党)が下野。社会主義体制に終止符が打たれたのです。
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