コペルニクス(1473年 - 1543年)はポーランドの天文学者で、「地動説(太陽中心説)」の提唱者として知られる人物です。コペルニクスはトルンの商人の息子で、クラクフ大学で受けた天文学の講義で宇宙観について考えるようになりました。その後イタリア留学中に古代ギリシアの文献を調べる中で、アリスタルコスやプトレマイオスの太陽中心説に影響を受け、当時支配的だった天動説(天体は地球を中心に回っているとする説)に疑問を抱くようになったようです。そして死の直前の1543年地動説を証明する『天体の回転について』の全編が刊行され、当時の天文学に激震を与えました。彼は近代科学成立のきっかけと作ったという意味でも非常に重要な役割を果たしたのです。
コペルニクス最大の功績といえば、やはり地動説の証明があげられるでしょう。地動説(太陽中心説)自体は古代においてもアリスタルコスらに主張されていましたが、彼の死後は忘れ去られ、中世にはいるとキリスト教の影響によりタブー視すらされるようになりました。天動説にもとづく宇宙観が、当時のキリスト教の価値観に合致していたためです。
しかしコペルニクスはキリスト教が存在しなかった古代ギリシア・ローマの古典に触れる中で、太陽中心説を信じるようになりました。そして肉眼による天体観測にもとづき、死の直前『天体の回転について』を刊行し地動説を証明。天文学に絶大な影響をもたらし、近代科学成立のきっかけを作ったのです。
コペルニクスが生きたのは1473年〜1543年、ガリレオが生きたのは1564年〜1642年。コペルニクスの死の約20年後にガリレオが生まれているので、直接的な関係はありません。しかしコペルニクスはアリスタルコス以来封印されていた地動説を再び表舞台に引っ張り出し体系化、それをガリレオが補完して完成させた、という世代を超えた関係性は非常に重要です。
天動説は当時のキリスト教の教義に取り込まれていたので、共に大反発に合いましたが、コペルニクスは特にお咎めがなかったのに対し、ガリレオは宗教裁判にかけられ自説の封印を命じられています。そのためコペルニクスは充実したまま生涯を終えているのに対し、ガリレオは不遇の晩年を送っています。
この処遇の違いは、2人の性格の違いにあるといわれていますね。コペルニクスが自説を維持したまま、教会の機嫌を損ねないように慎重なふるまいをしていたのに対し、ガリレオは論争好きで忖度しなかった為、正面から教会を敵に回してしまったのです。
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