
バチカンの国旗
バチカンの国土
バチカン市国は、南ヨーロッパの イタリア中部の都市ローマに囲まれた領域に位置する 首長公選制国家です。ローマ教皇が統治する世界最小(0.44平方キロメートル)の独立国およびカトリックの総本山として知られます。国土は ローマ歴史地区、教皇領などで構成され、気候区は 地中海性気候に属しています。
この国はその性質上、利益追求の産業活動は行われていません。しかし出版業や切手販売、カトリック信者からの募金、バチカン美術館・バチカン宮殿・サンピエトロ大聖堂など観光資源を背景にした観光収入、出版物・制服の販売などで国家財政が賄われています。
そんな バチカンの歴史は、8世紀半ば、カトリック教会の本拠地として建設されたローマ教皇が統治する教皇領から始まるといえます。教皇領は成立後、フランスなどカトリック国の保護下で(時には対立しながらも)発展。中世から近代にかけイタリア中部広域に勢力を持っていましたが、19世紀半ばにイタリア統一戦争が始まるとイタリア王国軍が教皇領の大部分を占領してしまいます。以後ローマ教皇とイタリア政府との間に50年近い断絶が生じるも、20世紀になってようやくラテラン(ラテラノ)協定で和解し、バチカンを領土とする主権国家として独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなバチカンの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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イエス・キリストの使徒の一人ペテロが、皇帝ネロによるキリスト教徒迫害の中で殉教する。
ミラノ勅令により、ローマ帝国においてキリスト教が公認される。これを受けローマ司教は「聖ペテロの後継者」を宣言し、教皇として全カトリック教会に対し強い影響力を持つようになる。
コンスタンティヌス1世によって、聖ペトロの墓所とされたバチカンの丘にサン・ピエトロ大聖堂が建設される。このサン・ピエトロ大聖堂を中心としたローマ教会の私領がバチカンの原型である。
西ローマ帝国がゲルマン民族の傭兵隊長オドアケルにより滅ぼされる。ローマ教会はイタリア半島に大挙するゲルマン民族の圧力にさらされるようになった。
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フランク王国のピピン3世が、ローマ教皇にランゴバルド王国から奪取したラヴェンナ地方を寄進する。これによってローマ教皇領が成立し、封建制全盛の中世ヨーロッパにおいて強い影響力を持つようになる。
ランゴバルド王国による教皇領への侵攻を受け、救援のためフランク王国カール1世はイタリア遠征を敢行。これによりランゴバルド王国は滅び、教皇領の権力基盤はいっそう堅固なものとなった。
教皇レオ3世は、西ヨーロッパ全域を支配下に入れたフランク王カール1世をローマ帝国の継承者であると認め、帝冠を授けた。
東フランク王のオットー1世が、教皇ヨハネス12世よりローマ皇帝の帝冠を授けられる。これにより神聖ローマ帝国(ドイツやオーストリアの前身)が成立した。
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ナポレオンのイタリア戦役により、イタリア北部がフランスの支配下に入り、同地域にはフランスの衛星国チザルピーナ共和国が建国された。バチカンもその支配下に入る。
教皇権を否定するフランス革命思想に共感するローマ市民により、ローマ共和国の成立が宣言される。ナポレオンはこれを承認後、バチカンを占領した。
ナポレオン没落後、戦後ヨーロッパ秩序を話し合うウィーン会議の中で、フランス革命以前の教皇領の復活が決定された。
イタリア統一運動の結果、イタリア王国が成立し、教皇領の大部分が同王国に併合された。これに端を発するローマ教皇庁とイタリア王国政府の対立をローマ問題と呼び、1929年ラテラノ条約で和解が成立するまで続いた。
トリエント公会議以来300年ぶりの公会議「第1バチカン公会議」を開き、フランス革命に端を発する近代革命世界を否定する立場を確認した。
同年普仏戦争が勃発すると、教皇領の護衛を任されていたフランス軍が撤退し、残っていた教皇領も全てイタリア軍が占領。これにより事実上教皇領は滅亡した。またイタリア軍に包囲されたピウス9世は自らを「バチカンの囚人」であると宣言し、国王を始めとしたイタリア政府関係者を全員破門に処した。
イタリアのファシスト政権との間でラテラノ条約が結ばれ、和解が成立。この条約によりバチカン周辺における教皇の主権が認められバチカン市国が成立した。
ドイツとバチカンの間で、ドイツ国内におけるカトリックの権利を保護するコンコルダート(政教条約)が締結される。しかしナチスは結局カトリックに対する圧迫をやめなかった。
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