アナーニ事件

アナーニ事件

アナーニ事件とは、1303年、司教任命権をめぐる対立を発端として、ローマ教皇ボニファチウス8世が、フランス国王フィリップ4世の命でローマ南東のアナーニで捕らえられ不当に監禁、解放後まもなく“憤死”にいたった事件です。この事件は王権の拡大と教皇権の衰退を象徴する出来事でもあり、絶対王政が確立される原因の一つとなりました。

 

 

 

アナーニ事件の場所

 

アナーニ事件の舞台となったのは、その名の通りローマ市南東のアナーニと呼ばれる町です。もともとはヘルニキ族が暮らす土地でしたが、前4世紀にローマに征服され、帝政時代は皇帝の避暑地となっていました。快適で過ごしやすかったことから、教皇領となった後でも、教皇が好んで滞在するようになっていたのですね。

 

アナーニ事件の原因

事件は、対英戦争の軍費を集めるため聖職者に対する課税を強行したフィリップ4世(在位:1285年−1314年)と、それに反発した教皇ボニファティウス8世の対立が発端です。教皇はフランス王フィリップ4世を破門しようとしましたが、フィリップ4世は先手を打ち私兵をアナーニに派遣。教皇を襲い軟禁し、退位を迫ったのです。

 

フィリップ4世の刺客に連行されるボニファティウス8世

 

教皇の死

教皇は軟禁された3日後にアナーニの住民により救出されましたが、その数週間後に病に伏せり死亡しました。幽閉中に暴力をふるわれ多大な屈辱を味わい、解放されても憤怒の中で死んだため、彼の死は“憤死”と表現されます。実際の死因は、高齢と長年の不健康な生活による腎臓病(結石)だったといわれています。

 

アナーニ事件の影響

当時すでに、十字軍の度重なる失敗を受け教皇権は衰退の一途を辿っていましたが、それにトドメをさすきっかけを作ったのがアナーニ事件といえます。事件の後、フィリップ4世はローマ教会に圧力をかけ、クレメンス5世をアヴィニョンへ移住させ、支配下においています。このいわゆる「アビニョン捕囚」とそれに連なる「教会大分裂」で、教皇の権威や信用は地に落ち、代わりに王権が伸長したことで、絶対王政の基盤が築かれていったのです。