クロアチアの歴史年表

クロアチアの国旗

 

クロアチアの国土

 

クロアチア(正式名称:クロアチア共和国)は、東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和制国家です。国土はアドリア海沿岸のバルカン半島の一部と沿岸の島々で構成され、気候区は地中海性気候に属しています。首都は中世の世界に迷い込んだような街並みが人気のザグレブ。
この国ではとくに工業が発達しており、中でも金属加工や電子機器の生産がさかんです。また中央ヨーロッパとアドリア海を結ぶ交通の要衝であることを背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。
そんなクロアチア共和国の歴史は、7世紀頃の南スラブ民族クロアチア人の定住から始まるといえます。クロアチア人は徐々に勢力を拡大しクロアチア王国を建設しました。その後はハンガリーオーストリアによる支配を経て1918年にユーゴスラビアの構成国に。戦後はセルビアとの対立激化からユーゴスラビア連邦からの脱退を宣言。クロアチア共和国として独立し現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなクロアチア共和国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

クロアチアの歴史年表

 

古代クロアチア

古代クロアチアの特徴は、多様な文化の影響を受けた歴史と地理的要因による戦略的な重要性が挙げられます。紀元前6世紀から4世紀にかけて、クロアチアの沿岸部にはギリシャ人が植民都市を築き、これによりギリシャ文化の影響が広がりました。続いて、紀元前1世紀にはローマ帝国がクロアチアを征服し、ダルマチア州として統治しました。この時期、ローマの道路網や都市計画が導入され、ポレッチやスプリト、ドゥブロヴニクなどの都市が発展しました。

 

ローマ時代のクロアチアは、交易の要所として繁栄し、地中海世界との経済的・文化的交流が活発に行われました。ローマの影響により、公共建築やインフラが整備され、アドリア海沿岸の都市は重要な商業拠点となりました。ディオクレティアヌス宮殿(現スプリト)はその象徴です。

 

4世紀から7世紀にかけて、ローマ帝国の衰退とともに、ゲルマン民族やスラヴ民族の移動が活発になり、クロアチアにもスラヴ人が定住するようになりました。これにより、クロアチアの文化と民族構成に大きな変化がもたらされました。

 

古代クロアチアは、ギリシャ・ローマ文化とスラヴ文化が交錯する中で形成され、その多様な歴史的背景は後の中世クロアチアの発展に大きな影響を与えました。

 

前4世紀 マケドニア王国の支配下に

アレクサンドロス大王率いるマケドニア王国の支配下に入る。

 

前2世紀 ローマの支配下に

マケドニア王国が西方より勢力を拡大してきたローマとの戦争に敗れ、クロアチア含めたマケドニア領がローマ属州に編入される。

 

中世クロアチア

6〜7世紀頃 サバ川上流域にクロアチア人が定住

パンノニア方面からクロアチア人の移住が開始された。地元のスラブ系部族と交流しながら農地を開拓し、統一された部族連合を形成した。この地域での定着は、後のクロアチア公国成立の基盤となった。

 

925年 クロアチア王国の成立

トミスラヴによりクロアチア人の統一国家クロアチア王国が建国される。この時期にトミスラヴは周辺のスラブ部族と成功裏に同盟を結び、強力な中央集権国家を形成した。彼の治世下でクロアチアは軍事的、政治的に大きな力を持ち、ビザンツ帝国やフランク王国とも外交関係を築いた。

 

1102年 ハンガリーの支配下に

トミスラヴの死後、クロアチア王国は急速に衰退していき、1102年からはハンガリー王がクロアチア王も兼ねることで、事実上ハンガリーによる支配を受けることとなった。

 

1242年 モンゴルのクロアチア侵攻

13世紀よりモンゴル帝国が東ヨーロッパをさかんに侵略するようになり、クロアチアもモンゴル軍襲来を受け大きな被害を被った。

 

1441年ドゥブロヴニク

ダルマチア最南部に位置し、「アドリア海の真珠」と称されるドゥブロヴニクが共和国として独立する。独立後、ドゥブロヴニクは海洋貿易において重要な役割を果たし、特に地中海貿易での繁栄を極めた。また、外交においても独自の立場を保ち、オスマン帝国やヴェネツィア共和国と巧みにバランスを取りながら自由を守り抜いた。

 

近世クロアチア

近世クロアチアの特徴は、オスマン帝国との戦争、ハプスブルク帝国との連携、そして文化的・宗教的影響の多様性が挙げられます。15世紀から17世紀にかけて、クロアチアはオスマン帝国の侵攻に直面し、激しい戦闘が繰り広げられました。この時期、クロアチアの多くの地域がオスマン帝国の支配下に入りましたが、一部の地域はハプスブルク帝国の援助を受けて抵抗を続けました。

 

オスマン帝国の支配下では、クロアチアの一部はイスラム教の影響を受け、文化的な多様性が増しました。一方、ハプスブルク帝国の支配地域では、カトリック教会の影響が強まり、クロアチアの宗教的アイデンティティが形成されました。

 

この時期、クロアチアの防衛のために軍事境界地帯が設けられ、ハプスブルク帝国の軍事力が強化されました。これにより、クロアチアはハプスブルク帝国の重要な防衛拠点となり、オスマン帝国との戦争において重要な役割を果たしました。

 

また、クロアチアの都市部ではルネサンスやバロックの影響を受けた建築や芸術が発展しました。特に、ドゥブロヴニク共和国は商業と文化の中心地として繁栄し、ヨーロッパ中から商人や学者が集まりました。近世クロアチアは、多様な文化的・宗教的影響を受けながらも、独自のアイデンティティを形成し続けました。

 

1526年頃 オスマン帝国による支配

1526年、宗主のハンガリーが新興のオスマン帝国に敗れ、クロアチアも大部分がオスマン帝国の支配下に入ることとなる。

 

1566年 スィゲトヴァール包囲戦

クロアチア総督ニコラ・シュビッチ・ズリンスキが、スィゲトヴァールの防衛を任され、10万のオスマン軍に対し2500の兵力で立ち向かった。結果は打ち死にとなったが、その戦いぶりは古代ギリシアのテルモピュライの戦いで壮絶な戦死を遂げたレオニダス王に例えられ、「ダルマチアのレオニダス」と賞賛された。

 

1670年ズリンスキ=フランコパンの反乱

クロアチア総督ペータル・ズリンスキが、ハプスブルク家に対する反乱を企てるも、未然に阻止され、翌年反逆罪で処刑される。

 

1718年クロアチア人の大規模移動

パッサロヴィッツ条約によりダルマチアの一部がヴェネツィアに割譲されたことで、クロアチア人らの大規模移動を引き起こした。

 

近代クロアチア

近代クロアチア(19世紀〜1980年代)の特徴は、ナショナリズムの台頭、オーストリア=ハンガリー帝国の支配、ユーゴスラビア王国および社会主義連邦の一部としての経験が挙げられます。

 

19世紀、クロアチアはオーストリア=ハンガリー帝国の一部として統治されていました。この時期、クロアチアの知識人や政治家はナショナリズム運動を推進し、クロアチアの自治と文化的アイデンティティの確立を目指しました。イルリリア運動はその代表的な例です。

 

第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、クロアチアはセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)の一部となりました。この新しい国家の中で、クロアチアはセルビア主導の中央集権的な政治に反発し、自治権を求める動きが続きました。

 

第二次世界大戦中、クロアチアはナチス・ドイツの支援を受けて独立国クロアチアを宣言しましたが、この体制は残虐なウスタシャ政権として悪名高く、多くの戦争犯罪が行われました。戦後、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国が成立し、クロアチアはその構成共和国の一つとなりました。ヨシップ・ブロズ・ティトーの指導のもと、クロアチアは経済的に発展し、比較的安定した時期を迎えました。

 

1980年代には、ユーゴスラビア全体で経済的・政治的な緊張が高まり、クロアチアでも独立と民主化を求める声が強まっていきました。この時期は、後のクロアチア独立運動の土台となる重要な時代となりました。

 

1809年 フランスの支配下に

ナポレオン戦争の中、ナポレオン軍による侵攻を受けドゥブロヴニク共和国は崩壊。クロアチアは「フランス領イリリア諸州」の一部となった。ナポレオン法典のもと、クロアチア語の使用などある程度の自治を与えられていた。

 

1815年 ハプスブルク帝国に復帰

ナポレオンの失脚、フランス帝国崩壊にともない、ハプスブルク帝国(が支配するハンガリー)の支配に戻る。ナポレオン統治下で芽生えたクロアチア人としての民族意識は、ウィーン体制下で弾圧されるようになる。

 

1835年 イリュリア運動の開始

1835年にリュデヴィト・ガイが「ノヴィ・イリルスキ・カレンダール」(新イリュリア暦)を出版したことをきっかけに、クロアチアの文化的・政治的な統一を目指す運動「イリュリア運動」が開始される。名前の由来は古代のイリュリア人に由来し、広範な南スラブ民族の連帯を象徴している。運動の主要な目的は、クロアチア語の普及と標準化、民族意識の高揚、そしてオーストリア=ハンガリー帝国下でのクロアチアの自治権獲得だった。主導者にはリュデヴィト・ガイが含まれ、彼の努力により、クロアチア語の文学や教育の分野で大きな進展が見られた。

 

イリュリア運動は、オーストリア=ハンガリー帝国の反動的政策により次第に抑圧され、1850年代には衰退しました。それでも、イリュリア運動はクロアチア民族主義の基礎を築き、後の独立運動に大きな影響を与えたことは重要です。

 

1848年 独立革命

フランスで起きた二月革命の影響が波及し、クロアチアでも独立革命が勃発する。クロアチア議会ではクロアチア、ダルマチアの統合やクロアチア語の公用語化、身分制議会の廃止などが要求されたが、ハプスブルク帝国により鎮圧された。民族意識の高揚にともない、クロアチア人・セルビア人らの共通言語「セルビア・クロアチア語」の形成が急速に進行した。

 

1850年言語協定の締結

民族意識の高まりの中、言語協定(ウィーン合意)によりクロアチア語の基礎が築かれる。

 

1868年 「協約(ナゴドバ)」の締結

クロアチアとハンガリーとの間で「協約(ナゴドバ)」が結ばれ、ハンガリー推薦の総督を受け入れることを条件にクロアチアに一定の自治が認められるようになる。

 

1905年リエカ合意/ザダル決議

クロアチア議会において「クロアチア・セルビア人連合宣言」が行われ、クロアチア議会の5つの政党によりクロアチア・セルビア連合が結成される。

 

1909年ザグレブ事件

ハプスブルク帝国の影響力排除を目的とした、30名以上の統一運動家(クロアチア人、セルビア人)が逮捕されるザグレブ事件が発生し、セルビア、クロアチア統一の気運はいっそう高まっていくこととなった。

 

1914年ニシュ宣言

第一次世界大戦中、セルビア政府がニシュ宣言を発表し、戦争目的を「クロアチア人、セルビア人、スロベニア人らの解放と統一」と規定した。

 

1918年 ユーゴスラビアの構成国に

ハプスブルク帝国の崩壊にともない、同帝国の支配から解放されたクロアチア、セルビア、スロベニアらが連合し、ユーゴスラビア王国が成立した。

 

1920年 ラパッロ条約

イタリアとユーゴスラビアとの間でラパッロ条約が結ばれ、友好と引き換えに一部領土がイタリアに割譲された。

 

1929年 独裁政権の樹立

ユーゴスラビア王アレクサンドル1世により議会停止、憲法停止が宣言され、事実上の独裁政権が樹立される。

 

1939年クロアチア自治州の成立

ユーゴスラビア王国首相ツヴェトコヴィチとクロアチア農民党党首マチェクとの間で結ばれた協定「スポラズム(協定)」にもとづきクロアチア自治州が設立された

 

1941年 枢軸国の支配下に/クロアチア独立国の成立

第二次世界大戦中、枢軸国によるユーゴスラビア侵攻を受け、ドイツイタリアハンガリールーマニアブルガリアなどにより分割占領されることとなった。占領後、ドイツ傀儡のクロアチア独立国の建国が宣言されると同時に、チトーらパルチザンによる抵抗運動も開始された。

 

1945年 パルチザンにより解放/クロアチア人民共和国の成立

パルチザンによりクロアチアから枢軸国勢力が一掃され、ユーゴスラビア連邦人民共和国の構成国としてクロアチア人民共和国の建国が宣言される。

 

1967年 クロアチアの春

ザグレブ大学の学生達によりクロアチアの国連加盟やクロアチア軍創設を訴える「クロアチアの春」と呼ばれる大規模なデモが発生。以来ユーゴスラビア中央政府は反乱を防ぐために自治州の権限を強化した。

 

1974年 新憲法の採択

 

現代クロアチア

現代クロアチア(1989年以降)の特徴は、独立、戦争、そして欧州統合のプロセスにあります。1989年の東欧革命により、クロアチアでも共産主義体制が終焉を迎えました。1991年にユーゴスラビアから独立を宣言しましたが、それに伴いユーゴスラビア連邦軍とセルビア勢力との間でクロアチア独立戦争が勃発しました。この戦争は1995年まで続き、クロアチアは多くの犠牲を払いながらも独立を確立しました。

 

戦後、クロアチアは復興と国際的な認知を進めました。1990年代後半から2000年代初頭にかけて、民主主義の定着と市場経済への移行が推進されました。2009年にはNATOに加盟し、2013年には欧州連合(EU)に加盟することで、国際的な地位を確立しました。

 

経済面では、観光業が重要な柱となり、美しいアドリア海沿岸や豊かな文化遺産が多くの観光客を引き寄せています。また、インフラ整備や外国直接投資の増加により、経済成長が進みました。政治面では、EUの基準に沿った法改革や汚職対策が進められています。

 

現代クロアチアは、EUの一員として安定した民主主義国家を目指し、国際社会との連携を強化しながら発展を続けています。

 

1989年 クロアチア民主同盟の結成

 

1991年 ユーゴスラビアからの独立宣言/クロアチア紛争

ユーゴスラビア中央政府への不満から、クロアチア共和国として独立を宣言。独立を阻止したい連邦軍との間で武力衝突が置き、クロアチア紛争に発展した。

 

1992年 クロアチアの独立が承認

1991年にユーゴスラビアからの独立を宣言したクロアチアは、1992年に国際社会から正式に独立国として承認された。この承認は、クロアチアが国際的な主権を確立する重要なステップだった。

 

1992年 国連に加盟

クロアチアは独立が承認された同年に国連に加盟した。これは国際社会におけるクロアチアの存在を正式に認めるもので、その地位を固める上で重要な役割を果たした。

 

1993年 日本との国交樹立

クロアチアは1993年に日本と正式に国交を樹立し、両国間の外交関係を開始した。これにより、経済的および文化的な交流が促進された。

 

1995年 嵐作戦/デイトン和平合意の締結

セルビア人に占領されたクロアチアを奪還すべく、クロアチア人による大攻勢「嵐作戦」が敢行される。その結果30万人以上のセルビア人がクロアチアを追放され、デイトン和平合意によりクロアチア紛争は終結した。

 

1996年 欧州評議会に加盟

クロアチアは1996年に欧州評議会に加盟し、人権、法の支配、民主主義の基準に沿った国内改革を進めることになった。これは、欧州の一員としてのクロアチアの地位をさらに強化した。

 

2000年 世界貿易機関(WTO)に加盟

クロアチアは2000年にWTOに加盟し、国際貿易のルールに基づいた経済活動を展開することになった。これにより、クロアチア経済のグローバル化が進んだ。

 

2013年 欧州連合(EU)に加盟

クロアチアは2013年に欧州連合(EU)に加盟し、経済的および政治的に欧州の一部としての地位を確固たるものにした。EU加盟はクロアチアにとって重要なマイルストーンであり、経済成長と地域内での影響力増大に寄与している。

 

クロアチアの歴史は、古代から現代にかけて多様な文化と政治的変動の中で形成されました。古代には、ギリシャ植民都市やローマ帝国の統治下で発展し、特にアドリア海沿岸の都市が繁栄しました。中世には、東ローマ帝国、ハンガリー王国、ヴェネツィア共和国などの支配を受けつつも、クロアチア王国としての独自性を保ちました。

 

15世紀から17世紀にかけて、オスマン帝国の侵攻に対してハプスブルク帝国と連携して抵抗し、オスマン帝国とハプスブルク帝国の間で戦略的な要所となりました。19世紀にはナショナリズムが台頭し、イリュリア運動を通じて文化的アイデンティティと自治権の確立を目指しました。

 

20世紀初頭には、第一次世界大戦後にユーゴスラビア王国の一部となり、第二次世界大戦中にはナチス・ドイツの支援を受けて独立国クロアチアが成立しましたが、戦後はユーゴスラビア社会主義連邦共和国に編入されました。1991年に独立を宣言し、クロアチア独立戦争を経て主権国家となりました。

 

現代のクロアチアは、EUとNATOのメンバーとして国際社会に積極的に参加し、観光業や経済成長を推進しつつ、民主主義の発展を続けています。この多様な歴史を経て、クロアチアは豊かな文化と強いアイデンティティを持つ国家として成長しました。