クロアチアの歴史年表

クロアチアの国旗

 

クロアチアの国土

 

クロアチア(正式名称:クロアチア共和国)は、東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和制国家です。国土はアドリア海沿岸のバルカン半島の一部と沿岸の島々で構成され、気候区は地中海性気候に属しています。首都は中世の世界に迷い込んだような街並みが人気のザグレブ。
この国ではとくに工業が発達しており、中でも金属加工や電子機器の生産がさかんです。また中央ヨーロッパとアドリア海を結ぶ交通の要衝であることを背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。
そんなクロアチア共和国の歴史は、7世紀頃の南スラブ民族クロアチア人の定住から始まるといえます。クロアチア人は徐々に勢力を拡大しクロアチア王国を建設しました。その後はハンガリー、オーストリアによる支配を経て1918年にユーゴスラビアの構成国に。戦後はセルビアとの対立激化からユーゴスラビア連邦からの脱退を宣言。クロアチア共和国として独立し現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなクロアチア共和国の歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

クロアチアの歴史年表

 

古代クロアチア

前4世紀 マケドニア王国の支配下に

アレクサンドロス大王率いるマケドニア王国の支配下に入る。

 

前2世紀 ローマの支配下に

マケドニア王国が西方より勢力を拡大してきたローマとの戦争に敗れ、クロアチア含めたマケドニア領がローマ属州に編入される。

 

中世クロアチア

6〜7世紀頃 サバ川上流域にクロアチア人が定住

パンノニア方面からクロアチア人の移住が開始された。

 

925年 クロアチア王国の成立

トミスラヴによりクロアチア人の統一国家クロアチア王国が建国される。

 

1102年 ハンガリーの支配下に

トミスラヴの死後、クロアチア王国は急速に衰退していき、1102年からはハンガリー王がクロアチア王も兼ねることで、事実上ハンガリーによる支配を受けることとなった。

 

1242年 モンゴルのクロアチア侵攻

13世紀よりモンゴル帝国が東ヨーロッパをさかんに侵略するようになり、クロアチアもモンゴル軍襲来を受け大きな被害を被った。

 

1441年ドゥブロヴニク

ダルマチア最南部に位置し、「アドリア海の真珠」と称されるドゥブロヴニクが共和国として独立する。

 

近世クロアチア

1526年頃 オスマン帝国による支配

1526年、宗主のハンガリーが新興のオスマン帝国に敗れ、クロアチアも大部分がオスマン帝国の支配下に入ることとなる。

 

1566年 スィゲトヴァール包囲戦

クロアチア総督ニコラ・シュビッチ・ズリンスキが、スィゲトヴァールの防衛を任され、10万のオスマン軍に対し2500の兵力で立ち向かった。結果は打ち死にとなったが、その戦いぶりは古代ギリシアのテルモピュライの戦いで壮絶な戦死を遂げたレオニダス王に例えられ、「ダルマチアのレオニダス」と賞賛された。

 

1670年ズリンスキ=フランコパンの反乱

クロアチア総督ペータル・ズリンスキが、ハプスブルク家に対する反乱を企てるも、未然に阻止され、翌年反逆罪で処刑される。

 

1718年クロアチア人の大規模移動

パッサロヴィッツ条約によりダルマチアの一部がヴェネツィアに割譲されたことで、クロアチア人らの大規模移動を引き起こした。

 

近代クロアチア

1809年 フランスの支配下に

ナポレオン戦争の中、ナポレオン軍による侵攻を受けドゥブロヴニク共和国は崩壊。クロアチアは「フランス領イリリア諸州」の一部となった。ナポレオン法典のもと、クロアチア語の使用などある程度の自治を与えられていた。

 

1815年 ハプスブルク帝国に復帰

ナポレオンの失脚、フランス帝国崩壊にともない、ハプスブルク帝国(が支配するハンガリー)の支配に戻る。ナポレオン統治下で芽生えたクロアチア人としての民族意識は、ウィーン体制下で弾圧されるようになる。

 

1848年 独立革命

フランスで起きた二月革命の影響が波及し、クロアチアでも独立革命が勃発する。クロアチア議会ではクロアチア、ダルマチアの統合やクロアチア語の公用語化、身分制議会の廃止んだおが要求されたが、ハプスブルク帝国により鎮圧された。民族意識の高揚にともない、クロアチア人・セルビア人らの共通言語「セルビア・クロアチア語」の形成が急速に進行した。

 

1850年言語協定の締結

民族意識の高まりの中、言語協定(ウィーン合意)によりクロアチア語の基礎が築かれる。

 

1868年 「協約(ナゴドバ)」の締結

クロアチアとハンガリーとの間で「協約(ナゴドバ)」が結ばれ、ハンガリー推薦の総督を受け入れることを条件にクロアチアに一定の自治が認められるようになる。

 

1905年リエカ合意/ザダル決議

クロアチア議会において「クロアチア・セルビア人連合宣言」が行われ、クロアチア議会の5つの政党によりクロアチア・セルビア連合が結成される。

 

1909年ザグレブ事件

ハプスブルク帝国の影響力排除を目的とした、30名以上の統一運動家(クロアチア人、セルビア人)が逮捕されるザグレブ事件が発生し、セルビア、クロアチア統一の気運はいっそう高まっていくこととなった。

 

1914年ニシュ宣言

第一次世界大戦中、セルビア政府がニシュ宣言を発表し、戦争目的を「クロアチア人、セルビア人、スロベニア人らの解放と統一」と規定した。

 

1918年 ユーゴスラビアの構成国に

ハプスブルク帝国の崩壊にともない、同帝国の支配から解放されたクロアチア、セルビア、スロベニアらが連合し、ユーゴスラビア王国が成立した。

 

1920年 ラパッロ条約

イタリアとユーゴスラビアとの間でラパッロ条約が結ばれ、友好と引き換えに一部領土がイタリアに割譲された。

 

1929年 独裁政権の樹立

ユーゴスラビア王アレクサンドル1世により議会停止、憲法停止が宣言され、事実上の独裁政権が樹立される。

 

1939年クロアチア自治州の成立

ユーゴスラビア王国首相ツヴェトコヴィチとクロアチア農民党党首マチェクとの間で結ばれた協定「スポラズム(協定)」にもとづきクロアチア自治州が設立された。

 

1941年 枢軸国の支配下に/クロアチア独立国の成立

第二次世界大戦中、枢軸国によるユーゴスラビア侵攻を受け、ドイツ、イタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリアなどにより分割占領されることとなった。占領後、ドイツ傀儡のクロアチア独立国の建国が宣言されると同時に、チトーらパルチザンによる抵抗運動も開始された。

 

1945年 パルチザンにより解放/クロアチア人民共和国の成立

パルチザンによりクロアチアから枢軸国勢力が一掃され、ユーゴスラビア連邦人民共和国の構成国としてクロアチア人民共和国の建国が宣言される。

 

1967年 クロアチアの春

ザグレブ大学の学生達によりクロアチアの国連加盟やクロアチア軍創設を訴える「クロアチアの春」と呼ばれる大規模なデモが発生。以来ユーゴスラビア中央政府は反乱を防ぐために自治州の権限を強化した。

 

1974年 新憲法の採択

 

現代クロアチア

1989年 クロアチア民主同盟の結成

 

1991年 ユーゴスラビアからの独立宣言/クロアチア紛争

ユーゴスラビア中央政府への不満から、クロアチア共和国として独立を宣言。独立を阻止したい連邦軍との間で武力衝突が置き、クロアチア紛争に発展した。

 

1992年 クロアチアの独立が承認

 

1992年 国連に加盟

 

1993年 日本との国交樹立

 

1995年 嵐作戦/デイトン和平合意の締結

セルビア人に占領されたクロアチアを奪還すべく、クロアチア人による大攻勢「嵐作戦」が敢行される。その結果30万人以上のセルビア人がクロアチアを追放され、デイトン和平合意によりクロアチア紛争は終結した。

 

1996年 欧州評議会に加盟

 

2000年 世界貿易機関(WTO)に加盟

 

2013年 欧州連合(EU)に加盟