大カトが政界への影響力を持ち始めたのは、ローマとカルタゴが衝突した第二次ポエニ戦争(前219年〜前201年)の終結直後からです。
ローマはこの戦争に勝ちはしたものの、アルプス越えを果たしたハンニバル軍団に大いに苦しめられたトラウマが残っていました。カルタゴの第二次ポエニ戦争からの復興も思いのほか早く、いつまたローマの脅威として立ちはだかってもおかしくない状況でした。
そんな中、対カルタゴ強硬論者の一人であったカトは、元老院の議会のたびに、カルタゴの脅威を訴えて、演説の内容に直接関係なくとも、最後に「カルタゴは滅ぶべきである(Delenda est Carthago)」と付け加えたそうです。
カタパルトによりカルタゴの城壁を攻撃するローマ兵の様子。木材の柱には大カトの有名な台詞「カルタゴは滅ぶべきである(Delenda est Carthago)」と書かれている。(エドワード・ポインター画)
ある時は、カルタゴ産の新鮮なイチジクを見せて「こんな立派なイチジクを育てる国が3日の距離にある。」と言い、身近な日常にからめてカルタゴの脅威を訴えました。
そして実際、カトの死後まもなく、第三次ポエニ戦争の結果により、「カルタゴ滅ぶべし」という彼の悲願は実現されることになったのです。
1497年頃に描かれた大カトの絵画(ペルジーノ画)
|
|
|
|