東ローマ帝国の最盛期を現出したとされるバシレイオス2世
395年の成立から1453年の滅亡まで1000年以上の歴史をもつ東ローマ帝国。そんな長い歴史をもつ東ローマ帝国には12王朝92代の皇帝(対立皇帝や共同皇帝は含まず正帝のみ)が現れました。
東ローマ帝国史上最大の領土を築き後世に「大帝」と呼ばれたユスティニアヌス1世、テマ制を整備し公用語をラテン語からギリシア語にしたヘラクレイオス1世、ウマイヤ朝の撃退や聖像禁止令を発したレオン3世など、歴史に名を遺す皇帝は多いですが、中でも皇帝バシレイオス2世(在位:976年〜 1025年)は、東ローマ帝国の帝国の最盛期を築いたことで知られます。
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バシレイオス2世は東ローマ帝国マケドニア王朝の第9代皇帝です。958年にマケドニア王朝第6代皇帝ロマノフ2世の子として生まれ、バシレイオス2世が5歳の時に父ロマノフ2世が亡くなると、ニケフォロス2世、ヨハネス1世の2代にわたり飾り物の皇帝(共同皇帝)として過ごします。976年にはヨハネス1世の死に伴って正帝に即位しますが、大叔父バシレイオス・レカペノスが実権を握っていました。
幼少期から少年期までは飾り物の皇帝ではありましたが、986年から987年にかけては大叔父の追放や軍事貴族の反乱を平定するなどし実権を握るようになりました。以降、皇帝バシレイオス2世は外交・内政の両面で国家を安定させ、1025年に亡くなるまでの50年間帝位の座に就くことになります。
バシレイオス2世の最大の功績は、宿敵の第一次ブルガリア帝国(681年〜1018年)をはじめとする周辺諸国を征服し国家に安定をもたらしたことです。
第一次ブルガリア帝国は現在のブルガリアを中心とした位置にあり、最盛期にはシメオン1世のもとバルカン半島東部まで勢力を広げていました。バルカン半島に関しては東ローマ帝国と第一次ブルガリア帝国の間では8世紀からその土地の保有を巡って争っていたのです。
バシレイオス2世も即位直後からブルガリア帝国との戦いに出兵し、986年のトラヤヌスの門の戦い(現在のブルガリア・ソフィア周辺)では、ブルガリアの奇襲を受け多大な損害を被ります。トラヤヌスの門の戦いの敗北はバシレイオス2世を窮地に陥れたとも過言ではなく、戦後にはバルダス・フォカスの反乱などが起こってしまいました。
それでも、バシレイオス2世は反乱を鎮圧し、997年のスペルヒオス川の戦いで勝利すると戦況を一気に有利にすることが出来ます。
そして、1014年のクレディオン峠の戦い(現在のブルガリア・クチュ村近くの谷間)で大勝し東ローマ帝国の勝利を決定的なものにします。この戦いでバシレイオス2世はブルガリア兵の捕虜約一万人の目を潰しブルガリア皇帝サムイルのもとへ送り、それを見たサムイルを卒倒させたことから「ブルガリア人殺し」と呼ばれるようになります。
その後、バシレイオス2世はブルガリアへの攻撃を続け1018年にはブルガリア帝国を滅ぼし、さらには南イタリアやバルカン半島、北シリアといった周辺地域をも支配下に収めました。これにより、ユスティニアヌス王朝第2代皇帝ユスティニアヌス1世(483年〜565年)の時代以来の最大領土を手に入れたのです。まさに東ローマ帝国最盛期の現出といっても良いでしょう。
バシレイオス2世は軍人皇帝として威容を轟かせる存在でありながら、非常に禁欲的な皇帝でもあったと言われています。
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