1度目のウィーン包囲はヨーロッパでのオスマン帝国の軍事的優位を決定的なものにしたのに対し、2度目のウィーン包囲はその優位を完全に失う結果になりました。
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第一次ウィーン包囲は、オスマン帝国を最盛期に導いた皇帝スレイマン一世が行った軍事作戦です。彼は外征を活発に行って領土を順調に拡張しており、バルカン半島を足掛かりにヨーロッパへの進出を狙っていました。
そのころヨーロッパでは、オーストリアとフランスがイタリア戦争を繰り広げていました。神聖ローマ帝国では宗教革命が起こり、フランスは改革派を支援して、オーストリアを含む神聖ローマ帝国の勢力に対抗しようとしました。
フランスは劣勢に立たされますが、スレイマン一世と手を結んでオーストリアを挟撃します。オスマン帝国軍はバルカン半島を手中に収め、ウィーンまで迫りました。ウィーンを陥落させることはできませんでしたが、オスマン帝国のヨーロッパに対する影響力は非常に大きなものとなりました。
第二次ウィーン包囲は、オスマン帝国の政治の実権を握った大宰相カラ・ムスタファが行いました。当時の皇帝は政治に興味がなく、帝国の国力をささえていた優れた政治機構が機能しなくなり、帝国は分裂しつつありました。
オスマン軍は、第一次の時と同様オーストリアとフランスが対立する中、オーストリアの領土内の反乱に乗じてウィーンへ進軍しました。しかし、大宰相の強権政治に対する不満もあってオスマン軍は統率を欠き、最新の堅牢な守備を誇るウィーンの攻城戦に苦戦しました。
結局、1699年のカルロヴィッツ条約で、オスマン帝国は1529年に手に入れた領土のほとんどを失うことになり、ヨーロッパはもはやオスマン帝国を脅威とみなさなくなりました。
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