ディオクレティアヌスとは何をした人?〜専制君主政を樹立〜

305年完成のディオクレティアヌス帝宮殿の再現/アーネスト・エブラール画

 

ディオクレティアヌスの基本情報

 

本名:ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌス
誕生:244年
死没:311年
在位:284年〜305年
先代:カルス
次代:ガレリウス
政策:専制君主政(ドミナートゥス)、テトラルキア(四分統治)

 

ディオクレティアヌス帝はローマ皇帝で、いわゆる「3世紀の危機」を打開し、専制君主政(ドミナートゥス)を樹立した人物として知られます。ダルマチアの貧農の家に生まれ、軍人として東方遠征に参加する中で名声を高めていきました。カルス帝の没後、東方で軍団兵に推挙され皇帝となり、優れた行政手腕で内政・外政を安定化、軍人皇帝時代に終止符を打つのです。

 

彼の治世で特筆すべきは、帝国領を東西に分け、それぞれに正帝(アウグストゥス)・副帝(カエサル)を置き統治を行うテトラルキア(四分統治)を導入したことでしょう。ディオクレティアヌスは小アジアとエジプトを担当し、立法・経済面では統一を保ちつつ、統治を安定させた功績が認められています。一方で治世の末期にはキリスト教徒の大迫害を行っていることも知っておきましょう。

 

ディオクレティアヌスによるキリスト教徒迫害

ディオクレティアヌス(在位:284年〜305年)はキリスト教徒に対する大迫害を行った皇帝として知られています。単発的なキリスト教徒迫害自体はネロ帝の時代から行われていましたが、勅令により会合禁止・聖書焼却・教会破壊・財産没収など本格的な弾圧を開始したのはディオクレティアヌス帝が初です。

 

彼の治世では、皇帝崇拝やローマの神々への崇拝を拒否したキリスト教徒は次々逮捕され、監獄はキリスト教徒で溢れかえっていたといいます。そして剣闘士競技場で火あぶりにされたり、猛獣の餌にされたりと、大変残酷な方法で処刑されたのです。

 

しかしこれだけやっても結局キリスト教の増加を抑えることはできなかったので、次代のコンスタンティヌスはミラノ勅令でキリスト教の公認に踏み切ることとなるわけです。