フランク王国

フランク王国は、西ローマ帝国の崩壊後、北西ヨーロッパに定着したフランク人により建国されたゲルマン系国家です。周囲のゲルマン部族を吸収しながら勢力を拡大し、8世紀末には現在のフランス・ドイツ・イタリア北部にまでまたがる大帝国を築き上げました。9世紀には王国領が3つに分裂し、それがそれぞれ現在のフランス・ドイツ・イタリアの原型になりました。

 

またローマ教会との繋がりから「キリスト教の保護者」の役割を担い、現在の西方カトリック文化圏の基礎を築いたことも、ヨーロッパ史において非常に大きな意味を持ちます。

 

 

フランク王国の社会

構成要因

・フランク人およびその他ゲルマン部族
・旧ローマ系住民

 

経済主体

農業

 

行政制度

伯=グラーフ制度

 

フランク王国の歴史

フランク王国の歴史は、メロヴィング朝時代(5世紀末〜8世紀半ば)とカロリング朝時代(8世紀半ば〜10世紀末)の二期に分けられます

 

メロヴィング朝時代

期間:481年〜751年

 

メロヴィング朝は、クロービスによるガリア統一をもって創始した王朝です。創始者のクロービスがカトリックに改宗することでローマ教会からの後援を得て、王国の基盤を強化し、現在に続く西ヨーロッパ文化圏(カトリック文化圏)の基礎を形成しました。

 

またピレネー山脈を超えてフランク王国内に攻め入ってくるイスラム勢力を、宮宰カール・マルテルがトゥールポワティエの戦い(732年)で撃退し、ヨーロッパキリスト教世界の独立性を守ったことは、ヨーロッパ史でも指折りの偉業として語り継がれています。

 

カロリング朝時代

期間:751年〜987年

 

751年、カール・マルテルの子ピピン3世がメロビング朝を倒し、カロリング朝を創始します。

 

ピピンは756年、イタリア半島のランゴバルド王国を滅ぼし、奪ったラヴェンナ地方をローマ教皇に寄進しました。教皇領というのはこの「ピピンの寄進」から生まれ、またラヴェンナがもともと東ローマ帝国のものであったことから、教皇庁と東ローマ帝国の対立を招きました。

 

ピピンの子カール大帝の治世で急速に勢力を拡大し、800年にはローマ教皇より「西ローマ皇帝」として戴冠を受けたことで、フランク王国は新生西ローマ帝国へと変貌したのです。

 

フランク王国の滅亡

9世紀になると、フランク王国領は、ヴェルダン条約(843年)メルセン条約(870年)により西フランク王国・中フランク王国・東フランク王国に分裂しました。3国のカロリング王家は10世紀末までにすべて断絶し、これをもってフランク王国の歴史は幕引きとされます。

 

フランク王国はキリスト教を受容し、その保護と拡大に努め、分裂後に生まれた三国はそれぞれフランス王国・イタリア王国神聖ローマ帝国へと発展していくなど、その生涯を通して中世ヨーロッパ社会の政治的・宗教的な基盤を形成したのです。

 

 
ページの先頭へ戻る