モナコの歴史年表

モナコの国旗

 

モナコの国土

 

年代 出来事 時代
前6世紀 ギリシア人が植民市「モノイコス」を建設(現モナコ) 古代
前1世紀 ローマ帝国の支配下に入る 古代
5世紀 西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン系や東ローマの影響を受ける 古代末期
12世紀 ジェノヴァ共和国の一部となる 中世
1297年 フランソワ・グリマルディがモナコを占拠(グリマルディ家統治の起点) 中世
1524年 スペイン帝国の保護下に入る 近世
1641年 フランスと保護条約を結び、スペインから離脱 近世
1793年 フランス革命期にフランスに併合される 近代
1814年 ナポレオン失脚後、グリマルディ家の統治が復活 近代
1861年 フランスと条約を締結し正式に独立、領土を縮小し現在の形に 近代
1911年 立憲君主制の憲法を制定 近代
1949年 レーニエ3世が即位、現代モナコの基礎を築く 現代
1993年 国連加盟 現代
2002年 フランスとの条約改定により、王家が断絶しても独立維持が明記される 現代
2005年 アルベール2世が即位 現代
2023年 観光・カジノ・金融中心の経済を維持しつつ持続可能性政策を推進 現代

 

モナコの歴史詳細

モナコ(正式名称:モナコ公国)は、南西ヨーロッパの 地中海沿岸、フランス南東部のアルプ・マリティーム県に囲まれた地域に位置する 立憲君主制国家です。国土面積わずか2平方キロメートルのミニ国家でもあります。モンテ・カルロ、ラ・コンダミーヌ、モナコ市、フォンビエイユの4区で構成され、気候区は 地中海性気候に属しています。最大の都市は「シャルル3世の山」の意 として知られる モンテカルロ。
この国では古くから国営カジノや海水浴場など観光資源を背景にした観光業が基幹産業となっています。一方で観光依存からの脱却のため、郵便切手、機械、ガラス、陶器などの生産を主体にした工業への転換が図られています。
そんな モナコの歴史は、古代フェニキア人に建設された植民都市から始まるといえます。植民都市には神殿モナイコスが築かれ、国名の由来となりました。その後古代ローマの支配下に入り、古代ローマ滅亡後はイスラム勢力、ジェノヴァ神聖ローマ帝国スペインと支配者は次々変わりますが、17世紀のペロンヌ条約でフランスの保護領として落ち着きます。19世紀にはフランスの保護下で独立して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなモナコの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

 

古代モナコ

古代のモナコは、現代の洗練されたカジノやリゾート地とはかけ離れた、比較的静かな地域でした。前6世紀にギリシア系のポカイア人によって植民地「モノイコス」として建設されたこの場所は、「一軒家」という意味を持ちます。これは、おそらく孤立した立地や地域社会の小規模さを反映している可能性があります。

 

ローマ帝国の時代には、この地域はローマの支配下に入り、ガリア・トランサルピナ属州の一部として、地中海貿易の一環として機能していました。ローマの支配は、地域のインフラストラクチャーの改善と商業の活性化をもたらしましたが、西ローマ帝国の崩壊に伴い、ゲルマン民族の影響下に入ります。

 

このように、古代のモナコは、主要な帝国の間の文化的および政治的な交流の場として、地中海の小さなが重要な一角を占めていました。

 

前6世紀頃 ポカイア人植民地モノイコスの建設

古代において、モナコを含める現在のフランスにあたる地域は、ローマ人より「ガリア」と呼ばれていた。前6世紀頃にはギリシア系のポカイア人により、モナコの起源となる植民市モノイコス(ギリシャ語で「一軒家」の意)が建設されている。

 

前58年 共和政ローマによる支配

カエサルによるガリア征服戦争にともない、ローマの支配下に置かれ、同国のガリア属州ガリア・トランサルピナの一都市となった。

 

476年 西ローマ帝国の滅亡/ゲルマン人による支配

4世紀末よりゲルマニアに原住地を持つゲルマン民族が大移動を始め、ローマ帝国領に退去するようになる。476年にはゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより西ローマ帝国は滅ぼされ、以後モナコはオドアケルによる支配を受けるようになる。

 

中世モナコ

中世のモナコは、ジェノヴァ共和国との関わりが深まり、特に13世紀にジェノヴァの一族であるグリマルディ家がこの地に影響力を強め始めた時期です。1297年には、フランチェスコ・グリマルディがモナコを占領し、グリマルディ家が統治する礎を築きました。これがモナコの現在の君主家としての始まりにつながります。この時代、モナコは地中海貿易の重要な戦略的拠点としての地位を確立し、海賊行為や海上貿易によって一定の繁栄を享受していました。また、その立地から多くの外敵の侵攻にさらされながらも、小規模ながらも独自の政治体制を維持し続けたのが特徴です。

 

7世紀 ランゴバルド人による支配

6世紀、ユスティニアヌス1世率いる東ローマ帝国がこの地を奪還するも、7世紀になるとゲルマン一派のランゴバルド人により支配されるようになる。

 

975年 リグーリア人による支配

ランゴバルド人とフランク人による抗争に巻き込まれる中で、モナコの人口は激減したが、975年頃からリグーリア人による植民が始まった。

 

1191年 ジェノヴァによる支配

神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世により、ジェノヴァにモナコの宗主権が与えられる。この支配により、モナコはジェノヴァの重要な海上拠点となり、地中海交易の要所として発展した。ジェノヴァによる統治は、モナコの文化や経済に大きな影響を与え、後のグリマルディ家による支配の基盤を形成することとなった。

 

1215年 皇帝派(ギベリン)の要塞建設

神聖ローマ帝国において教皇派(ゲルフ)・皇帝派(ギベリン)の派閥抗争が激化する中、ジェノヴァから送り込まれた皇帝派(ギベリン)により要塞が建設された。

 

1297年 モナコ公国の成立

ジェノヴァ出身の貴族グリマルディ家がモナコの統治者に即位し、現代に続くモナコ公国が成立する。フランソワ・グリマルディが修道士に変装して城を奪取した伝説的な事件がきっかけで、グリマルディ家はモナコを支配することとなった。この出来事により、モナコは独自の公国としての歴史を歩み始め、グリマルディ家の統治は700年以上続くことになる。

 

1300年代後半 アラゴン連合王国による支配

1300年代後半、モナコはアラゴン連合王国の支配下に置かれる。この期間、アラゴンは地中海沿岸の支配を強化し、モナコもその影響下で統治された。この支配は一時的なものであり、後にグリマルディ家が再びモナコの統治を取り戻すこととなる。アラゴンによる支配期間は、モナコの政治的状況に多大な影響を与え、その後の歴史的な発展に重要な役割を果たした。

 

1419年 グリマルディ家アラゴン王国よりモナコを購入

グリマルディ家がアラゴン王国からモナコを購入し、正式な統治者となる。これにより、グリマルディ家はモナコの領有権を確立し、公国の支配権を強化した。この出来事は、モナコの独立と安定に重要な転機となり、以後グリマルディ家はモナコの歴史において重要な役割を果たし続けることとなる。

 

近世モナコ

近世のモナコは、主にグリマルディ家の統治下で独立を保持しながらも、周囲の大国との外交に忙しい時期でした。この時代にモナコは、スペインやフランスといった強大な国々と外交関係を構築し、しばしば保護国として扱われました。1612年には、グリマルディ家はモナコ公国の正式な支配権を確立し、フランス王ルイ13世からの承認を受けて公国としての地位を強化しました。このようにしてモナコは小規模ながらも独立した政体としての地位を確固たるものとし、政治的な自立を維持しながら文化的な発展も進めていったのです。また、近世モナコは戦略的な位置から軍事的な意味も持ち、地中海貿易の中心としても一定の役割を果たしていました。

 

1641年 フランスの保護領に

1641年、フランス王ルイ13世との間で結ばれた条約により、モナコはフランスの保護領となった。この契約により、モナコは軍事的保護をフランスから受けることになり、一定の自律性を保ちつつも、外交や防衛はフランスが担うことになった。この変化はモナコの政治的地位に大きな影響を与え、グリマルディ家の支配を安定させる助けとなった。この保護関係は数世紀にわたって続き、モナコの独立と発展に重要な役割を果たすことになる。

 

近代モナコ

近代モナコは、フランス革命後の動乱を経て、19世紀にはカジノ経済で注目されるようになりました。1861年、シャルル3世がモンテカルロ地区にカジノを開設し、その収益でモナコの経済を大きく変えました。これにより国際的な観光地としての地位を確立し、芸術や文化が花開いた時期でもあります。また、フランスとの関係は依然として重要で、1918年にはフランスとの保護条約が更新され、モナコの外交権はフランスが握ることとなりました。この条約によりモナコは大きな自立を保ちつつ、安定した発展を遂げています。

 

1793年 フランス革命軍による支配

フランス革命の中、フランス革命軍によりモナコが占拠される。フランスに併合され、国として独立を失った。この期間、グリマルディ家は追放され、モナコはフランス領アルプ=マリティーム県の一部として編入された。しかし、ナポレオン戦争後のウィーン会議により、1814年にモナコは独立を回復し、グリマルディ家も統治に復帰することとなった。

 

1804年 フランス第一帝政の成立

ナポレオンがフランス皇帝に即位したことで、ナポレオン第一帝政が創始。モナコはフランス帝国の一部となった。

 

1815年 サルデーニャ王国の保護領に

フランス帝国崩壊後に開催されたウィーン会議の結果、モナコはサルデーニャ王国の保護領に編入されることが決定した。しかし、モナコは独自の自治を維持しつつ、グリマルディ家による統治が続けられた。この期間、モナコの政治的安定と経済的発展が促進され、後の独立回復への基盤が築かれた。

 

1817年 大公銃騎兵中隊の設立

モナコ大公は国の象徴として大公銃騎兵中隊を設立。この部隊はモナコ大公の個人的な警護を任務とし、式典や公式イベントでの儀仗任務にも従事するなど、今日に至るまで、モナコの国家行事において重要な役割を果たしている。大公銃騎兵中隊の設立は、モナコの主権と独立を国際的に象徴する重要なステップであり、小国ながらもその威厳と独自性を示す試みだったといえる。

 

1860年 トリノ条約

サルデーニャ王国がイタリア統一運動を支援する見返りとして、フランスにサヴォワを含むニース周辺地帯を割譲。これによりサルデーニャ王国によるモナコ保護領支配は終焉を迎えた。

 

1861年 フランス・モナコ条約

フランス・モナコ条約によりモナコの主権が認められる。この条約は、モナコがフランスの保護下にあるものの、独立国家としての地位を確立する重要な一歩となった。条約により、モナコは主権を回復し、内政および外交において一定の自律性を持つことが保証された。この取り決めは、モナコの政治的安定と経済的発展に寄与し、現在の公国としての地位を築く基盤となった。

 

モナコは主権を得る見返りに、領土の大部分(現在のフランス領テュリービュール、ロクブリュヌ=カップ=マルタン、マントン)をフランスに割譲しました。この領土の割譲により、モナコ公国は現在の狭小な領土に縮小された、という背景があります。

 

1881年 国旗の制定

1881年4月4日、モナコは赤と白の二色からなる国旗を制定した。これらの色は、モナコを建国したジェノバ共和国のグリマルディ家の紋章から取られている。この国旗は、モナコの独立と主権を象徴する重要なシンボルとして、政府機関などで掲げられている。

 

1911年 君主制廃止

1911年にはモナコで大きな政治的変動があり、君主制が一時的に廃止された。これにより、モナコは短期間ではあるものの共和制を経験し、その後再び君主制に戻るという政治的変遷を経た。

 

1910年 モナコ海洋博物館の開館

1910年、アルベール1世の支援のもと、モナコ海洋博物館が開館。この博物館は、海洋学研究の一大中心地として、世界中から多くの科学者や観光客を引き寄せている。展示内容には、多様な海洋生物や海洋環境に関するものが含まれ、教育的な活動も盛んに行われている。

 

1918年 フランス・モナコ保護友好条約

第一次世界大戦の末期、モナコに対してフランスが制限付きで保護をするというフランス・モナコ保護友好条約が結ばれる。翌年第一次世界大戦の講和条約ヴェルサイユ条約で承認を得た。

 

1929年第一回モナコグランプリ開催

モナコで初めてのモナコグランプリが開催される。このレースは、モナコの狭い街路を利用した独特なコースで知られ、モータースポーツの歴史において重要な位置を占めるようになった。モナコグランプリはその後、毎年開催される伝統的なイベントとなり、世界中から多くの観客とドライバーを引き付け、モナコの観光と経済に大きな影響を与えている。

 

1942年 イタリア王国による支配

ナチス・ドイツポーランド侵攻(1939年)により第二次世界大戦が始まる。モナコは中立の立場を表明したが、42年11月枢軸国イタリア王国により占領される。モナコにはイタリア系住民が多く、ムッソリーニ率いるファシスト政権支持者が多かったことも、侵略の口実になった。

 

1943年 ナチスドイツによる支配

イタリアが連合国に降伏したことで、代わってナチス・ドイツにより占領される。モナコはドイツ軍の支配下に入り、ナチスの影響を受けることとなった。

 

1962年 モナコ憲法改定

憲法改正により、死刑廃止、女性参政権、最高裁判所の設置などが定められた。この改定は、モナコの法制度を現代的で進歩的なものにするための重要な一歩となった。

 

1982年 公妃グレース・ケリーの死

モナコ公国の公妃グレース・ケリーが交通事故で死去。この悲劇はモナコのみならず世界中に衝撃を与え、多くの人々が彼女の死を悼んだ。

 

現代モナコ

1989年 モナコ式バランスドアクアリウムの開発

モナコでバランスドアクアリウムが開発された。これは、人工環境で自然な水中環境を模倣し、海洋生物の多様性の理解と持続可能な保護に役立てることを目的としている。

 

1993年 国際連合に加盟

モナコは1993年に国際連合に加盟した。この加盟はモナコの国際関係において重要なステップであり、そのグローバルプレゼンスと国際政策への参加を強化した。

 

1994年 モナコ日本庭園の建設

1994年、モナコに日本庭園が建設された。庭園は景観建築家・別府保男によって設計され、7,000平方メートルの敷地に日本の景観を象徴する自然と人間との調和を表現している。

 

2004年 欧州評議会に加盟

モナコは2004年に欧州評議会に加盟した。この組織への加盟は、ヨーロッパにおける人権、民主主義、法の支配を支持するというモナコのコミットメントを示しており、ヨーロッパの共通価値を重視していることを反映している。

 

以上が古代から現代にかけてのモナコの歴史年表になります。モナコの歴史は紀元前6世紀にさかのぼり、ポカイア人による植民市モノイコスの建設から始まります。ローマ帝国の支配を経て、西ローマ帝国の崩壊後はゲルマン人の支配を受け、その後、ジェノバからの支配者がモナコを統治。13世紀にはグリマルディ家が支配を確立し、1641年にフランスの保護領となりました。1789年のフランス革命を経ても独自の進路を歩み、19世紀には観光産業が発展しました。20世紀には1930年代に公国としての地位を再確認し、1993年には国際連合に加盟。現代では、高級観光地として世界的に知られ、独自の文化と政治の独立性を保持しています。