神聖ローマ帝国とは、962年にフランク王国が分断されてできた、東フランク王国の国王オットー1世が、ローマ教皇から戴冠され皇帝になるところから始まります。ここでは1806年まで続いた神聖ローマ帝国が滅亡していく過程について簡単にまとめています。
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オットー1世が皇帝の座についた時、皇帝としての権力が弱かったため、有力な諸侯たちへの対抗手段として、帝国教会政策を用いて教会をローマ帝国内にて統治を行いました。しかし聖職者を任命する叙任権を使って聖職売買などが行われ、教会は徐々に腐敗していったのです。
その後、11世紀後半から教皇と皇帝の叙任権をめぐる争いが起こります。教皇は皇帝を破門とすることで皇帝は教皇に屈することになり、カノッサの屈辱を経て、事実上皇帝が不在となる大空位時代が訪れます。
約20年続いた大空位時代は、1273年にハプスブルク家のルドルフ1世が皇帝になることで終結します。
1356年に皇帝カール4世より金印勅書が発布され、皇帝の選出方法が定められましたが、ルクセンブルク家が断絶した後は、再度ハプスブルク家が皇帝の座についたことで、以後独占化していくことになったのです。
一時は全ヨーロッパに威容をとどろかせたハプスブルク朝神聖ローマ帝国ですが、宗教革命や三十年戦争で大きく衰退し、三十年戦争の講和条約ウェストファリア条約で領邦が独立したことで名目だけの存在になってしまいます。
「神聖ローマ帝国の死亡診断所」といわれるウェストファリア条約の締結場面
後にハプスブルク家はオーストリアやその周辺国を統治しますが、1805年、フランス皇帝ナポレオンの侵略を受け敗北します。そしてナポレオンがライン川流域の諸国を神聖ローマ帝国から離脱させた事により、当時の皇帝フランツ2世は退位に追い込まれ、神聖ローマ帝国は滅亡の日を迎えたのです。
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