レッジョ・ディ・カラブリアの歴史

レッジョ・ディ・カラブリアの港湾

 

レッジョ・ディ・カラブリア(伊:Reggio di Calabria)(以下レッジョ)は、イタリア南部カラブリア州、“ブーツ”に見立てたイタリア半島の“つま先”に位置する都市です。

 

 

古代

レッジョは、紀元前3000年頃、アウソニ人が形成した「エリュトラ」と呼ばれる都市に起源を持ちます。もともとレッジョ周辺地域は、「サトゥルニア(Saturnia)」と呼ばれてましたが、アウソニ人の最後の支配者「イタルス王」の名にちなみ「イタリア」と呼ばれるようになり、現国名の語源となりました。

 

古代ギリシア時代

前8世紀に、ギリシア人の入植が始まり、都市国家「レギオン(Rhegion)」(「王の岬」という意)ととして商業・貿易で栄えるようになりました。前8世紀から前5世紀にかけては、メッセニア(現メッシニア)がレギオンを支配することでメッシーナ海峡を手中におさめ、カルタゴやシラクサなど地中海世界の有力国に対抗しています。

 

古代ローマ時代

シラクサ、カンパニアによる統治時代を経て、前3世紀にはイタリア中部から急速に勢力を広げたローマに征服されます。その後はローマにおける陸上・海上交通の要衝「レギウム」として発展。帝政期には南イタリアの中心都市「レギウム・ユリウム(Rhegium Julium)」となり、公衆浴場が8つも建設されるなど充実した都市になっていきました。

 

 

中世

西ローマ帝国崩壊後は、東ゴート王国東ローマ帝国、イスラム勢力、ノルマン人と支配者の変遷を経て、12世紀からしばらくはシチリア王国の支配下に落ち着き、引き続き南イタリアの重要拠点として栄えました。しかし16世紀にスペインの支配下に入ると、同国からの重税や、疫病・地震などの災害が重なり、急速に衰退していきました。

 

近代

ナポレオン戦争終結後、シチリア王国とナポリ王国の合同で、南イタリア一帯を領土とする両シチリア王国が成立。レッジョもその一都市となるも、同国は19世紀後半のイタリア統一運動(リソルジメント)の中、ガリバルディ率いる千人隊に滅ぼされます。そして1861年、イタリア統一の完成とともにイタリア王国が成立し、レッジョは同王国の一都市「レッジョ・ディ・カラブリア」として運命を共にすることとなりました。

 

第二次世界大戦

20世紀に入り、ファシスト政権のもと、レッジョ周辺自治体の合併が進められ、その結果形成された「大レッジョ」は、イタリアにとって戦略的重要な位置を占めるようになりました。そのため第二次世界大戦では、空港・港湾・工場のみならず、市街地まで爆撃の対象となり、2万人近くの死者・負傷者が発生する未曾有の悲劇に見舞われています。