フランス国王アンリ4世が宗教対立に終止符を打つために発したナントの王令は、確かにユグノー(プロテスタント)の権利を拡大し、深刻な新旧教派の対立を融和するのに効果を発揮しました。
しかしそれでも、ユグノーはパリ市内での礼拝を禁止されたり、カトリックに十分の一税を納めなければならなかったり、カトリックの祝日を遵守しなければならなかったり・・・など一定の不平等は維持されたので、対立の火種は完全に消えたわけではなかったありませんでした。
そんな中で、アンリ4世の子ルイ13世は、国家統一と王権強化のためにユグノーの存在が障害であると判断して弾圧を再開します。後継のルイ14世にいたっては、フォンテーヌブローの王令(1685年)でナントの勅令を廃止してしまい、ついに国内からユグノー勢力を一掃してしまったのです。
|
|
|
|
ユグノー勢力自体は、ルイ13世の弾圧により、国内での力をほぼ失い、ルイ14世が即位した時点ですでに、社会をゆるがすほどの脅威ではありませんでした。それでもわざわざ廃止した理由は、「一国一宗派」にこだわり、フランスとしての一体感を強めたかったからだといわれています。
またルイ14世はカトリック的な性格をもつ王権神授説の信者であり、徹底した「異端」弾圧でカトリックの地盤を強化することが、王権神授説の強化、そして王権の安定にも繋がると考えていたのです。
ナントの王令廃止により、ユグノーへの弾圧がより徹底されるようになったので、大量のユグノーがプロイセン、イギリス、オランダ、果てはアメリカなど国外に脱出していきました。
そして多くのユグノーは商工業者として活躍していたので、貴重な人材を大量に失ったフランスは衰退に向かい、不況にともなう市民の怒りが、のちに王政転覆に繋がるフランス革命への導火線にもなってしまっています。
それだけでなく、ナントの王令が廃止された1685年、プロイセンは好機とばかりに、逆にユグノーを保護・優遇、移民促進する政策を発表しました。そのため国大脱出した大量のユグノーがプロイセンへと移住しています。
フォンテーヌブローの王令(1685年)でユグノーを追放したルイ14世
多くの優秀な人材を獲得したプロイセンは、その後急速に発展し、フランスの覇権を脅かす存在となります。フランスの王権を確立するために再開されたユグノー弾圧が、結果的に、ライバルの国力を大幅に増強させ、フランスの王権を脅かす事態を招くというのは、なんとも皮肉なものです。
|
|
|
|