ビクトリア女王(1819年〜1901年)は、ハノーヴァー朝のイギリス女王およびインド皇帝です。世界の陸地と人口の4分の1をイギリス王冠の下に置いていた「パックス・ブリタニカ(イギリスによる平和)」を象徴する女王でもあり、彼女の63年にもおよぶ治世は「ヴィクトリア朝」と呼ばれます。治世の後半では帝国主義政策を推し進め、1877年からはインド皇帝も兼ねるようになりました。1901年の没後は、長男のエドワード7世に王位が継承されました。
ビクトリア女王は、エリザベス2世に次ぎ2位である、63年7か月ものあいだイギリスを統治し、パックス=ブリタニカ時代の大英帝国の女王として君臨していました。
当時のイギリスは、首相が政治の舵を握りましたが、国王の関与も強かったため、いわゆるヴィクトリア朝時代の政治・外交・軍事・文化などの成果は、彼女の功績が少なからずあります。そしてヴィクトリアはとりわけ首相ディズレーリの帝国主義政策を支援し、世界各地に植民地を広げたことで、大英帝国の最大版図を実現したのです。
彼女の治世では世界各地で、ヴィクトリア湖、ヴィクトリア滝、ヴィクトリア島など、彼女の名にちなんだ命名が行われました。
また彼女は9人の子供を残し、その子らはヨーロッパ各国の王族・皇族と結婚していき、ヴィルヘルム2世やアレクサンドラ(ニコライ2世の妃)などを輩出したため、「ヨーロッパの祖母」と称されるほどの権威を獲得していることも知っておきましょう。
ビクトリア女王は血友病という持病を持っていたことで有名です。これは血液凝固異常の病気で、出血が自然に止まることがないため、ちょっとした怪我でも致命傷になる恐れのある怖い病気です。この病気は彼女の子孫にも遺伝したため、当時は「王家の病気」と呼ばれていました
最初に彼女の四男レオポルドに発症が確認され、彼は医師に囲まれ細心の注意を払いながら生涯を送りますが、ある日転んで膝から出血し、そのまま血が止まらなかったために30歳という若さで亡くなっています。
彼女の娘は発症はしませんでしたが、血友病因子を持っていたため、政略結婚で他国に嫁いだ結果、ヨーロッパの王族全般に血友病の症状がみられるようになりました。ロシア革命後に殺害されることとなるニコライ2世の皇太子は、ビクトリアの血を継ぐ血友病患者であったことは有名です。
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