ジョージアの歴史年表

ジョージアの国旗

 

ジョージアの国土

 

ジョージアは、東ヨーロッパ(もしくは西アジア)の 南コーカサスに位置する 共和制国家です。国土は 大部分がコーカサス山脈を中心とした山岳地帯で構成され、気候区は 大半が温暖湿潤気候に属しています。首都は5世紀以来の古都、現在は有数の工業地帯として知られる トビリシ。

 

この国ではとくに 工業が発達しており、中でも金属・機械・木材・化学・織物などの生産がさかんです。また石炭・マンガン・亜鉛など豊富な地下資源を背景にした鉄鋼業・合金製造業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんな ジョージアの歴史は、古代東西交通の要衝だったこの地に古代ギリシア人植民市が建設された頃まで遡ることができます。6世紀以降ペルシア、アラブ、ロシア帝国などの支配を経て、19世紀にロシアに併合。1922年ソ連に参加し、1991年崩壊直前のソ連から独立を宣言して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなジョージアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

 

古代ジョージア

古代ジョージアの特徴は、多様な文化の影響を受けた複雑な歴史と強力な王国の形成にあります。ジョージアは、紀元前4世紀頃に東部のカルトリ(イベリア)と西部のコルキスという二つの主要な地域に分かれていました。コルキスはギリシャ神話に登場するアルゴ船の冒険の舞台として知られ、紀元前6世紀から3世紀にかけてギリシャ植民地が存在しました。

 

カルトリ(イベリア)は紀元前4世紀に形成され、強力な王国として発展しました。特に紀元前3世紀に王ファルナバズ1世の下で勢力を拡大しました。イベリア王国は、ローマ帝国やペルシャ帝国との外交関係を築き、戦略的に重要な位置にありました。

 

ジョージアはまた、キリスト教の早期受容でも知られています。4世紀にキリスト教が公式に受け入れられ、イベリア王国はキリスト教王国となりました。この時期、多くの教会や修道院が建設され、ジョージア文化の重要な一部となりました。

 

古代ジョージアは、ギリシャ、ローマ、ペルシャの影響を受けながらも独自の文化と政治的アイデンティティを形成しました。その豊かな歴史と文化は、現在のジョージアにも深く根付いています。

 

前6世紀 コルキス王国の成立

ジョージア人の祖コルキス人による国家コルキス王国が建国される。この王国はギリシャ神話において「黄金の羊皮(ゴールデンフリース)」の伝説で知られ、古代ギリシャとの交易が盛んであった。

 

前302年頃 イベリア王国の成立

現ジョージア東部地域にイベリア王国(コーカサス・イベリアとも)が建国される。この王国は古代ジョージアの文化と政治の中心となり、後にキリスト教を国教として受容することで知られるようになる。

 

前2世紀 ポントス王国の支配下に

コルキス王国がポントス王国により征服される。ポントス王国の影響下でコルキス地域はさらにヘレニズム文化の影響を強く受け、政治的および文化的な結びつきを深めた。

 

前65年 共和政ローマの支配下に

ポントス王国が共和政ローマにより征服され、ジョージアはローマ属州の一部となる。この時期にローマの建築様式や法律、文化が導入され、地域の都市化が進展した。

 

4〜6世紀頃 キリスト教への改宗

12使徒によりキリスト教が伝道され、とりわけ、カッパドキア出身の囚われの聖女ニノによりジョージアのキリスト教化が侵攻した。

 

中世ジョージア

中世ジョージアの特徴は、政治的統一と文化的繁栄、そして外部勢力との戦いが挙げられます。10世紀から13世紀にかけて、ジョージア王国は最盛期を迎えました。特に、バグラティオン王朝のダヴィド4世(ダヴィド建設王)とタマール女王の治世下で、ジョージアは政治的統一を達成し、経済的・文化的に繁栄しました。

 

ダヴィド4世は、ジョージア王国の領土を大幅に拡大し、軍事力を強化しました。また、クルドゥバニ(騎馬軍団)の設立や、エデュカティブ・システムの改革などを通じて、内政の充実にも力を入れました。彼の治世は、ジョージアが強力な王国として認知される重要な時期でした。

 

タマール女王の時代には、ジョージア文化が大いに栄えました。文学、芸術、建築が発展し、多くの教会や修道院が建設されました。特に、ゲラティ修道院はその時代の象徴的な建築物であり、現在でも世界遺産に登録されています。また、タマール女王は、女性として初めてジョージアの君主となり、その治世は安定と繁栄の時代として知られています。

 

しかし、中世ジョージアは外部勢力との戦いも絶えませんでした。13世紀にはモンゴル帝国の侵攻を受け、ジョージア王国はその影響下に置かれることになりました。この時期、ジョージアは一時的に弱体化しましたが、その後も文化的な影響力を維持しました。

 

中世ジョージアは、政治的・文化的に重要な時期であり、その遺産は現在のジョージアにも深く根付いています。

 

486年 ジョージア正教会の成立

この年、ジョージア正教会が独立した教会組織として公式に成立した。ジョージア正教会の成立は、ジョージアのキリスト教化を固める重要な出来事であり、以降、教会はジョージアの文化、教育、政治に大きな影響を及ぼすこととなる。この独立はビザンツ帝国の教会からの自立を意味し、国民的アイデンティティの強化に寄与した。

 

627年 第三次ペルソ・テュルク戦争

南コーカサスを舞台に、ササン朝と西突厥との間で第三次ペルソ・テュルク戦争が勃発する。この戦争は、地域の支配権を巡る重要な戦闘であり、その結果、ササン朝ペルシアの影響力が一時的に弱まることとなった。ジョージアはこの戦争により一時的な政治的不安定を経験し、後の地域勢力図の変化に影響を受けた。

 

1220年 モンゴルによる侵攻

モンゴル帝国軍による侵攻を受け、100年以上のモンゴル支配を受けるようになる。モンゴル統治下では厳しい貢納と引き換えに、一定の自治と信仰の自由が認められた。

 

近代ジョージア

近代ジョージアの特徴は、ロシア帝国の支配、独立運動、そしてソビエト連邦の一部としての経験が挙げられます。19世紀初頭、ジョージアはロシア帝国に併合され、約100年間ロシアの支配下にありました。この時期、ロシア化政策が進行し、ジョージアの文化や言語が抑圧されましたが、同時にインフラの整備や経済の発展も進みました。

 

第一次世界大戦後、1918年にジョージアは独立を宣言し、ジョージア民主共和国が成立しました。しかし、この独立は長続きせず、1921年に赤軍が侵攻し、ジョージアはソビエト連邦の一部となりました。ソビエト時代、特にスターリンの治世下で、ジョージアは工業化が進み、経済的に発展しましたが、政治的抑圧も強まりました。

 

第二次世界大戦後、ジョージアはソビエト連邦の構成共和国として比較的安定した時期を迎えました。特に教育、科学、文化の分野での発展が見られました。しかし、1980年代後半になると、ソ連全体での政治的緊張と経済的困難がジョージアにも影響を及ぼしました。

 

1989年、ソビエト連邦の崩壊に伴い、ジョージアは再び独立を宣言し、1991年に正式にジョージア共和国として独立を達成しました。独立後のジョージアは、政治的混乱や経済的困難を経験しましたが、徐々に民主化と市場経済への移行を進め、国際社会への統合を目指しています。

 

近代ジョージアは、外部の支配と内部の独立運動の間で揺れ動いた歴史を持ち、その経験が現代の政治、経済、文化に大きな影響を与えています。

 

1801年 東部がロシア帝国支配下に

ロシア皇帝パーヴェル1世により東ジョージア併合が宣言され、帝位を継承したアレクサンドル1世により実行に移された。

 

1864年 農奴解放

アレクサンドル2世により農奴解放令が発せられ、ジョージアでも多くの農民が自由民となり、近代化への移行が始まった。

 

1878年 全土がロシア帝国支配下に

1878年、ベルリン会議の結果として、ジョージア全土がロシア帝国の支配下に入った。この時代にジョージアはロシアの行政的および法的枠組みに組み込まれ、多くのロシア文化が導入された。しかし、この支配はジョージアの国民運動の高まりを促し、文化的および政治的な自立を求める動きが強まる一因ともなった。この期間はジョージアの近代化に重要な影響を与え、後の独立運動の基盤を築くことになる。

 

1918年 グルジア民主共和国の成立

ザカフカース民主連邦共和国の崩壊にともない、ロシア社会主義右派メンシェヴィキ主導によるグルジア民主共和国が建国される。この独立は、ジョージアにおける最初の民主的な国家体制の実現を示し、基本的人権の尊重と法の支配が国の運営原則として導入された。また、ジョージアは国際連盟に加盟し、国際社会での独立国としての地位を確立しようと努力したが、1921年にソビエト赤軍の侵攻により短命に終わった。

 

1921年 グルジア・ソビエト社会主義共和国の成立

グルジア民主共和国が赤軍に征服され滅亡。グルジア社会主義ソビエト共和国(略称グルジア共和国)が成立した。この新たな政権下で、ジョージアはソビエトの社会主義政策を実施し、国有化、集団化が進行し、多くの政治的迫害が発生した。

 

1922年 ソビエト連邦に参加

1922年、グルジア(ジョージア)はトランスコーカサス社会主義連邦ソビエト共和国の一部としてソビエト連邦に参加した。この連邦参加は、地域的統合を強化し、中央政府の指導の下で経済的および政治的政策が一元化された。ジョージアの文化や言語政策にも大きな変化がもたらされ、ロシア語の使用が強化された。

 

1989年7月 アブハジア紛争

アブハジアがジョージアからの独立を求めたことをきっかけにアブハジア紛争が勃発する。94年に停戦合意が成立し、アブハジア政府は依然として主権を宣言しているが、ジョージア政府や国際社会では承認されていない。

 

1989年11月 南オセチア紛争

南オセチアがジョージアからの独立を求めたことをきっかけに南オセチア紛争が勃発する。92年に武力闘争は終結するも、問題解決は先送りされた。

 

現代ジョージア

現代ジョージア(1991年以降)の特徴は、独立後の政治的・経済的変革、ロシアとの緊張、そして欧州統合への取り組みが挙げられます。

 

1991年にソビエト連邦から独立を宣言し、ジョージアは自らの政治的運命を歩み始めました。初期には内戦や政治的不安定が続きましたが、2003年のバラ革命を契機に民主化と市場経済への移行が加速しました。ミハイル・サーカシヴィリ政権の下で、汚職撲滅、経済改革、インフラ整備が進められました。

 

しかし、2008年の南オセチア紛争でロシアと武力衝突し、ジョージアの一部地域が実効的にロシアの支配下に置かれました。この出来事は、ジョージアの国際関係と安全保障に大きな影響を与えました。

 

欧州連合(EU)および北大西洋条約機構(NATO)への加盟を目指し、ジョージアは改革を続けています。2014年にはEUとの連合協定を締結し、経済的・政治的な統合を進めています。また、2017年にはEUビザ免除制度が導入され、ジョージア国民のEU域内での移動が自由化されました。

 

経済面では、観光業やワイン産業が成長を遂げ、IT産業も発展しています。教育改革や法制度の整備も進行中で、国民の生活水準向上を目指しています。

 

現代ジョージアは、ロシアとの緊張が続く中で、欧州との結びつきを強化しつつ、安定した民主主義国家の確立を目指しています。この多面的な取り組みが、ジョージアの将来の発展にとって重要な役割を果たしています。

 

1991年 ジョージア共和国として独立

国民投票で独立の承認を得たのち、ソ連からの独立を宣言した。この独立は、ジョージアの民族自決と国家再建への願望の表れであり、ソビエト体制からの脱却を意味した。

 

1992年 国連加盟/日本と国交樹立

1992年には国連に加盟し、同年、日本と正式に国交を樹立した。これにより、ジョージアは国際社会での立場を確立し、多くの国との外交関係を強化した。

 

1993年 独立国家共同体(CIS)に参加

1993年には、他の旧ソビエト諸国とともに独立国家共同体(CIS)に参加。この地域協力体制への参加は、経済および安全保障の面での協調を目的としていた。

 

1994年 北大西洋条約機構(NATO)に加盟

ジョージアは1994年にNATOのパートナーシップ・フォー・ピース(PfP)プログラムに加盟し、西側諸国との軍事的および政治的協力を深めた。この加盟はジョージアの西欧への一層の統合を促進し、国際的な安全保障体制への組み込みを図った。

 

2003年 バラ革命

政界の腐敗・汚職に対する大規模抗議が行われる。この運動はバラ革命と呼ばれ、暴力を伴わず、当時の大統領シェワルナゼを辞職に追い込むことに成功した。バラ革命は、民主的な政治改革を求める市民運動の一環で、この成功はジョージアの政治文化において重要な転換点となり、後に改革派の新政権が権力を握るきっかけとなった。この政変は国内外において民主化のモデルとされ、他の国々にも影響を与えた。

 

2008年 南オセチア紛争

1992年以来休戦状態にあった南オセチア紛争が再燃。ジョージア軍が南オセチアに軍を派遣し、同地に駐留していたロシア軍を攻撃。これを受けてロシア軍がジョージア領内への爆撃を開始した。同年10月、国際合意によりロシア軍はジョージアから撤退した。

 

ジョージアの歴史は、多様な文化の影響と政治的変動に彩られています。古代には、紀元前4世紀頃にカルトリ(イベリア)とコルキスが発展し、ローマやペルシャとの外交関係を築きました。4世紀にはキリスト教が公式に受容され、多くの教会や修道院が建設されました。中世には、10世紀から13世紀にかけてダヴィド4世やタマール女王の治世で黄金時代を迎えました。19世紀初頭にはロシア帝国に併合され、1921年にはソビエト連邦に組み込まれました。1991年に独立を回復し、バラ革命を経て民主化と市場経済への移行を進めています。近年ではEUやNATOへの加盟を目指し、改革と経済発展を続けています。