スパルタはなぜ滅んだの?

スパルタはなぜ滅んだのですか?

スパルタペロポネソス戦争アテナイに勝利し、ギリシアの覇権を握ったことで全盛期を迎えましたが、その抑圧的な体制から諸ポリスの反乱(コリントス戦争)を招いたことで、衰退の道を辿っていきます。

 

そして前371年にレウクトラの戦いでテーベに敗れたことで、ギリシアの覇権を失い、さらに翌年にはメッセニアが独立したことで、その領土は半減してしまいました。前3世紀末には国家制度も崩壊に向かい、建国以来スパルタを支配してきたアギス朝も断絶。

 

1900年出版『歴史の黎明期から20世紀までの偉大な国の物語』の中で描かれたスパルタの風景

 

衰退しながらも体制を保ち、細々存続していましたが、前192年最後の王ナビスが暗殺され、アカイア同盟に吸収されたことで、少なくとも王政国家としてのスパルタは滅亡したのです。さらに前146年にはイタリア半島から勢力を拡大してきたローマの支配下に入ったことで、都市国家スパルタとしての歴史は正式に終わりを迎えたといえます。

さらに詳しく:スパルタが滅亡した理由

古代ギリシャの歴史において、スパルタはその軍事的な強さと厳格な社会体制で知られています。しかし、その栄光は永遠ではありませんでした。なぜかつての強国スパルタは滅亡に至ったのでしょうか。その複雑な原因を深く探究し、スパルタの滅亡に至った歴史的背景とその過程を、以下で詳しくについて解説します。

 

 

軍事的敗北と領土の喪失

ペロポネソス戦争の影響

スパルタの衰退の始まりは、紀元前5世紀のペロポネソス戦争にその原因があります。アテナイとの長期にわたる戦争は、スパルタにとって一時的な勝利をもたらしましたが、長期戦による軍事的・経済的な負担は甚大でした。この戦争でスパルタは多くの兵士を失い、領土の支配力を弱める結果となりました。

 

テーベとの対立

スパルタの軍事的地位は、紀元前371年のレウクトラの戦いでテーベに敗北したことで大きく揺らぎました。この敗北は、スパルタの無敵の神話を崩し、その後の勢力バランスに影響を与えたのです。

 

内政の問題と社会的不安

ヘロット(奴隷)の反乱

スパルタ社会は、奴隷制度に大きく依存していました。ヘロットと呼ばれる奴隷たちはしばしば反乱を起こし、これがスパルタの内部の不安定さを引き起こしました。また、市民権を持つスパルタ人の人口減少も、軍事力の低下につながりました。

 

貴族制度の弱体化

スパルタは極めて厳格な貴族制度に基づいており、これが経済的な不平等を生み出していました。貴族階級と一般市民との間の緊張は、スパルタの政治的な不安定さを助長しました。

 

外交的孤立と同盟国の喪失

周辺国との関係悪化

スパルタは、ペロポネソス戦争後も他のギリシャ諸国との関係が悪化し続けました。外交的孤立は、同盟国の喪失とともにスパルタの地位を弱める要因となりました。

 

マケドニアの台頭

スパルタの衰退期には、マケドニアの台頭も重要な要因でした。特に、フィリッポス二世の治世下でマケドニアは勢力を拡大し、ギリシャ諸国に大きな影響を及ぼしました。スパルタは、フィリッポスの拡大政策に対抗するために他のギリシャ諸国と連携しようとしましたが、成功には至りませんでした。これにより、スパルタの地政学的な重要性はさらに低下し、その影響力は著しく弱まりました。

 

文化的・経済的変化

経済構造の変化

経済面でも、スパルタは変化の波にさらされました。貿易や工業の発展が他のギリシャ諸国で進んでいたのに対し、スパルタは依然として主に農業に依存していました。これにより、スパルタの経済は他国に比べて停滞し、財政的な弱体化を招きました。

 

文化的孤立

文化的にもスパルタは孤立していました。他のギリシャ諸国では芸術、哲学、科学が発展していたのに対し、スパルタは軍事的な訓練と厳格な生活規範に重点を置いていました。この文化的孤立は、スパルタの革新性と外部との交流を制限し、その衰退に一層拍車をかけました。

 

結論

スパルタの滅亡は、単一の原因に帰することはできません。軍事的敗北、内政の問題、外交的孤立、経済的・文化的変化など、多岐にわたる要因が複合的に作用しました。スパルタの例は、歴史における国家の興亡が多面的な要因によって左右されることの顕著な例として挙げられます。この歴史的教訓は、現代の国家運営にも有益な洞察を提供するものです。