ローマ帝国

ローマ帝国は、かつてイタリア半島を拠点にヨーロッパの広い領域を支配した古代の超大国です。紀元前8世紀の建国以降、軍事力を背景に勢力を拡大し、前3世紀にはイタリア半島を、前1世紀半ばには西ヨーロッパ全域を平定、同世紀末には地中海世界全域の統一を果たし、史上類を見ない大帝国を築き上げました。

 

帝国が覇権を握る時代は、4世紀後半に始まる「ゲルマン民族の大移動」で終わりを告げますが、ローマの持った言語や宗教、ローマの築いた法・軍事・インフラは、大移動後ローマ領内に定着したゲルマン人が継承していったため、ローマ帝国の存在は、そのまま現在に続くヨーロッパ世界の母体となりました。

 

 

ローマ帝国の歴史

建国〜共和政以降

ローマの正式な国号は「元老院ならびにローマ市民(Senatus Populusque Romanus)」といい、伝承では前753年、「狼に育てられた」とする双子の弟ロムルスによりパラティヌス丘を中心に建設されたのが始まりとされています。当初は王国として成立しましたが、前509年頃にエトルリアの王を追放して共和政に移行しました。

 

イタリア統一〜ガリア征服

共和政ローマはイタリア半島を統一(前260年頃)した後、ポエニ戦争でカルタゴを滅亡させ(前146年)、地中海の覇権を握るようになります。

 

さらに前1世紀半ばには、ユリウス・カエサルガリア(おおむね現在のフランス)を征服。これで地中海沿岸地域に限定されていたラテン語を始めとしたローマ文化が西ヨーロッパの地にも広がっていき、現在のヨーロッパの原型が形作られました。

 

帝政に移行〜空前の繁栄

共和政も長く続くとしだいに腐敗し、前2世紀後半からは「内乱の1世紀」と呼ばれるローマ人同士が血を流して争う時代に突入します。そして内乱を終息させたオクタウィアヌス(アウグストゥス)が絶大な権力を手にするようになり、ローマは帝政に移行していきました。

 

以後200年、ローマは「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」と呼ばれる空前の繁栄と平和の時代を享受するのです。

 

2世紀初め、トラヤヌス帝統治下で史上最大の版図となり、どんな辺境からもローマに人や物資を送り込むことができる、「すべての道はローマに通ず」を体現しました。

 

軍人皇帝時代〜キリスト教の国教化

3世紀後半、帝国領各地に皇帝を僭称するものが現れるようになり、ローマは再び内乱の時代に突入してしまいます。(軍人皇帝時代

 

ディオクレティアヌスが内乱に終止符をうち、専制君主制(ドミナトゥス)のもと帝国再建を達成しますが、彼の死後再び混乱期に入り、4世紀末には、帝国領が西ローマ帝国東ローマ帝国(ビザンツ帝国)に分裂してしまいました。

 

現ヨーロッパ世界の基礎が完成

一方で帝国領が分裂する少し前、テオドシウス帝によりキリスト教がローマの国教とされたことで、言語(ラテン語)・文字(アルファベット)・宗教(キリスト教)などを共有する現在のヨーロッパ世界の基礎が完成していることは非常に重要です。

 

西ローマ帝国の滅亡〜第二のローマ

帝国領の分裂からそう間もない476年、西ローマ皇帝がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルにより廃位に追い込まれ、西ヨーロッパの地からローマ帝国は消滅。この西ローマ帝国の滅亡をもって古代ヨーロッパ史は終焉、時代は中世に移っていきました。

 

一方東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の方はというと、中世以後もギリシアの先進文明やエジプトの豊かな穀倉地帯を背景に繁栄を続け、商業都市コンスタンティノープルを首都とする「第二のローマ」として、1453年オスマン帝国により攻め滅ぼされるまで存続しました。

 

ローマ帝国の影響

「ローマは一日にして成らず」「すべての道はローマに通ず」ということわざが生まれるほどに広大な領土を築き上げ、そこにローマ文化を定着させたことは、その後のヨーロッパ史の発展にとって計り知れない影響を与えました。

 

またそんな世界帝国の記憶は、国家として滅んだ後でも「ヨーロッパ統一」の理念として生き続けたのです。「第二のローマ」の継承者を意味する「第三のローマ」という概念が生まれた他、カール大帝による新生西ローマ帝国、オットー大帝による神聖ローマ帝国、ナポレオンによるナポレオン帝国など、後世ヨーロッパに創建される「超大国」の思想的基盤には必ず、かつてこの世界を統一に導いたローマ帝国の存在があります。

 

 
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