オーストリアの国旗
オーストリアの国土
オーストリア(正式名称:オーストリア共和国)は 中央ヨーロッパの ドイツ、スイス、ハンガリー、イタリアなどに囲まれた内陸部に位置する 連邦共和国制国家です。国土は 全体のおよそ3分の2がアルプス山脈で構成され、気候区は 大部分が亜寒帯湿潤気候に属しています。首都は 「音楽の都」、「楽都」として知られる ウィーン。
この国ではとくに 機械、金属加工業が発達しており、中でも自動車の生産がさかんです。また歴史的建造物などの豊富な観光資源を背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。
そんな オーストリアの歴史は、8世紀末頃ヴィルヘルム家に建設されたオストマルク東方辺境伯領から始まるといえます。やがてオストマルク東方辺境伯領はオーストリア辺境伯領に改められ、14世紀半ばにハプスブルク家のルドルフ公がオーストリア大公と名乗ったことでオーストリア大公国が成立しました。第一次世界大戦敗北後のオーストリア革命によって共和国に。第二次世界大戦前にナチスドイツ・に併合されましたが、その後連合国により切り離され、永世中立国として独立を宣言して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなオーストリアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
カロリング朝フランク王国のカール大帝が、ヴィルヘルム家にオストマルク東方辺境伯の爵位を与える。この現在のオーバーエスターライヒ州・ニーダーエスターライヒ州にあたるヴィルヘルム家の所領がオーストリアの基礎となった。
ヴェルダン条約でフランク王国の国土が西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国の3つに分裂し、オストマルク東方辺境伯領は東フランク王国の支配下に入る。
ハンガリー大公アールパード家のアールパード率いるマジャル人の軍団がオーストリアに侵入。オストマルク東方辺境伯はフランス王国からの援軍を得てこれを撃破した。
東フランク王オットー1世がローマ皇帝として戴冠を受け、神聖ローマ帝国が成立。オストマルク東方辺境伯もその支配下に入る。
バーベンベルク家が衰退していたオストマルク東方辺境伯を支配するようになり、976年、領名をオーストリア辺境伯に改めた。
バーベンベルク家のハインリヒ2世がオーストリア公となったことでオーストリア公国が成立した。
オーストリアを支配していたバーベンベルク家が断絶し、ドイツ諸侯によるオーストリア争奪戦が繰り広げられるようになる。
マルヒフェルトの戦いで、ボヘミア王オタカル2世を打ち破った、ハプスブルク家のルドルフ1世がオーストリアの支配権を得る。以後オーストリアはハプスブルク家の支配が続くこととなる。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世がオーストリア大公の称号を帝国法で法制化し、正式にオーストリア大公国が成立する。
マルティン・ルターがカトリック教会の免罪符販売を批判する『95ヶ条の論題』を発表する。宗教改革の発端となった。
スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、ヨーロッパ進出の足掛かりとしてハプスブルク領オーストリアに侵攻。ウィーンを包囲する。オーストリア軍の必死の抵抗でウィーン陥落は避けられたが、バルカン半島の支配権をオスマン帝国に奪われることとなった。
フェルディナント1世によりプロテスタントに一定の権利が認められる。
フェルディナント2世がプロテスタント弾圧を再開したため、プラハ窓外投擲事件が発生し、三十年戦争の発端となる。
三十年戦争の講和条約ヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)が結ばれる。神聖ローマ帝国を構成する領邦が主権国家として独立したため、神聖ローマ帝国は政治的統一性を失い形骸化した。
神聖ローマ帝国の牙城ウィーンをオスマン帝国の大軍に包囲されるも、これを退けた。オスマン帝国の最後の大規模なヨーロッパ侵略作戦となった。
第二次ウィーン包囲に敗れたオスマン帝国は、カルロヴィッツ条約により、ヨーロッパ諸国に対し大幅な領土の割譲を行った。
スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世の死後、フランス・ブルボン家のルイ14世が孫フェリペをスペイン王の継承者としたことを受け、フランスの伸長に抵抗を示したオーストリア(神聖ローマ帝国)・イギリス・オランダとフランス・スペイン連合軍との間でスペイン継承戦争が勃発した。最終的にはラシュタット条約により、ブルボン家の王位継承を認めるのと引き換えに、南ネーデルラントなどを得たことでオーストリアは勢力を拡大した。
オーストリア王位の継承をめぐる諸国の対立からオーストリア継承戦争が勃発した。マリア・テレジアの王位継承に対し、バイエルン・ザクセン選帝侯、フランス・スペイン王などが反対したことが発端。1748年アーヘンの和約により講和にいたり、マリア・テレジアの王位継承が認められた。
オーストリア・ハプスブルク家は、プロイセンとの七年戦争を前に、17世紀以来の宿敵ブルボン家と同盟を結び、いわゆる外交革命を現出した。
オーストリアとプロイセンの間で、七年戦争の講和条約フベルトゥスブルク条約が結ばれる。プロイセンのシュレンジエン領有を再確認し、オーストリアのヨーゼフ2世を神聖ローマ皇帝とすることを認める内容。
ロシア、プロイセンとともにポーランド分割に参加する。
フランスにて王政打倒のフランス革命が勃発する。オーストリアは革命の自国への波及を恐れて、フランスの内政に干渉したが、それが原因となりフランス革命戦争(92年〜)に発展した。
ロシア、プロイセンとともに第三次ポーランド分割に参加し、ポーランドを滅亡に追いやった。
ナポレオンによるヨーロッパ征服戦争が開始される。オーストリアも侵攻に遭い、アウステルリッツの戦い(1805年)における敗北が決定打となり、ナポレオンに屈服した。
神聖ローマ皇帝フランツ2世がオーストリア皇帝フランツ1世として即位し、オーストリア帝国が成立した。
ドイツ諸侯の多くが帝国議会を脱退したのを受け、フランツ2世は神聖ローマ皇帝を退位。これをもって神聖ローマ帝国は完全に崩壊した。
ナポレオンの失脚後、フランス革命以降乱れたヨーロッパ秩序を再建すべく、オーストリアはじめ、列強諸国の要人が参加するウィーン会議が開催される。ウィーン会議後は始まった保守反動的なヨーロッパ秩序はウィーン体制、もしくは会議を主導したオーストリア宰相メッテルヒの名にちなみ、メッテルヒ体制とも呼ばれる。
ウィーン会議の中で、オーストリアを盟主としたドイツ諸侯の連邦国家ドイツ連邦の結成が決定した。ドイツ35の領邦と4つの自由都市から構成されていた。
プロイセン王国の主導でドイツ関税同盟が結成され、オーストリアのドイツにおける影響力が大きく削がれた。
フランスで起きた二月革命の影響がオーストリアにも波及。メッテルヒは亡命に追い込まれ、メッテルヒ体制(ウィーン体制)は崩壊した。
イタリア統一戦争において、サルデーニャ王国からの挑戦を受ける。オーストリアはソルフェリーノの戦いでの敗北を持って、北イタリアにもっていた領土の大半を失った。
プロイセンとの普墺戦争に敗れ、ドイツにおける主導権を完全に失った。ドイツ統一はオーストリアを除外して、プロイセン主導で進められることとなった。
ハンガリー議会がアウスグライヒ法案でオーストリアとの合体を決める。以後オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねることとなり、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。
ドイツ・オーストリア・イタリアとの間で三国同盟と呼ばれる秘密軍事同盟が結ばれる。第一次世界大戦における中央同盟国の基礎となった。
バルカン諸国の一つであるボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリア=ハンガリー帝国に併合される。この併合を機に、同地におけるセルビア人の反オーストリア感情が高まっていった。
当時オーストリアが支配していたボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボにて、オーストリア皇太子夫妻が暗殺されるサラエボ事件が発生。セルビア人民族主義者による犯行であったことから、オーストリアはセルビアに宣戦布告を行い、第一次世界大戦の口火を切った。
第一次世界大戦の敗北にともないオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊。オーストリア革命にともなう憲法制定を経て、オーストリア共和国が樹立された。
連合国とオーストリアとの間でサンジェルマン条約を締結する。この条約によりオーストリアは、二重帝国時代の海外領の権益を正式に放棄した。
29年に始まる世界恐慌を受け、市場経済を統制すべく、イタリアのムッソリーニをモデルにした独裁体制オーストロファシズムが誕生した。
ナチスドイツによりオーストリアはドイツ第三帝国に併合された。
ナチスドイツのポーランド侵攻に端を発し、第二次世界大戦が開始された。
ソ連によるナチス支配下のオーストリア・ウィーン占領作戦ウィーン攻勢が行われ、ウィーンの町は大きな被害を受けた。最終的にソ連に占領され、オーストリアはナチスドイツの離脱を宣言した。
オーストリアは戦後連合国に分割占領されていたが、オーストリア国家条約にもとづき、独立共和国として復帰することが認められた。
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