オーストリアの国旗
オーストリアの国土
オーストリア(正式名称:オーストリア共和国)は 中央ヨーロッパの ドイツ、スイス、ハンガリー、イタリアなどに囲まれた内陸部に位置する 連邦共和国制国家です。国土は 全体のおよそ3分の2がアルプス山脈で構成され、気候区は 大部分が亜寒帯湿潤気候に属しています。首都は 「音楽の都」、「楽都」として知られる ウィーン。
この国ではとくに 機械、金属加工業が発達しており、中でも自動車の生産がさかんです。また歴史的建造物などの豊富な観光資源を背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。
そんな オーストリアの歴史は、8世紀末頃ヴィルヘルム家に建設されたオストマルク東方辺境伯領から始まるといえます。やがてオストマルク東方辺境伯領はオーストリア辺境伯領に改められ、14世紀半ばにハプスブルク家のルドルフ公がオーストリア大公と名乗ったことでオーストリア大公国が成立しました。第一次世界大戦敗北後のオーストリア革命によって共和国に。第二次世界大戦前にナチスドイツ・に併合されましたが、その後連合国により切り離され、永世中立国として独立を宣言して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなオーストリアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
古代オーストリアは、ケルト文化の影響を受けたノリクム王国が存在した地域です。紀元前1世紀にはローマ帝国に併合され、「ノリクム属州」となりました。ローマの支配下では、この地域は鉄鉱石の採掘と鍛冶が盛んに行われ、経済的に重要な役割を果たしていました。また、ローマの道路網が整備され、文化や商業が発展しましたが、西ローマ帝国の崩壊に伴い、バルバル人の侵入を受け、多くの変動を経験しています。
紀元前1世紀のオーストリア地域は、ローマ帝国の影響が強まりつつある時期でした。この時代、現在のオーストリアにあたる地域にはケルト人の部族が住んでおり、鉱山資源が豊富なノリクムが経済的中心地でした。
紀元前15年、資源の豊富さに目を付けたローマ帝国はノリクムを征服し、ノリクム属州となりました。ローマの支配下で、この地域はインフラが整備され、交易が活発化し、ローマ文化の影響が浸透していきます。これにより、ケルト文化は次第にローマ化し、オーストリア地域はローマ帝国の一部として統合されていったのです。
5世紀のオーストリア地域は、大きな変動期を迎えていました。この時代、ローマ帝国の支配力が急速に弱まっていく中で、ゲルマン民族の大移動が進行していたのです。オーストリアの地には、ローマの影響がまだ残っていたものの、ゲルマン系の部族、特に東ゴート族やランゴバルド族が進出し、次第に支配権を握るようになっていきました。
ローマ帝国の影響力が消えゆくと同時に、都市やインフラが衰退し、これにともない社会や経済も大きな変化を遂げました。また、キリスト教がこの地域にも広まりつつあり、宗教的な変革も進んだことも重要です。このように、5世紀のオーストリアは、ローマ支配の終焉と新たな民族の台頭、そして社会全体の移行期にあったのです。
中世オーストリアは、多様な支配者や民族の影響を受けました。西ローマ帝国の崩壊後、バイエルン公国の一部となりましたが、976年に独立し、オーストリア辺境伯領として知られるようになります。伯領はバーベンベルク家によって統治され、キリスト教化や経済の発展が進められ、多くの修道院が建設されました。13世紀になると今度はハプスブルク家が支配を確立し、同家統治下で、「豊富な鉱山資源」や「交通の要所」という背景もあり、オーストリアはみるみる発展していきました。
8世紀のオーストリア地域は、フランク王国の支配下で新たな局面を迎えていました。この時代、カール大帝(シャルルマーニュ)がフランク王国の王として勢力を広げ、現在のオーストリアにあたる地域もその影響下に組み込まれていったのです。
この地域は、東方辺境領として重要視され、アヴァールやスラヴ系の部族と接する防衛線としての役割を果たすことになりました。フランク王国による統治のもと、キリスト教の布教が進められ、教会や修道院が設立されるなど、宗教的にも重要な変革期となりました。また、これにともない、農業や経済活動が活性化し、次第に地域の安定と発展が進んでいったのです。
このように、8世紀のオーストリアは、フランク王国の影響を受けながら、新たな政治的、宗教的な枠組みが形成されていく時代だったといえます。
カロリング朝フランク王国のカール大帝が、ヴィルヘルム家にオストマルク東方辺境伯の爵位を与える。この現在のオーバーエスターライヒ州・ニーダーエスターライヒ州にあたるヴィルヘルム家の所領がオーストリアの基礎となった。
9世紀のオーストリア地域は、フランク王国の分裂とともに、政治的な変動が加速していた時期でした。この時代、カール大帝の死後、フランク王国は843年のヴェルダン条約によって東フランク王国、西フランク王国、中部フランク王国に分割され、オーストリア地域は東フランク王国の一部となったのです。
この地域では、マジャール人の侵入が頻発し、東フランク王国の防衛が大きな課題となっていました。東方辺境領としての重要性が増し、軍事的な要塞や防衛体制が強化される一方、キリスト教の影響力もますます強まり、修道院や教会が増設され地域の信仰心が深まっていったのです。これにともない、政治的・宗教的な安定を図る動きが見られましたが、マジャール人の脅威は続き、オーストリア地域は依然として不安定な状況にありました。
このように、9世紀のオーストリアは、フランク王国の分裂と外部からの脅威に直面しつつも、政治的・宗教的な安定を模索していた時代だったといえます。
ヴェルダン条約でフランク王国の国土が西フランク王国、中フランク王国、東フランク王国の3つに分裂し、オストマルク東方辺境伯領は東フランク王国の支配下に入る。
10世紀のオーストリア地域は、外敵との対立や地域的な権力の変動が続く、非常に波乱の多い時期でした。この時代、特にマジャール人の侵入が深刻化しており、オーストリア地域はその防衛の最前線となっていました。しかし、955年に東フランク王国のオットー1世がレヒフェルトの戦いでマジャール人を決定的に撃退し、この脅威が大きく減少したのです。
これにともない、オーストリア地域は徐々に安定を取り戻し、バーベンベルク家がこの地域を支配するようになりました。彼らはオーストリア辺境伯領を設立し、地域の防衛や行政を強化していきました。また、キリスト教文化のさらなる浸透が進み、修道院の設立や宗教的な活動が活発化するなど、宗教的な統一感も増していったのです。
このように、10世紀のオーストリアは、マジャール人の脅威から解放され、バーベンベルク家の支配のもとで安定と発展を遂げる礎が築かれた時代だったといえます。
ハンガリー大公アールパード家のアールパード率いるマジャル人の軍団がオーストリアに侵入。オストマルク東方辺境伯はフランス王国からの援軍を得てこれを撃破した。
東フランク王オットー1世がローマ皇帝として戴冠を受け、神聖ローマ帝国が成立。オストマルク東方辺境伯もその支配下に入る。
バーベンベルク家が衰退していたオストマルク東方辺境伯を支配するようになり、976年、領名をオーストリア辺境伯に改めた。
11世紀のオーストリア地域は、バーベンベルク家の支配が確立され、さらに力を強めていく時代でした。この時代、バーベンベルク家はオーストリア辺境伯領を拡大し、領土の統治と防衛を強化する一方で、経済や文化の発展にも力を入れました。これにより、オーストリア地域は徐々に中欧の重要拠点としての地位を確立していったのです。
特に、オットー2世やその後継者たちによる統治の下で、都市や農村の発展が進み、交易が活発化しました。また、教会や修道院がさらに増設され、キリスト教文化が一層深く地域に根付いていきました。これにともない、宗教的な権威も強化され、バーベンベルク家は教会と密接に連携しながら、支配体制を安定させていったのです。
このように、11世紀のオーストリアは、バーベンベルク家の支配のもとで領土拡大と文化・経済の発展が進み、中欧の重要な地域へと成長していった時代だったといえます。
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が教皇グレゴリウス7世に謝罪するため、北イタリアのカノッサ城にて屈辱的な姿勢を示した。この出来事は、皇帝と教皇の権力闘争の象徴として知られるようになった。
12世紀のオーストリア地域は、バーベンベルク家の支配がさらに強化され、オーストリアが中欧での重要性を一層増していった時代でした。特に、バーベンベルク家のハインリヒ2世は、オーストリア辺境伯からオーストリア公に昇格し、「オーストリア公国」の領土の拡大と統治の強化を進めました。彼はウィーンを政治と文化の中心として発展させ、オーストリアの地位を向上させることに成功したのです。
この時代、十字軍運動がヨーロッパ全体で活発化し、オーストリアもその影響を受けました。これにともない、騎士階級が台頭し、また修道院の設立が相次ぐなど、キリスト教の影響力が一層強まりました。さらに、農業の発展とともに経済が安定し、都市の発展が進むことで、オーストリア地域はますます繁栄することとなったのです。
このように、12世紀のオーストリアは、バーベンベルク家の統治のもとで政治的・経済的に発展し、文化や宗教の面でも繁栄を遂げた時代だったといえます。
バーベンベルク家のハインリヒ2世がオーストリア公となったことでオーストリア公国が成立した。この昇格により、オーストリアの地位と権威が大きく向上し、地域の政治的影響力が強まった。
13世紀のオーストリア地域は、バーベンベルク家の終焉とともに大きな転換期を迎えた時代でした。この時代、バーベンベルク家はオーストリアを強力に支配していましたが、1249年、後継者を残さずに家系が途絶えたことで、オーストリアは深刻な混乱に陥りました。
その後、オーストリアの支配権を巡る争いが激化し、最終的にハプスブルク家が台頭しました。1278年のマルヒフェルトの戦いで、ハプスブルク家のルドルフ1世がボヘミア王オタカル2世を打ち破り、オーストリア公国をハプスブルク家の支配下に置くことに成功しました。これにより、オーストリアはハプスブルク家による支配が始まり、彼らはこの地域を統治する中で、勢力を拡大しヨーロッパ全体に影響力を持つようになっていったのです。
このように、13世紀のオーストリアは、バーベンベルク家の終焉とハプスブルク家の台頭により、ヨーロッパ史における重要な転換点を迎えた時代だったといえます。
オーストリアを支配していたバーベンベルク家が断絶し、ドイツ諸侯によるオーストリア争奪戦が繰り広げられるようになる。オーストリアは一時的に無政府状態となり、混乱の中で様々な領主や家系がオーストリアの支配権を巡って争った。
マルヒフェルトの戦いで、ボヘミア王オタカル2世を打ち破ったハプスブルク家のルドルフ1世がオーストリアの支配権を得る。以後オーストリアはハプスブルク家の支配が続くこととなる。
14世紀のオーストリアは、ハプスブルク家の支配が本格的に確立され、さらに拡大していく時代でした。この時代、ハプスブルク家はその勢力を強化し、オーストリア公国を中欧の政治的中心地の一つとして発展させることに成功しました。特に、ルドルフ4世(「創設公」)は、ハプスブルク家の権威を高めるために数々の施策を打ち出しました。
ルドルフ4世は、ウィーン大学を創設し、オーストリアの学問と文化の中心地としての地位を確立しました。また、「大特許状」と呼ばれる文書を作成し、オーストリア公国を神聖ローマ帝国の中での地位を向上させることを試みたのです。これにともない、ウィーンは経済的にも繁栄し、交易の要所としての役割を果たすようになり、さらに都市の発展が進みました。
14世紀の後半には、ペストの流行や農民反乱などの社会的な混乱もありましたが、ハプスブルク家はその中で権力を維持し、オーストリアの安定を保つことに成功しました。
このように、14世紀のオーストリアは、ハプスブルク家の支配が確立され、文化的・政治的な発展が進みつつ、時折の混乱を乗り越えてさらなる成長を遂げた時代だったといえます。
スイス連邦軍がハプスブルク家の軍を破り、スイスの独立を維持する。この戦いはスイスの独立運動における重要な出来事となった。
オーストリア公ルドルフ4世が、自らを「大公」と僭称し、オーストリアの地位向上を図る。この称号の使用は後に正式な地位として認められることになる。
15世紀のオーストリアは、ハプスブルク家の支配がさらに強固となり、ヨーロッパ全体での影響力が拡大していく時代でした。この時代、特に重要なのはハプスブルク家の領土拡大と政治的な結婚政策です。ハプスブルク家は戦争よりも結婚によって領土を拡大し、ヨーロッパ中に広がる広大な領域を支配下に置くことに成功したのです。
神聖ローマ帝国の中で、ハプスブルク家は皇帝位を世襲化させ、1438年にはアルブレヒト2世が初のハプスブルク家出身の皇帝として即位しました。これにより、オーストリアは神聖ローマ帝国の中心地としての役割をますます強化し、ウィーンは政治的・文化的な中心地として栄えました。
さらに、1493年に皇帝に即位したマクシミリアン1世は、ヨーロッパ全土にわたる結婚同盟を通じて領土を大幅に拡大し、ハプスブルク家の勢力を決定的に強化しました。彼の統治の下、オーストリアは国際的な影響力を持つ強国としての地位を築いていったのです。
このように、15世紀のオーストリアは、ハプスブルク家の結婚政策と領土拡大により、ヨーロッパにおける政治的な影響力が飛躍的に高まった時代だったといえます。
教会の大分裂を解消するために開かれたコンスタンツ公会議は、教皇を退位させ、新たな教皇を選出することで教会の統一を図った。この会議はヨーロッパの宗教史において重要な役割を果たした。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世がオーストリア大公の称号を帝国法で法制化し、正式にオーストリア大公国が成立する。これにより、オーストリアの地位と権威はさらに強化され、ハプスブルク家の影響力も増大した。
近世オーストリアは、ハプスブルク家の支配下で重要な宗教および軍事的出来事が数多くありました。特に宗教改革の影響は深刻で、プロテスタントとカトリック間の対立が激化。オーストリアは「カトリックの守護者」として対抗宗教改革において中心的な役割を果たしています。1618年から1648年にかけての三十年戦争では、オーストリアはカトリック勢力の中心として活躍し、その後もヨーロッパの政治に大きな影響を与え続けました。
また、1683年の第二次ウィーン包囲では、オスマン帝国軍がウィーンを包囲しましたが、オーストリアはポーランド王ヤン3世ソビエスキの助けを借りてこれを撃退。ヨーロッパにおけるキリスト教国の防衛線を保持することに成功しました。これらの出来事は、オーストリアがヨーロッパの政治史において中心的な役割を果たす基盤を固めることとなりました。
18世紀には、マリア・テレジアが統治を行い、彼女の改革によって中央集権的な国家体制が強化、経済や教育が進展しています。また、彼女の息子であるヨーゼフ2世の下では、「啓蒙専制君主」としての改革が進み、宗教的寛容や農奴解放などで、近代国家への基盤が固まっていったのです。
16世紀のオーストリアは、ハプスブルク家の支配が絶頂に達し、ヨーロッパのみならず世界に影響を与える重要な時代でした。この時代、ハプスブルク家は広大な領土を支配し、「日の沈まぬ帝国」と称されるほどの国際的な勢力を誇りました。特に、神聖ローマ皇帝カール5世の時代は、スペイン、ネーデルラント、イタリア、アメリカ大陸などを含む広大な領土を統治し、オーストリアはその中心的な存在となったのです。
しかし、この巨大な帝国を維持するためには多くの難題が伴いました。宗教改革が始まり、プロテスタントとカトリックの対立が激化した為、ハプスブルク家は国内外で宗教紛争への対応を迫られるようになるのです。また、オスマン帝国の伸長に対抗するため、東方での防衛にも手を焼く様になりました。
このように、16世紀のオーストリアは、ハプスブルク家の絶大な権力と影響力のもとで、宗教的・政治的な対立と外敵の脅威に直面しながらも、ヨーロッパの中心としての地位を維持した時代だったといえます。
マルティン・ルターがカトリック教会の免罪符販売を批判する『95ヶ条の論題』を発表する。宗教改革の発端となった。
スレイマン1世率いるオスマン帝国軍が、ヨーロッパ進出の足掛かりとしてハプスブルク領オーストリアに侵攻。ウィーンを包囲する。オーストリア軍の必死の抵抗でウィーン陥落は避けられたが、バルカン半島の支配権をオスマン帝国に奪われることとなった。
神聖ローマ皇帝フェルディナント1世により、プロテスタントに一定の権利が認められる。アウクスブルクの和議は、ルター派の信仰を公的に認め、宗教の選択を諸侯に委ねることで、宗教改革後のドイツにおける宗教的対立を一時的に和らげた。この和議は、カトリック教会とプロテスタントの共存を図る重要な転機となった。
17世紀のオーストリアは、ハプスブルク家が依然として強力な支配力を持ちながらも、数々の難問に直面した時代でした。
この世紀には、ヨーロッパ全土を巻き込んだ三十年戦争(1618-1648)が勃発し、オーストリアはその中心的な舞台となりました。ハプスブルク家は神聖ローマ帝国の皇帝として、カトリック側を率いて戦いましたが、戦争の長期化で、国土が荒廃、経済的に深刻な打撃を被ったのです。
戦争終結後、1648年のヴェストファーレン条約によって、神聖ローマ帝国の権威は弱まり、オーストリアもまたその影響を受けました。とはいえ、ハプスブルク家はオーストリアを中心に勢力を維持し続け、帝国内での支配を強化しようと努めました。
さらに、オスマン帝国との対立が再燃し、1683年の第二次ウィーン包囲では、オスマン軍に再びウィーンが包囲されましたが、ヨーロッパ諸国の援軍によって撃退に成功しました。この勝利はオーストリアの地位を再び高めることとなり、ハプスブルク家はその後、バルカン半島への影響力を広げる契機となったのです。
このように、17世紀のオーストリアは、三十年戦争やオスマン帝国との対立という大きな試練を経ながらも、ハプスブルク家の支配力を維持し、ヨーロッパの政治舞台で重要な役割を果たした時代だったといえます。
フェルディナント2世がプロテスタント弾圧を再開したため、プラハ窓外投擲事件が発生し、三十年戦争の発端となる。この戦争は、宗教的対立を背景にヨーロッパ全土に広がり、最終的にはヴェストファーレン条約により終結した。オーストリアはこの戦争に深く関与し、戦後のヨーロッパの政治地図に大きな影響を与えた。
三十年戦争の講和条約ヴェストファーレン条約(ウェストファリア条約)が結ばれる。これにより、神聖ローマ帝国を構成する領邦が主権国家として独立したため、神聖ローマ帝国は政治的統一性を失い形骸化した。この条約は、ヨーロッパの国家体制に大きな影響を与え、主権国家の概念を確立する基盤となった。
神聖ローマ帝国の牙城ウィーンがオスマン帝国の大軍に包囲されるも、これを退けた。ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる救援軍が到着し、決定的な勝利を収めたことで、オスマン帝国の最後の大規模なヨーロッパ侵略作戦となった。この戦いは、オスマン帝国の勢力が後退する転換点となった。
第二次ウィーン包囲に敗れたオスマン帝国は、カルロヴィッツ条約により、ヨーロッパ諸国に対し大幅な領土の割譲を行った。この条約により、ハプスブルク家はハンガリーの大部分を獲得し、中央ヨーロッパにおける領土を拡大した。カルロヴィッツ条約は、オスマン帝国の衰退とハプスブルク家の勢力拡大を象徴する重要な条約である。
18世紀のオーストリアは、ハプスブルク家の勢力がさらに広がり、ヨーロッパの大国として重要な地位を築いた時代でした。この時代、オーストリアはハプスブルク帝国として広大な領土を持ち、その影響力は中央ヨーロッパ全域に及びました。とりわけ、オーストリア継承戦争(1740-1748年)と七年戦争(1756-1763年)がこの世紀の中心的な出来事としてオーストリアの運命を大きく左右しました。
オーストリア継承戦争では、マリア・テレジアが父カール6世の死後、ハプスブルク家の領土を継承しましたが、その是非を巡って各国が争いを起こし、オーストリアは多方面での戦いを強いられました。しかし彼女は堅実な統治を行い、中央集権化や行政、教育、経済改革を進め、オーストリアを近代国家へと導く礎を築いたのです。
また、七年戦争において、オーストリアはプロイセンとの対立が激化し、同盟関係や戦略の再編が求められました。戦争の結果、領土を大きく失うことは避けられたものの、プロイセンの台頭はオーストリアにとって新たな脅威となりました。しかし、こうした苦難にもかかわらず、ハプスブルク家は帝国の維持と強化に成功し、オーストリアは依然として「ヨーロッパの強国」としての地位を保ち続けていたのです。
このように、18世紀のオーストリアは、戦争と改革を通じてハプスブルク家の権力を維持し、ヨーロッパの政治において重要な役割を果たし続けた時代だったといえます。
スペイン・ハプスブルク家のカルロス2世の死後、フランス・ブルボン家のルイ14世が孫フェリペをスペイン王の継承者としたことを受け、フランスの伸長に抵抗を示したオーストリア(神聖ローマ帝国)・イギリス・オランダとフランス・スペイン連合軍との間でスペイン継承戦争が勃発した。最終的にはラシュタット条約により、ブルボン家の王位継承を認めるのと引き換えに、南ネーデルラントなどを得たことでオーストリアは勢力を拡大した。
オーストリア王位の継承をめぐる諸国の対立からオーストリア継承戦争が勃発した。マリア・テレジアの王位継承に対し、バイエルン・ザクセン選帝侯、フランス・スペイン王などが反対したことが発端。1748年アーヘンの和約により講和にいたり、マリア・テレジアの王位継承が認められた。
オーストリア・ハプスブルク家は、プロイセンとの七年戦争を前に、17世紀以来の宿敵ブルボン家と同盟を結ぶ。伝統的な敵対関係を逆転させる、いわゆる外交革命を現出した。
オーストリアとプロイセンの間で、七年戦争の講和条約フベルトゥスブルク条約が結ばれる。プロイセンのシュレンジエン領有を再確認し、オーストリアのヨーゼフ2世を神聖ローマ皇帝とすることを認める内容。
オーストリアは、ロシア、プロイセンとともにポーランド分割に参加し、オーストリアはガリツィア地方を獲得。ポーランド・リトアニア共和国の領土が三国により分割され、ポーランドの独立が次第に失われることとなった。この分割は、ヨーロッパの地政学に大きな影響を与えた。
フランスにて王政打倒のフランス革命が勃発する。オーストリアは革命の自国への波及を恐れて、フランスの内政に干渉したが、それが原因となりフランス革命戦争(92年〜)に発展した。この戦争は、ヨーロッパ全体を巻き込む大規模な紛争となり、オーストリアはフランスとの戦闘に深く関与することとなった。
ロシア、プロイセンとともに第三次ポーランド分割に参加し、ポーランドを滅亡に追いやった。オーストリアはこの分割で、さらに領土を拡大し、ガリツィア地方の一部を獲得した。この分割は、ポーランド・リトアニア共和国の終焉を意味し、ヨーロッパの地政学に大きな影響を与えた。
近代オーストリアは、オーストリア帝国としてハプスブルク家の支配下にあり、その後オーストリア=ハンガリー帝国として知られるようになりました。19世紀にはナポレオン戦争において重要な役割を果たし、ウィーン会議でヨーロッパの再編に大きく関与しました。しかし、民族主義の高まりと帝国内の多様な民族問題が帝国を脆弱にしていきました。1914年のサラエボ事件をきっかけに始まった第一次世界大戦は、オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊を加速させ、1918年には帝国が解体しました。その結果、現在のオーストリア共和国が誕生し、新たな民主主義国家としての歩みを始めました。
19世紀のオーストリアは、激動の時代を迎え、ハプスブルク帝国としての権力と影響力が試されることになりました。この時代、ナポレオン戦争(1803-1815年)やその後のウィーン会議(1814-1815年)を通じて、オーストリアはヨーロッパの秩序を再構築する中心的な役割を果たしました。特に、オーストリア外相メッテルニヒの指導のもと、ウィーン会議では勢力均衡を重視し、ヨーロッパの安定を図るための政策が打ち出されたのです。
しかし、19世紀中盤には、民族主義の台頭や革命の波がオーストリアを揺さぶりました。1848年の「諸国民の春」では、各地で独立や自由を求める運動が勃発し、オーストリア帝国内でもハンガリーやイタリアの反乱が起こりました。これにより、ハプスブルク家は大きな試練に直面しましたが、最終的には反乱を鎮圧し、帝国の統一を維持することに成功しました。
また、1866年の普墺戦争でプロイセンに敗北した結果、オーストリアはドイツ統一の主導権を失い、独自の道を模索することとなりました。これにより、1867年にはハンガリーとの間で妥協が成立し、オーストリア=ハンガリー二重帝国が成立しました。この制度は、オーストリアとハンガリーがそれぞれ独自の政府を持ちながら、共通の皇帝を戴く形で帝国の維持を図ったものでしたが、帝国内の民族問題は依然として残されました。
このように、19世紀のオーストリアは、ナポレオン戦争後の秩序構築、革命と民族主義の波、そして二重帝国の成立を経て、複雑な国際情勢と国内問題に直面しつつも、帝国としての地位を模索し続けた時代だったといえます。
ナポレオンによるヨーロッパ征服戦争が開始される。オーストリアも侵攻に遭い、アウステルリッツの戦い(1805年)における敗北が決定打となり、ナポレオンに屈服した。
神聖ローマ皇帝フランツ2世がオーストリア皇帝フランツ1世として即位し、オーストリア帝国が成立した。
ドイツ諸侯の多くが帝国議会を脱退したのを受け、フランツ2世は神聖ローマ皇帝を退位。これをもって神聖ローマ帝国は完全に崩壊した。
ナポレオンの失脚後、フランス革命以降乱れたヨーロッパ秩序を再建すべく、オーストリアはじめ、列強諸国の要人が参加するウィーン会議が開催される。ウィーン会議後は始まった保守反動的なヨーロッパ秩序はウィーン体制、もしくは会議を主導したオーストリア宰相メッテルヒの名にちなみ、メッテルヒ体制とも呼ばれる。
ウィーン会議の中で、オーストリアを盟主としたドイツ諸侯の連邦国家ドイツ連邦の結成が決定した。ドイツ連邦は35の領邦と4つの自由都市から構成され、各領邦の独立を尊重しつつ、連邦としての協力関係を構築することを目指した。オーストリアはこの連邦の盟主として中心的な役割を果たすこととなった。
プロイセン王国の主導でドイツ関税同盟が結成され、オーストリアのドイツにおける影響力が大きく削がれた。この同盟は、関税を廃止し、自由貿易を促進することで、ドイツ経済の統一と発展を図った。オーストリアはこの関税同盟に参加しなかったため、プロイセンの影響力が増大し、ドイツ統一運動において主導的な立場を築くことになった。
フランスで起きた二月革命の影響がオーストリアにも波及し、三月革命が勃発。オーストリア国内で大規模な反政府運動が広がり、メッテルニヒは亡命に追い込まれた。これにより、メッテルニヒ体制(ウィーン体制)は崩壊し、オーストリアは大規模な政治改革と社会変革に直面することとなった。革命はドイツ諸邦やイタリアなどヨーロッパ全土に影響を与え、各地で自由主義運動が活発化した。
イタリア統一戦争において、サルデーニャ王国からの挑戦を受ける。オーストリアはソルフェリーノの戦いでの敗北を持って、北イタリアにもっていた領土の大半を失った。この戦いは、イタリア統一運動における重要な転換点となり、イタリア王国の成立に向けた一歩となった。
プロイセンとの普墺戦争に敗れ、ドイツにおける主導権を完全に失った。ドイツ統一はオーストリアを除外して、プロイセン主導で進められることとなった。これにより、オーストリアは中欧における影響力を大幅に縮小することとなった。
ハンガリー議会がアウスグライヒ法案でオーストリアとの合体を決める。以後オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねることとなり、オーストリア=ハンガリー帝国が成立した。この二重帝国体制は、オーストリアとハンガリーの対等な連合を象徴し、両国の自治を尊重しつつ、共通の政策を維持する試みであった。
ドイツ・オーストリア・イタリアとの間で三国同盟と呼ばれる秘密軍事同盟が結ばれる。第一次世界大戦における中央同盟国の基礎となった。
20世紀前半のオーストリアは、ハプスブルク帝国の崩壊とその後の激動の時代を迎えました。第一次世界大戦(1914-1918年)では、オーストリア=ハンガリー二重帝国が同盟国側で参戦しましたが、戦争の長期化と敗北によって帝国は崩壊、1918年にハプスブルク家は帝位を失い、オーストリアは共和制へと移行しました。
戦後、オーストリアは「ドイツ=オーストリア共和国」として独立を宣言しましたが、ヴェルサイユ条約とサン=ジェルマン条約により、オーストリアとドイツの統一は禁じられ、国名も「オーストリア第一共和国」に改められました。これにともない、広大な帝国から一転して、小規模な山岳国となったオーストリアは、経済的困難や政治的不安定に直面しました。1930年代には、経済危機と政治的対立が激化し、オーストロファシズム体制が成立しましたが、この体制も長続きしませんでした。
1938年、ナチス・ドイツによる「アンシュルス」(オーストリア併合)が行われ、オーストリアはドイツに編入され、独立を失いました。第二次世界大戦中、オーストリアはドイツの一部として戦争に巻き込まれ、戦後は連合国による分割占領を受けることとなります。
このように、20世紀前半のオーストリアは、ハプスブルク帝国の崩壊、共和制への移行、ナチス・ドイツによる併合と戦争の影響を受けながら、国の存続とアイデンティティを模索した時代だったといえます。
バルカン諸国の一つであるボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリア=ハンガリー帝国に併合される。この併合を機に、同地におけるセルビア人の反オーストリア感情が高まっていった。
当時オーストリアが支配していたボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボにて、オーストリア皇太子夫妻が暗殺されるサラエボ事件が発生。セルビア人民族主義者による犯行であったことから、オーストリアはセルビアに宣戦布告を行い、第一次世界大戦の口火を切った。
第一次世界大戦の敗北にともないオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊。オーストリア革命にともなう憲法制定を経て、オーストリア共和国が樹立された。
連合国とオーストリアとの間でサンジェルマン条約を締結する。この条約によりオーストリアは、二重帝国時代の海外領の権益を正式に放棄した。
29年に始まる世界恐慌を受け、市場経済を統制すべく、イタリアのムッソリーニをモデルにした独裁体制オーストロファシズムが誕生した。
ナチスドイツによりオーストリアはドイツ第三帝国に併合された。
ナチスドイツのポーランド侵攻に端を発し、第二次世界大戦が開始された。
ソ連によるナチス支配下のオーストリア・ウィーン占領作戦ウィーン攻勢が行われ、ウィーンの町は大きな被害を受けた。最終的にソ連に占領され、オーストリアはナチスドイツの離脱を宣言した。
20世紀後半のオーストリアは、戦後の再建と中立国としての地位確立を通じて、安定と繁栄を取り戻す時代となりました。第二次世界大戦後、オーストリアは連合国(米・英・仏・ソ連)によって分割占領されましたが、1955年に締結されたオーストリア国家条約により、占領が終了し、オーストリアは独立を回復しました。これと同時に、永世中立国としての地位を宣言し、冷戦時代においても東西両陣営の間で中立を維持することに成功したのです。
中立国としてのオーストリアは、国際舞台で独自の役割を果たし、ウィーンには国連や国際機関の本部が置かれるなど、国際外交の中心地としての地位を確立しました。経済的には、戦後のマーシャル・プランや国内改革によって、急速な復興を遂げ、1950年代から60年代にかけて経済成長が進みました。また、社会的な安定と福祉国家の発展にも力を注ぎ、オーストリアは高い生活水準を実現したのです。
政治的には、社会民主党と人民党による大連立が長く続き、これにより政治の安定が保たれました。1980年代に入ると、欧州統合への参加が重要な課題となり、1989年のベルリンの壁崩壊後、冷戦終結を受けて、1995年にはオーストリアは欧州連合(EU)に加盟し、欧州の一員として新たな時代を迎えたのです。
このように、20世紀後半のオーストリアは、戦後の復興と中立国としての役割を通じて国際的な地位を高め、経済的・社会的な安定を実現しながら、欧州統合の一環として新たな時代へと歩みを進めた時代だったといえます。
オーストリアは戦後連合国に分割占領されていたが、オーストリア国家条約にもとづき、独立共和国として復帰することが認められた。
経済的な利益と地政学的な安定を求めるため欧州連合(EU)に加盟。貿易の増加、投資の増加、労働市場へのアクセス拡大など、経済全体の活性化が期待された。また、EU加盟は、オーストリアの国際的な地位を高めるとともに、近隣諸国との政治的な連携を強化する効果もあった。
21世紀のオーストリアは、欧州連合(EU)の一員として、国際的な協力と国内の安定を維持しながら、新たな課題に取り組む時代を迎えました。2000年代初頭、オーストリアはEU内での政治的・経済的な役割を強化しつつ、国際的な舞台でも活躍を続けています。特に、ウィーンは国連や国際機関の本部が集まる重要な国際都市としての地位を保っており、中立国としての伝統を活かして外交や平和活動に貢献しています。
国内では、移民問題や環境問題、社会福祉制度の維持など、新たな社会問題が浮上しています。多様な民族背景を持つ市民が増える中で、社会統合上の課題が大きくなってきたのですね。また、環境政策においても先進的な取り組みを進め、再生可能エネルギーの導入や気候変動対策に力を入れるようになったのも今世紀の特徴でしょう。
政治的には、伝統的な大連立の枠組みから、より多様な政治勢力が台頭する時代に移行しており、環境政党やポピュリスト勢力の影響力が増大しています。これは、国内外の変化に適応しつつ、オーストリアの未来を模索する政治的な動きの表れといえますね。
このように、21世紀のオーストリアは、EUの一員として国際的な課題に対応しながら、国内では多様化する社会や環境問題に取り組み、新たな時代の課題に向き合う姿勢を示しているといえます。
古代から現代にかけてのオーストリアの歴史は、多様な民族と文化の交流の場でした。ローマ帝国の一部としての役割から始まり、中世は強力なバーベンベルク家とハプスブルク家によって支配されました。近世にはハプスブルク家がオーストリア帝国を築き、宗教改革やナポレオン戦争に直面しました。19世紀には多民族国家としての複雑さが増し、第一次世界大戦後にオーストリア共和国が成立。ナチス・ドイツに一時併合された後、第二次世界大戦後に再独立を達成しました。冷戦時代を経て、1995年には欧州連合(EU)に加盟。経済的、政治的に安定した現代の福祉国家として発展しています。
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