
サンマリノの国旗
サンマリノの国土
サンマリノ(正式名称:サンマリノ共和国)は、 南ヨーロッパの イタリア半島東部・エミリア=ロマーニャ州とマルケ州に囲まれた領域に位置する 共和制国家および内陸国です。国土は ティターノ山を中心に広がる山地および丘陵地で構成され、気候区は 地中海性気候に属しています。領土は9つの都市(カステッロ)でなり、首都はティターノ山の頂上にあり中世の景観を多く残すサンマリノ。
この国ではとくに 観光業が発達しており、歳入の半分以上は観光客によるものです。食品工業もそれなりで主にワインやチーズ、オリーブオイルの生産が行われています。また観光と切手収集家を背景にした郵便切手発行もこの国の基幹産業となっています。
そんな サンマリノの歴史は、4世紀初頭、ローマ帝国のキリスト教弾圧から逃れた聖マリノがこの地に国を建てたことから始まるといえます。17世紀にローマ教皇により独立が承認され、世界最古の独立共和国になりました。19世紀後半にはイタリア統一運動(リソルジメント)に協力し、結果成立したイタリア王国と友好条約を締結。20世紀末には国連に加盟して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなサンマリノの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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ダルマチア地方出身のマリヌスが、ローマ帝国・ディオクレティアヌス帝のキリスト教徒迫害から仲間と共に逃れ、現サンマリノ市のティターノ山に立てこもる。サンマリノはここで建国を宣言されたとされる。
神聖ローマ帝国内のギベリン(皇帝派)とグエルフ(教皇派)の派閥争いの中で、ローマ教皇インノケンティウス4世から破門される(2年後破門解除)。
独自の憲法を制定し、共和制の都市国家の性格をなすようになった。
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ローマ教皇ウルバヌス8世がサンマリノの独立を承認。これによりサンマリノは世界最古の独立共和国となる。
アルベロニ枢機卿の軍勢によりサンマリノが占領される。しかしサンマリノ市民の抵抗と、教皇クレメンス12世がアルベロニに自制を促したことで共和国の独立は維持された。
フランスのナポレオンによるイタリア遠征が行われる。ナポレオン率いるフランス軍はオーストリア勢力を駆逐して北イタリアを占領し、サンマリノもその影響下に置かれる。
※この際ナポレオンはサンマリノに東方への領土拡大を提案しましたが、サンマリノは紛争に巻き込まれる危険を回避するため、この提案を却下しています。
ナポレオンの没落後、ウィーン会議にてサンマリノの独立が改めて確認された。
イタリア半島の統一(オーストリアなど外国からの独立)を目指すイタリア統一運動(リソルジメント)が開始される。サンマリノはイタリア統一運動最大の功労者といえるガリバルディを匿ったり、義勇軍を派遣するなどして、運動に協力した。
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ジュゼッペ・ガリバルディが征服した南イタリアを、イタリア統一運動を主導したサルデーニャ王国に寄進。これによりイタリア統一が完成し、イタリア王国が成立した。
イタリア統一への貢献が評価されイタリア王国と友好善隣条約を結んだ。また同国とは関税同盟も結び経済的な結びつきを深めた。
ゴジによって前年結成されたファシスト党が、サンマリノの政権を獲得する。26年には他の党の活動を禁止し、サンマリノは事実上の一党独裁国家となった。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻に端を発し、第二次世界大戦が勃発。イタリアはドイツの同盟国(枢軸国)として参戦し、サンマリノは開戦間もなくイタリア軍に占領された。
ムッソリーニ逮捕の3日後、サンマリノファシスト党が崩壊し、民主的な政府が復活する。しかしその後ムッソリーニがドイツ軍により救出されると、ファシスト党が復権。
ファシスト党が権力を握るサンマリノに、連合国軍が爆撃を開始。この爆撃によりサンマリノ市民63名が死亡している。その後サンマリノの戦いが行われた結果、サンマリノは連合国に占領された。
連合国軍の駐留の中で、ファシストの活動は完全に禁止された一方、共産主義勢力の伸長をもたらした。その結果、45年4月の選挙で共産党・社会党の連立政権が樹立した。
「サンマリノの歴史地区とティターノ山」として、サンマリノ市、ボルゴ・マッジョーレ市の歴史市街がユネスコの世界文化遺産に登録された。世界最古の独立共和国として、中世の街並みが色濃く保全されていることが評価された。
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