ピョートル1世(1672年 - 1725年)はロマノフ朝のロシア皇帝で、ロシア専制政治「ツァーリズム」を完成させた人物として知られます。ピョートル大帝とも。彼は即位後、ロシアを列強の一員に押し上げるべく、西欧諸国を自ら視察し、西欧技術の導入および産業近代化を推進しました。また在任中富国強兵に努め、スウェーデンとの大北方戦争でバルト海の覇権を確立したり、オスマン帝国が支配する黒海沿岸に進出し、南下政策のきっかけを作ったことも欧州史的に重要です。
ピョートル1世は即位後、西欧の文化・技術を積極的に取り込み、ロシアの富国強兵および近代化を強力に推し進めた功績で有名です。そのために自らイギリス、オランダに留学するなど、非常にアクティブで実行力に富んだ人物でした。
1703年に新都サンクト・ペテルブルクを建設し、バルト海進出の玄関口としました。この地は19世紀以後、ロシアにおける労働運動の最大拠点となり、1905年には血の日曜日事件が起こったことで、第一次ロシア革命の発端となっています。
内政面においては、メンシコフを重用し官僚機構を整備し、ロシア型専制君主(ツァーリ)体制をより強固なものとしました。絶大な権力を握ったことで、インペラトル(皇帝)を名乗り、国際的にもそれが認められたことで、ロシア帝国の建国者となったのです。
ピョートルの死因は膀胱炎です。1724年11月に、ネヴァ川河口の砂州に乗り上げてしまった漁船の救出作業に自ら出向き、真冬の海に入ったことが原因でした。これ以降ピョートルは深刻な膀胱炎にかかり、壊疽を併発し苦しんだ末に翌年1月に死亡したのです。ピョートルといえばロシアの近代化のため、自らオランダの造船所で職工としてアルバイトするなど、非常に行動的な皇帝として知られますが、この件に関してはその行動力が祟った不幸であるともいえます。
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