第二次世界大戦で「イタリアは戦勝国」という誤解

第二次世界大戦のイタリアは戦勝国か

第二次世界大戦でイタリアは終盤に連合国側に寝返ったが、正式な戦勝国とは認められていない。ヨーロッパにおけるその立場は複雑であり、戦後の処理や国際的評価にも影響を与えた。イタリアの役割と評価はヨーロッパの戦後秩序を理解する上で重要な論点である。本ページでは、このあたりの歴史的背景と戦後の影響について詳しく掘り下げていく。

第二次世界大戦でイタリアが「自称戦勝国」といわれる理由とは?

ピエトロ・バドリオ

ムッソリーニ政権を倒し、連合国軍への降伏を決断した軍人


第二次世界大戦での「戦勝国」って聞くと、アメリカやイギリス、ソ連がすぐ思い浮かびますよね。でもそこにイタリアの名前が並んでいたら…ちょっと首をかしげたくなりませんか?だって戦争のスタート時、イタリアはバリバリの枢軸国としてドイツや日本と肩を並べていたんです。それなのに終わってみれば「自分たちも勝った側だ」と主張して、ちゃっかり戦勝国の席に座っていた。この一転っぷりが「自称戦勝国」という皮肉な呼び名を生むわけです。今回は、その経緯をヨーロッパ史の流れの中でたどっていきます。



開戦時は枢軸国だった理由

第二次世界大戦の初期、ヨーロッパ各地でドイツが次々と国を制圧していく電撃戦の勢いを見て、イタリアの独裁者ベニート・ムッソリーニ(1883 - 1945)は「今なら勝ち馬に乗れる」と踏みました。当時、イタリア国内でもドイツの勝利に影響された好戦的な空気が広がっており、領土拡張の野心とあいまって1940年に枢軸国側として参戦します。ターゲットはフランスや北アフリカ、バルカン半島など、地中海を中心とした地域でした。


しかし実際には、軍事力や経済力の差が大きく、計画通りの戦果はほとんど挙げられませんでした。戦線の維持にはドイツ軍の支援が不可欠となり、むしろ戦争の足を引っ張る形になってしまったのです。これは、当初描いた「戦果で国威を高める」という目論見とは正反対の展開でした。


軍備不足

戦車や航空機の性能は同時期のドイツ製に比べて明らかに劣っており、エンジン出力や装甲の薄さが弱点でした。近代化のスピードも遅く、新型兵器が戦場に届く前に戦局が悪化することも多かったのです。さらに燃料や資材の不足も深刻で、継続的な兵站を維持できませんでした。


戦果不振

1940年末からのギリシャ侵攻では、予想に反してギリシャ軍の激しい抵抗に遭い、逆にアルバニア方面へ押し返されます。この状況を立て直すためにはドイツ軍のバルカン半島侵攻が必要となり、イタリア軍単独での戦果はほとんど残せませんでした。北アフリカ戦線でも同様に、エル・アラメインの戦いをはじめ多くの局面でドイツ・アフリカ軍団の援護を受けることになります。


戦局悪化で立場を変えた理由

1943年、連合国がシチリア島に上陸すると、それまで我慢を重ねてきた国民の不満が一気に噴き出します。物資不足や空襲被害、戦線の連敗が続くなかで、「このままでは国が滅びる」という危機感が政権中枢にも広がりました。ついに国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世(1869 - 1947)は、独裁者ムッソリーニを電撃的に解任し、イタリアの進路を大きく変えます。後任のバドリオ元帥は、戦争の早期終結を最優先に掲げ、連合国との交渉を開始。そして休戦協定の締結により、イタリアは旧同盟国だったドイツと武器を交えるという、当時としても極めて異例の「陣営転換」を行いました。この急転直下の変化は、国内外の政治バランスを大きく揺るがすことになります。


ムッソリーニ解任

シチリア上陸の報を受け、ファシスト党内の反ムッソリーニ派や軍上層部が一斉に動き出します。国王はこれを好機と見て政権交代を断行。ムッソリーニは逮捕され、長年続いた独裁体制は突然幕を下ろしました。


連合国との休戦

1943年9月、バドリオ政権は極秘裏に進めてきた交渉をまとめ、連合国と休戦協定を締結します。しかしその発表は混乱を招き、多くの戦線でイタリア軍は指揮系統を失い、撤退や降伏が相次ぎました。一方で、ドイツ軍は即座に北・中部イタリアを占領し、事実上の内戦状態へ突入することとなったのです。


戦後に「自称戦勝国」と呼ばれた理由

第二次世界大戦の終結後、イタリアは「最終的には連合国側で戦った」という事実を根拠に、自らを戦勝国として扱うよう主張しました。確かに1943年以降はドイツと戦い、北イタリア解放にも一定の役割を果たしましたが、開戦当初は明確に枢軸国側だった過去を各国は忘れていませんでした。そのため「途中で勝ち馬に乗り換えただけ」という冷ややかな見方が広がり、皮肉を込めた「自称戦勝国」という呼び名が定着していきます。この評価は、戦後の賠償交渉や国際的な立場にも影響を及ぼしました。


主張と現実のギャップ

イタリア軍が連合国として戦ったのは事実ですが、その期間は限られており、戦局を大きく左右する決定的な戦果は残せませんでした。むしろ休戦直後の混乱で戦線を崩壊させ、ドイツ軍の北部占領を許すなど、貢献よりも負担の面が目立つ状況だったのです。


他国からの評価

戦争の初期から終わりまで一貫して連合国側に立って戦った国々から見ると、イタリアの「戦勝国」主張はあくまで自己申告に過ぎませんでした。そのため国際社会では、形式的には戦勝国の一員であっても、実質的には信頼や評価の面で大きなハンデを抱えることになったのです。


このように、イタリアは第二次世界大戦中に立場を大きく変えたことで、戦後には「自称戦勝国」という皮肉なラベルを貼られることになったのです。