イギリスで起こった宗教改革は大陸ヨーロッパで起きた宗教改革と異なる点が2つあります。一つは離婚問題という非宗教的な問題が発端であること。もう一つは大陸ヨーロッパで起こった宗教改革は、一般市民によって始められた、反権力的な側面がありましたが、イギリスではテューダー王朝のヘンリー8世により、宗教を統制し、王権を強めるために行なわれた権威的な側面が強いという点です。
ヘンリー8世
ヘンリー8世はもともとルターの宗教改革には批判的で、ルター派を弾圧し、教会から「信仰の擁護者」と讃えられるほどでした。そんな教会との関係にヒビが入ったのは、子を授からないキャサリン王妃との離婚を、スペイン国王兼神聖ローマ教皇が拒否してからです。厳格なカトリックの教義では離婚は認められていなかったため、国王は教会への不満と募らせていきました。
教皇との対立でカトリックを辞めざるえなくなったヘンリー8世は、首長法(国王至上法)を発布(1534)し、イングランド国王を最高指導者とする「イングランド国教会」という独自の教会制度を創設します。そして王への服従を拒否したカトリック修道院は解体してしまい、没収した土地を市民に安く売りさばくことで人気取りに繋げました。そしてヘンリーの後を継いだエドワード6世(在位1547〜53)は、プロテスタント(カルバン派)の教義を取入れた一般祈祷書を制定し、イギリス国教会の教義・制度を整備しました。
1553年、メアリ1世が王位につき、翌年にスペイン皇太子フェリペと結婚。カトリック国であるスペインの影響力が強まった上、メアリは厳格なカトリックだったため、カトリックの再興・ローマとの関係回復を目論見、国教会への弾圧を開始しました。その苛烈さは「ブラッディー・メアリー」という通り名が残るほどでしたが、彼女は即位後わずか5年で病死したので、国教会が壊滅に追い込まれることはありませんでした。
1558年、のちにイングランド黄金期を創世するエリザベス1世が即位。1559年に統一法を制定し、イギリス国教会を確立。礼拝や祈祷の基準を統一するとともに、カトリック勢力の排除を進め、国教会の体制が安定的なものにしていきました。さらに1588年にスペインの無敵艦隊を破ったことで、宗教改革の完成は決定的なものとなったのです。しかしカトリックを完全に排除することはできず、宗教的対立は続いたため、17世紀のイギリス革命へと繋がっていきました。
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