七月王政の特徴

七月王政の国王ルイ・フィリップ

 

七月王政は、オルレアン家のルイ・フィリップを国王としたフランスの政治体制で、オルレアン朝とも呼ばれます。1830年7月29日の七月革命により成立し、1848年2月24日の二月革命で打倒されるまで続きました。ここではそんな七月王政の成立背景や、その政策的特徴、それが打倒される経緯についてまとめています。

 

 

 

七月王政の成立

七月革命は享楽的なシャルル10世を打倒するため、三色旗を手にした民衆が蜂起し起こした革命です。その結果、シャルル10世を退位させることに成功し、立憲君主制をとる七月王政が成立しました。新国王として即位したルイ・フィリップは、かつてのブルボン朝のような絶対王政およびそれを支えた王権神授説を否定し、神ではなくフランス人によって選ばれたことを示す「フランス人の王」を称しました。

 

七月王政の治世

オルレアン朝は「1830年憲章」を制定し、世襲による貴族議員制度を廃止。さらに選挙権を拡大し、有権者数を9万人から16万人に大幅に増やすなど改革を進めていきました。しかしそれでも納税額に応じて有権者が決まる仕組みは変わらず、国民全体のおよそ0.6%しか選挙権を持たない状態であり、オルレアン朝も結局ブルジョワ層の権益を守ることに終始していました。

 

七月王政の下、フランスでは鉄道建設をはじめとした工業発展が着々と進められましたが、それで生まれた利益はほとんど富裕層が独占。フランス国内の格差はみるみる広がっていきました。ブルジョワ層に都合のいい支配体制を貫くルイ・フィリップを「株屋の王」と批判する声も上がり始めるなど、民衆の不満は日に日に高まっていったのです。

 

七月王政の崩壊

民衆は格差社会への不満を抱き、普通選挙の実施を望みました。ギゾー内閣は選挙法改正を望む声を弾圧しますが、民衆の運動が激しさを増す中、改革派や社会主義者の勢いが増していきます。そんな中、1848年2月21日、呼びかけに応じた群衆がシャンゼリゼ通りへ集まり、翌日には農民や労働者、学生も含めデモ隊が組織。デモ隊は議会へ行進し、軍隊と対峙したのです。

 

フランス第二共和政の成立

軍隊が群衆に攻撃を加え始めると、人々はバリケードを作り、投石で戦いましたが、2人の女性が犠牲になります。これで民衆の怒りがピークに達したことをうけ23日、ルイ・フィリップはギゾー首相を辞任させ何とか沈めようとしましたが、新首相に就任したのが保守反動派のモレだったため、国民は再び蜂起し軍と衝突。結局事態収拾を不可能とみたルイ・フィリップは退位に追い込まれ、ロンドンへ亡命していきました。この一連の運動を二月革命と呼び、これによって18年間続いた七月王政は崩壊。フランス第二共和政が成立したのです。