古代ローマ時代の日本は何時代?両者の共通点や影響を知ろう

古代ローマ時代の日本

古代ローマ時代は日本では弥生時代から古墳時代にあたり、直接の交流は少ないが技術や文化の広がりに共通点がある。本ページでは、このあたりの歴史的背景とヨーロッパ文化との関連について詳しく掘り下げていく。

何時代だった?両者の共通点や影響を知ろう古代ローマ時代の日本の姿を探る

物見櫓から望む吉野ヶ里遺跡の集落遠景の写真

物見櫓から望む吉野ヶ里遺跡の集落遠景
環濠集落の内郭部を見渡せる構図。
防御施設と建物配置が一体で分かる。

出典:『Yoshinogari Kitanaikaku from Minaminaikaku』-Photo by Pekachu/Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0


 


古代ローマ時代は、大きく分けて


  • 王政ローマ期(紀元前753年~紀元前509年)
  • 共和制ローマ期(紀元前509年~紀元前27年)
  • 帝政ローマ期(紀元前27年~紀元後476年)


という三つの段階に区分されます。
意外に思われるかもしれませんが、この長い時代の大半は、日本弥生時代と重なっているんです。


片や地中海世界で巨大な国家を築き上げていたローマ。
片や稲作が広まり、社会のかたちが大きく変わり始めていた日本列島。
舞台も規模もまったく違いますが、同じ時代を生きていたと考えると、少し見え方が変わってきますよね。


遠く離れたローマと日本が、同じ時間軸の中でそれぞれの社会を形づくっていた──ここが、今回の注目ポイントです。


以下ではまず、古代ローマ時代と日本の弥生時代、それぞれの特徴をコンパクトに整理します。
そのうえで、社会構造や価値観の共通点、そして後の時代へ与えた影響について、順を追って見ていきましょう。



古代ローマ時代とは

インプルウィウムを備えたポンペイのローマ住宅(ドムス)の写真

インプルウィウムを備えたポンペイのローマ住宅(ドムス)
中庭(アトリウム)中央に雨水をためる池がある。
来客を迎える空間で、家の格も示した。

出典:『Atrium with impluvium in the House of the Vetti Pompeii』-Photo by Mary Harrsch/Wikimedia Commons CC BY-SA 4.0


 


古代ローマ時代は、紀元前8世紀ごろにイタリア半島でローマ王国が成立したところから始まり、紀元後5世紀、西ローマ帝国が滅亡するまでの長い期間を指します。
この時代は、大きく共和政ローマと帝政ローマに分かれ、それぞれの段階で社会のあり方が大きく変化していきました。


政治制度、法律、建築、文学、芸術──どの分野を見ても、ローマは驚くほどの発展を遂げています。
地中海世界を中心に広大な領域を支配し、その統治のために整えられた法や制度は、後のヨーロッパ社会に深く根を下ろしました。


ローマは「征服した帝国」であると同時に、「仕組みを残した文明」でもあった
この点が、古代ローマを特別な存在にしている理由です。



弥生時代とは

復元された弥生時代の住居(登呂遺跡)の写真

復元された弥生時代の住居(登呂遺跡)の写真
静岡・登呂遺跡で復元された弥生住居。
茅葺きと木組みの姿から当時の暮らしが見える。

出典:『Toro3』-Photo by Urashimataro/Wikimedia Commons Public domain


 


弥生時代は、日本史において縄文時代の次に位置づけられる時代です。
弥生土器の登場をきっかけに、石器中心の生活から、青銅器や鉄器を用いる社会へと大きく転換していきました。


水田稲作の普及によって定住が進み、小規模ながらも国家の原型といえる集団が各地に現れます。
さらに、中国との外交関係が始まるなど、日本列島が外の世界と結びつき始めた時代でもありました。


この弥生時代は、紀元前10世紀ごろから紀元後3世紀中頃まで続きます。
ちょうどその終盤、古代ローマでは「3世紀の危機」と呼ばれる深刻な動乱が発生していました。
内乱や外敵の侵入が相次ぎ、4世紀にはゲルマン民族の大規模な移動が帝国社会に大きな揺さぶりをかけます。


そして476年、西ローマ帝国はついに滅亡。
興味深いことに、その翌年、日本の倭国は宋へ朝貢を行っています。


遠く離れたローマと日本。
同じ時代を生きながら、それぞれが次の時代へ向かう大きな転換点に立っていた──そう考えると、歴史のつながりが少し身近に感じられてきますね。


古代ローマ時代と弥生時代の比較

弥生時代の日本と古代ローマを並べてみると、社会の規模や技術水準は大きく違うものの、意外な共通点がいくつも見えてきます。
遠く離れた地域で、同じ時代に生きていた人々が、どんな課題に向き合っていたのか。そこを意識しながら見ていきましょう。


共通点──社会の土台が固まり始めた時代

どちらの社会も、この時代に「人がまとまって生きるための仕組み」を本格的につくり始めています。
国のかたちは違っていても、暮らしと権力の関係が整理されていく過程には、よく似た空気が感じられるんですね。


共通点①:農業の発展

弥生時代の日本では、水稲農耕が本格的に広まりました。
安定した食料生産が可能になったことで、人々は定住し、集落が発展していきます。


一方、古代ローマでも農業は経済の重要な基盤でした。
広大な領土で生産された穀物は、都市や軍を支える生命線。 安定した農業こそが、社会を支える根っこだったという点は、両者に共通しています。


共通点②:社会構造の変化

農業が発展すると、余剰生産が生まれます。
その結果、弥生時代の日本では首長層が現れ、集落間の力関係がはっきりしてきました。


古代ローマでも同様に、土地を持つ者とそうでない者の差が広がり、
貴族や平民といった階層構造が社会の中に定着していきます。


食料をどう分配するか。
誰が決定権を持つのか。


こうした問題に向き合いながら、両文明はそれぞれのかたちで、社会と権力の仕組みを整えていったのです。


違い──社会の成熟度が分かれたポイント

共通点が見えてくる一方で、両者を比べると、社会の「進み方」にははっきりした差もあります。
それは優劣ではなく、置かれていた環境や歴史の段階が違っていた、ということ。
ここでは、その違いが特によく表れるポイントを見ていきましょう。


違い①:政治体制

弥生時代の日本は、部族的な集団が少しずつまとまり、小国家が生まれ始めた段階でした。
首長は存在していたものの、政治制度はまだ流動的で、地域ごとの差も大きかったと考えられています。


一方の古代ローマは、共和政を経て帝政へと移行し、極めて制度化された政治体制を築いていました。
権力の分担や法の整備が進み、国家としての完成度はすでに高い水準にあったのです。


違い②:都市の発展と建築

コンスタンティヌス時代の古代ローマ都市景観の模型

コンスタンティヌス時代の古代ローマ都市景観の模型
「Plastico di Roma Imperiale」を俯瞰した一枚。
コロッセウム周辺の街並み配置が一望できる。

出典:『Vue maquette de Gismondi, J.-P. Dalbera』-Photo by Jean-Pierre Dalbera/Wikimedia Commons CC BY 2.0


古代ローマといえば、計画的につくられた都市と壮大な建築物。
道路、水道、浴場、円形闘技場など、都市そのものが文明の象徴でした。


それに対して弥生時代の日本では、生活の中心は集落であり、住居は主に竪穴式。
都市と呼べるほどの大規模な空間は、まだ登場していません。 都市という概念そのものが、まだ必要とされていなかった──ここが、大きな違いです。


違い③:技術と文化の伝播

古代ローマは、広大な領域を支配する中で、道路網や建築技術、法律や文化をヨーロッパ全域へと広めました。
影響は帝国の外にも及び、後世のヨーロッパ社会の基盤となっていきます。


一方、弥生時代の日本の文化は、基本的に日本列島内で展開されていました。
中国大陸や朝鮮半島との交流はあったものの、その影響は段階的で、広域に拡散する性質のものではありません。


同じ時代を生きていても、社会の広がり方や成熟度は大きく異なる。
この違いを知ることで、古代ローマと弥生時代、それぞれの立ち位置がよりはっきり見えてくるのです。


以上の点から、弥生時代の日本と古代ローマは、農業を基盤とした社会構造の発展という共通点を持ちながらも、政治体制や都市計画、文化の広がり方などにおいて顕著な違いが見られます。


古代ローマが日本に与えた影響

文明開化で整備された銀座煉瓦街(1880年代)の写真

文明開化で整備された銀座煉瓦街(1880年代)の写真
欧米式の街路と煉瓦建築で近代化を演出した銀座の景観。
西洋化の手本となった欧州古典主義を通じ、古代ローマの間接的影響を感じ取れる。

出典:『Ginza in 1880s』-Photo by Kimbei Kusakabe/Wikimedia Commons Public domain


 


古代ローマが日本に与えた影響は、結論から言えば直接的なものではなく、間接的なものが中心です。
地理的な距離はあまりにも遠く、古代の段階でローマと日本が直接交流していた可能性は、ほぼありません。


そのため「ローマの制度や文化が、そのまま日本に伝わった」という話ではないんですね。
ただし──遠回りではあっても、影響そのものが小さかったわけではありません。


古代ローマは、西洋文明の土台として、日本に“後から効いてくる存在”だった
ここが、このテーマを考えるうえでの大事な視点です。


文化と思想──西洋文明の基礎としてのローマ

古代ローマの文化や法律、哲学的な思考は、ヨーロッパ全域へと広がり、中世以降のヨーロッパ文明の基盤を形づくりました。
ローマは滅びても、その考え方や制度は生き残り、次の時代へと引き継がれていったのです。


そして近代以降、西洋文化が世界へ広がる過程で、こうしたローマ由来の思想もまた、日本へと伝わってきました。
日本が西洋文明と本格的に向き合ったとき、すでにその背後には、古代ローマの積み重ねがあった──そう考えると分かりやすいですね。


キリスト教──帝国が育てた世界宗教

古代ローマにおけるキリスト教の受容と公認は、この宗教が世界宗教へ成長する決定的な転機となりました。
国家の枠組みの中で保護・普及されたことで、キリスト教はヨーロッパ全体に根づいていきます。


そのキリスト教が、16世紀にヨーロッパから日本へ伝来。
布教活動を通じて、日本の歴史や社会、価値観にも少なからぬ影響を与えました。
この流れをたどっていくと、日本と古代ローマは、宗教という一本の線で、間接的につながっているとも言えます。


法制度──近代日本へ届いたローマ法の影響

古代ローマ法は、西洋法体系の出発点となり、その後のヨーロッパ諸国の法制度に大きな影響を与えました。
近代に入ると、日本は西洋法を参考にしながら法制度の整備を進めていきます。


その際、参照された西洋法の奥底には、ローマ法の考え方が息づいていました
つまり日本の近代法制にも、間接的ではありますが、古代ローマの影響が流れ込んでいるわけです。


 


このように見ていくと、古代ローマの影響は、ヨーロッパ文明というフィルターを通して、日本へと伝わってきたことが分かります。
法律、宗教、思想──形は変わっても、その根っこにはローマの遺産がある。


遠く離れた存在でありながら、気づけば日本の近代史の足元にも関わっている。
古代ローマとは、そういう「静かに効いてくる文明」だったと言えるのかもしれませんね。


振り返ってみると、古代ローマ時代と日本の弥生時代は、 農業の発展社会構造の変化といった共通点を持ちながらも、歩んだ道筋は大きく異なっていました。


弥生時代の日本では、稲作を基盤に小さな社会が形づくられ、
古代ローマでは、法と制度を整えながら巨大な国家へと成長していく。
政治体制、都市の発展、文化の広がり方──その違いは、社会の成熟段階や置かれた環境の差をはっきりと映し出しています。


ただし、古代ローマの影響が日本と無関係だったかというと、そうではありません。
直接の接触はほとんどなかったものの、ローマが築いた文化や法律、思想は中世以降のヨーロッパ文明を形づくり、
さらに西洋文化の広がりを通して、日本へと間接的に伝わっていきました。


時代も場所も違う文明が、長い時間を経てどこかでつながっていく
古代ローマと弥生時代の日本を並べて見てみると、そんな歴史の面白さが浮かび上がってきます。


一見すると関わりのなさそうな二つの世界。
けれど比較してみることで、文明や文化が連なり、影響し合いながら続いてきたことが実感できる。
それこそが、歴史を学ぶ醍醐味なのかもしれませんね。