血の日曜日事件

血の日曜日事件

アイルランドでは、20世紀に入ってから「血の日曜日事件」と呼ばれる、罪のない一般市民が軍の犠牲になる事件が二度発生しており、今なおアイルランド人にとって忘れてはならない惨劇として記憶されています。いずれも中世来のイギリス植民地支配に端を発する事件であり、アイルランド人が自由と独立を得るため払ってきた代償の一つともいえるでしょう。

 

 

1920年の血の日曜日事件

イギリス軍士官の暗殺事件

1919年以来アイルランドでは、アイルランド独立を掲げるIRA(アイルランド共和軍)とイギリス軍との武力抗争が繰り広げられていました(アイルランド独立戦争)。その渦中の1920年11月21日早朝、ダブリンに根を張る英スパイ網を壊滅させるべく、IRAがイギリス軍士官13名を暗殺してしまいます。

 

市民への無差別銃撃

イギリスは上記の事件を受け、「ダブリン市内のゲーリック・フットボールの試合会場に暗殺実行犯が潜伏している」との情報を得て、会場へ急行、到着後間もなく無差別に銃撃を開始し、罪のない一般市民14人をも殺傷してしまったのです。またこの日の夕刻には、捕虜となっていたIRAの幹部ら3名が、ダブリンの牢獄で処刑されました。

 

事件後の影響

この無差別銃撃事件は「血の日曜日事件」として世界中で報道され、イギリス政府は国際的に強い非難を浴びるだけでなく、アイルランド人の怒りに火をつけたことで、アイルランドの独立闘争をいっそう勢いつける結果になりました。さらにスパイ組織が崩壊しアイルランドでの諜報活動が不可能となったことで、イギリスは独立戦争の継続が困難な状態になり、休戦からの英愛条約締結、アイルランド自由国建国へと繋がっていくのです。

 

1972年の血の日曜日事件

カトリック住民とプロテスタント住民の対立

アイルランド独立戦争終結後、南アイルランドはイギリスからの独立を遂げたものの、プロテスタント地区の北アイルランドは引き続きイギリスに統治され、数少ないカトリック系住民への差別が続く状態になっていました。そして1960年代からは、当時アメリカで高まっていた公民権運動に触発されたこともあり、差別撤廃を訴えるカトリック系住民とプロテスタント系住民との対立がますます激化するのです。

 

イギリス軍によるカトリック系住民への発砲

そんな中での1972年1月30日、北アイルランド第二の都市デリーで、公民権運動のデモ行進に参加したカトリック系住民らが、イギリス陸軍から発砲を受け、14人が死亡する事件が発生したのです。

 

事件後の影響

この事件により、イギリス王国に帰属意識を持つプロテスタント系住民と、アイルランド共和国とともに自主独立するべきだというカトリック系住民の対立は収拾不可能なものになり、以後ベルファスト合意まで25年以上にわたり、北アイルランドは紛争状態に陥ってしまうのです(北アイルランド紛争)。