アルビジョワ十字軍はなぜ結成されたの?

十字軍に征服された都市から追放されるアルビ派

 

アルビジョワ十字軍(仏語:Croisade des Albigeois)とは、13世紀前半、ローマ教皇インノケンティウス3世により呼びかけられ、南フランスの異端アルビ派(カタリ派)の撲滅のため結成された軍隊です。教会と足並みを揃えるカペー朝にとっては、異端をどうこうすることよりも、南フランスを征服し、王権と領土を拡大することが何よりの目標でした。

 

 

異端カタリ派とは

アルビ派は、マニ教の流れをくむ宗教で、フランス南部のアルビを中心に信仰されたため、このように呼ばれています。

 

アルビ派の教義

カタリ派の別名でも知られ、カタリ(Cathari)というのは、「清浄」や「純粋」を意味するギリシャ語「カタロス」に由来しています。その語源通り、不殺生、菜食主義のほか、様々な行き過ぎなくらいの禁欲的な教理をもっていました。

 

しかし異端とされたのは、その厳格な教義というより、カトリック教会の聖職者の腐敗・堕落を批判していたためです。

 

アルビジョワ十字軍遠征の過程

教会による異端撲滅の決定

教会は最初、アルビ派に向けて、カトリックに改宗するよう働きかけを行ないましたが、ほとんどは聞く耳を持ちませんでした。そんな中、南仏に送った教皇使節が暗殺される事件が起きます。ローマ教皇インノケンティウス3世はこれに激怒し、カタリ派を擁護するレーモン6世の関与として、南仏征服・異端撲滅の決定を下したのです。

 

十字軍の結成とベジエでの虐殺

教皇の決定に北フランス諸侯も賛同し、およそ3万の軍勢からなるアルビジョア十字軍が組織されました。アルビ派だけでなく、彼らを保護する南フランス諸侯も征伐の対象にされ、1209年、南フランス諸都市への侵攻が開始されました。

 

 

虐殺の開始

十字軍による襲撃は苛烈を極め、狙われた都市では徹底的な破壊と虐殺が行なわれました。最初の十字軍攻撃が行なわれたベジエでは、1万5000人もがサン・ナゼール教会で殺戮されており、最終的には南フランス全土で100万もの人々が(アルビ派であるかどうかに関わらず)虐殺されたといわれています。

 

カタリ派の滅亡

アルビジョア十字軍による苛烈な進撃を受け、ほとんどの南フランス都市が降伏していきました。町を追い出され、逃げ道がなくなったカタリ派は、山に立てこもるなどして抵抗しましたが、執拗な攻撃に耐えられず、1225年ついに降伏。そして1330年頃に最後の信者が火刑に処され、カタリ派という存在は世界から抹消されたのです。

 

アルビジョワ十字軍遠征の影響

南仏文化の消滅

長年の攻防のすえ、ルイ9世の時には、南フランスは完全に征服され、カペー朝当初の目的であった、「フランスの統一、王権の拡大」は大きく前進しています。しかしあまりに苛烈な弾圧が20年以上も続いたため、南フランスの伝統的な固有文化の多くが失われてしまったのは、大きな損失であったといえます。

 

異端審問の確立

南仏征服の最中、1229年に「異端審問」というシステムが確立され、異端審問所でアルビ派と認定されれば、最悪火刑に処されることもありました。このシステムは、その後ヨーロッパ中に拡大していき、数世紀にわたり少数派宗教の弾圧・迫害に利用されるようになるのです。