ルーマニアの歴史年表

ルーマニアの国旗

 

ルーマニアの国土

 

年代 出来事 時代
前2世紀 ダキア王国が現在のルーマニアに成立 古代
106年 ローマ帝国がダキアを征服し属州化 古代
271年 ローマ帝国がダキアから撤退 古代
6〜7世紀 スラヴ人が定住、アヴァールやブルガールの支配を受ける 中世
13世紀 ワラキア、モルダヴィアなどの公国が成立 中世
15世紀 オスマン帝国の宗主権下に入る 中世末期
1859年 ワラキアとモルダヴィアが統一(近代ルーマニアの起源) 近代
1877年 露土戦争でオスマン帝国からの独立宣言 近代
1881年 ルーマニア王国として王制確立 近代
1918年 第一次世界大戦後、トランシルヴァニアなどと統一 近代
1940年 第二次大戦中に領土を一部喪失し親独政権樹立 近代
1947年 王政廃止、ルーマニア人民共和国成立(共産政権) 近代
1965年 チャウシェスク政権成立 近代
1989年 反政府暴動でチャウシェスク政権崩壊(革命) 現代
2004年 NATO加盟 現代
2007年 EU加盟 現代

 

ルーマニアの歴史詳細

ルーマニアは、東ヨーロッパのバルカン半島東部に位置する共和制国家です。国土は南西にセルビア、北西にはハンガリー、北がウクライナ、北東をモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面しています。気候区は温暖な気候と大陸性気候の境目にあり、最南東部では地中海の影響で暖かく、海洋性の気候がみられます。 首都はアテネ音楽堂や国立ユダヤ劇場などの舞台芸術の発展地として知られるブカレスト
現在では鉄鋼やアルミニウム、繊維産業といった業種も主要産業となっています。そのほか、17世紀から続くモレニ油田が知られるように、ルーマニアは産油国でもあります。
そんなルーマニアの歴史は1861年、オスマン帝国宗主下の自治国として連合公国が成立したことから始まります。オスマン帝国の支配が長く続きましたが、1877年には露土戦争に乗じて完全な独立を果たすため、独立宣言を行い、1878年にベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立しました。ここではそんなルーマニアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

ルーマニアの歴史年表

 

古代ルーマニア

現在のルーマニアの国土は、古代ヨーロッパにてローマ人から「ダキア」と呼ばれる地域で、前20世紀頃よりトラキア人一派のダキア人が暮らしていました。2世紀初めにローマ帝国に征服されダキア属州となり、ダキア人とローマ人の混血が進んだ結果、今のルーマニア人の祖先が誕生したと考えられています。ローマ帝国の文化、言語、法律がダキア地域に導入され、その影響は今日のルーマニアの言語と文化に深く根ざしています。ローマ化はダキア地域の社会構造や経済に大きな変化をもたらし、現代ルーマニアの基盤を形成した重要な時期となった。

 

前6世紀

紀元前6世紀のルーマニア地域は、現在のような国家としては存在しておらず、さまざまな部族や民族が住んでいた時代です。この地域にはトラキア人ゲタイ人といった古代の民族が暮らしており、彼らは農業や牧畜を営みながら、独自の文化を発展させていました。

 

また、彼らはギリシャ人との交易にも携わっており、黒海沿岸にギリシャの植民都市がいくつか設立されています。とりわけヒストリアトミスといった都市は、経済的な中心地となり、ルーマニア地域の人々に外部の文化や技術をもたらしました。

 

さらに、トラキア系の人々は、独自の宗教や儀式を持ち、自然崇拝や祖先崇拝が盛んでした。これにともない、戦士階級も存在し、戦闘や防衛のために高度な技術を持っていたことがわかっています。

 

このように、紀元前6世紀のルーマニア地域は、トラキア人をはじめとする古代民族が独自の文化を育みつつ、ギリシャ文明との接触を通じて発展した時代だったのです。

 

前514年 ペルシア戦争の勃発

アケメネス朝ペルシアのギリシア侵略に端を発し、ペルシア戦争が起こる。トラキア人もギリシア連合に加わりペルシア勢力と戦った。

 

前1世紀

紀元前1世紀のルーマニア地域は、大きな変化の時代にありました。この時期、特に重要なのがダキア人と呼ばれる民族の存在です。ダキア人は現在のルーマニアを中心に強力な王国を築き、強大な戦士集団として知られていました。

 

とりわけ、ダキア王ブレビスタ(Burebista)のもとで、ダキア王国は紀元前1世紀の中頃に最大の版図を誇るまで成長します。彼はトラキアやスキタイなど周辺の部族を征服し、地域の統一を進めました。

 

また、ローマ帝国がバルカン半島に進出する中、ダキア人はローマとの対立も深めていきます。ブレブスタはローマのカエサルとも衝突する寸前までいきましたが、カエサルの暗殺とブレビスタの死により、大規模な対立は回避されました。しかし、この後もローマの圧力は続き、ダキアとローマの関係は緊張したものとなりました。

 

このように、紀元前1世紀のルーマニア地域は、ダキア人の台頭とローマ帝国との緊張が進行し、戦争と拡張の時代であったのです。

 

前82年ブレビスタの即位

ブレビスタが武力をもってダキアを統一し、ダキアの王に即位した。要塞サルミゼゲトゥサを建設し、そこを都とした。

 

前44年ブレビスタ暗殺

前44年、強力な統一者としてダキアを統治していた王ブレビスタが暗殺される。彼の死によって、以前に彼によって一つにまとめられていたダキア王国は、その後迅速に分裂してしまった。ブレビスタの暗殺は、地域の政治構造に深刻な影響を与え、後継者たちによる権力闘争が始まり、長期にわたる不安定な時期へと導いた。この分裂はダキアの内部弱体化を招き、後のローマ帝国による征服を容易にする一因となった。

 

1世紀

1世紀のルーマニア地域は、依然としてダキア人が支配していましたが、ローマ帝国との対立がますます激化していく時期でした。ダキアはこの頃、豊富な金や銀の鉱山を持っており、その富がローマの関心を引いていたのです。ダキアの王デケバルス(Decebalus)は、巧みな外交と戦術でローマに抵抗し、独立を守り続けました。

 

とりわけ、1世紀の終わりに近づくと、ローマ皇帝ドミティアヌスの時代に、ローマとダキアの間で本格的な戦争が勃発しました。ダキア人は一度はローマ軍を撃退するものの、最終的にはローマの影響力が強まっていきます。戦闘は一時的な講和に終わり、ダキアはローマに貢納する条件で和平を結びましたが、これは一時的なものでした。

 

これにともない、ダキアとローマの緊張は次の世紀に引き継がれ、さらなる戦争へと発展していくことになります。

 

このように、1世紀のルーマニア地域は、ダキア人がローマ帝国の圧力に抵抗しつつ、富を守り抜くための戦いが続いた時代だったのです。

 

2世紀

2世紀のルーマニア地域は、ダキア人とローマ帝国の決定的な戦いが展開された時期です。この世紀の初め、ダキアの王デケバルスは再びローマと対立し、ローマ皇帝トラヤヌスとの間でダキア戦争が勃発しました。トラヤヌスはダキアの豊かな資源、特に金や銀を狙い、大規模な軍事遠征を開始します。

 

第一次ダキア戦争(101〜102年)は、ローマが勝利を収めたものの、デケバルスは再度反抗します。これに対してトラヤヌスは二度目の遠征(105〜106年)を行い、ついにダキア王国を完全に征服しました。デケバルスは自決し、ダキアはローマ帝国の属州となりました。この出来事により、ダキアの豊かな鉱山はローマのものとなり、属州ダキアは帝国の重要な経済拠点となっていきます。

 

これにともない、ローマ化が進み、道路や都市が整備され、ダキアはローマの文化的影響を強く受けるようになりました。イエスの使徒の1人聖アンドレにより、キリスト教がもたらされたことも重要です。

 

このように、2世紀のルーマニア地域は、ローマ帝国がダキアを征服し、ローマの属州として新たな時代を迎えたのです。

 

101年 ダキア戦争(〜102/105〜106年)

ローマ帝国のルーマニア侵攻を受けダキア戦争が勃発。ダキアはこの戦争に敗れ、一部がローマの属州化された

 

ローマ属州になるとローマ人の植民が開始され、ローマ文化の浸透が進みました。ルーマニア人の祖先はローマによる征服以降に形成されたダコ・ローマン人にあると考えられています。

 

3世紀

3世紀のルーマニア地域は、ローマ帝国の支配下にありましたが、同時に大きな混乱の時期でもありました。ダキアがローマの属州となった後、ローマはダキアの豊富な資源を活用し、属州のインフラを整備しました。しかし、3世紀に入ると、ローマ帝国内部の政治的混乱と外部からの侵攻が相次ぐようになります。とりわけゴート族などのゲルマン系部族が、ダキアをはじめとする東方属州を襲撃し始めたのです。

 

これにともない、ローマ帝国はダキアを守ることが難しくなり、271年にはローマ皇帝アウレリアヌスがダキア属州を放棄する決断を下します。これにより、ローマ軍とローマ市民は南方のドナウ川以南に撤退し、ダキアは再び異民族の手に渡ることになりました。

 

かつ、ダキア地域ではローマ化された文化やインフラが一部残りつつも、ゲルマン系やその他の遊牧民による支配が進み、激動の時代を迎えることとなります。

 

このように、3世紀のルーマニア地域は、ローマ帝国の撤退とゲルマン部族の侵入が進行し、支配者が入れ替わる大変動の時代だったのです。

 

271年 ローマ軍の撤退

ゲルマン系西ゴート族が流入してくるようになり、ローマ帝国はダキアを放棄。以後西ゴート族の支配下に入る。

 

4世紀

4世紀のルーマニア地域は、ローマ帝国の支配が完全に終わった後、外部の部族による支配と文化的変化が進んだ時代です。3世紀にローマ帝国がダキアから撤退した後、この地域にはゴート族をはじめとするゲルマン系部族が定住するようになりました。ゴート族は、東ゴート族と西ゴート族に分かれ、ルーマニア地域を含む広範なエリアに影響を及ぼしていきました。

 

特に、4世紀後半にはフン族がヨーロッパに進出し、ゴート族を圧迫します。これにともない、西ゴート族はローマ帝国内部へと逃れ、東ゴート族はフン族に従属することになりました。フン族の到来は、ルーマニア地域の支配構造を再び大きく変える出来事となり、この地は遊牧民の支配下に置かれることとなります。

 

また、キリスト教が本格的に広まり始め、ゴート族の間でもキリスト教化が進行。ローマ文化の影響が残る一方で、キリスト教という新たな要素が地域の信仰に浸透していったのです。

 

このように、4世紀のルーマニア地域は、ゴート族とフン族の支配が交代する中で、大きな政治的変動とキリスト教の浸透が進んだ時代だったのです。

 

378年 ゲルマン民族の大移動

中央アジア出身のフン族の圧力でゲルマン民族の西ゴート族が西へ移動(ゲルマン民族の大移動)。ルーマニアにはスラブ人やブルガール人が居住するようになった。

 

中世ルーマニア

中世ルーマニアにはワラキア(ルーマニア南部の地方)、トランシルバニア(ルーマニア中部・北西部の地方)、モルダヴィア(ルーマニア東北部の地方)という3つの地域で勢力が台頭するようになりました。これらの地域ではそれぞれ独立した公国が成立し、地域ごとの特色ある文化や政治構造が形成されました。特にモルダヴィアとワラキアは強力な地域勢力として知られ、しばしばオスマン帝国や隣接するハンガリー王国との間で緊張関係が生じました。トランシルバニアは地理的な位置から多民族が集まり、異なる文化的背景を持つ人々の交流の場にもなったのです。

 

5世紀

5世紀のルーマニア地域は、大きな変動の時代でした。この頃、フン族の支配が衰え、代わって東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の影響が強まっていきます。とりわけ、東ローマ帝国は北方からの脅威を防ぐため、ワラキア(ルーマニア南部)や周辺地域に目を向け、そこへの影響力を強めていました。

 

また、この時期にスラブ人がワラキアへの移住を開始しました。これにともない、ラテン系の文化が根付いていたルーマニアにスラブ的な要素が徐々に加わっていきます。スラブ人は、東ローマ帝国との間でたびたび衝突を繰り返し、地域の政治的な安定を脅かす存在でもありました。彼らの移住は、後のルーマニア文化に大きな影響を与え、スラブ系の影響が強まるきっかけとなったのです。

 

このように、5世紀のルーマニア地域は、東ローマ帝国の影響が強まり、スラブ人の移住が進む中で、文化的な変化と衝突が繰り返される時代だったのです。

 

7世紀

7世紀に入ると、ルーマニア地域はさらなる変化を迎えます。とりわけ、7世紀末にはブルガリア帝国が成立し、これがルーマニア南部のワラキアに大きな影響を与えることになります。ブルガリア帝国は、バルカン半島全体に勢力を広げ、ワラキアもその支配下に置かれるようになりました。

 

これにともない、ワラキア地域ではブルガリア文化や政治の影響が浸透し、東ローマ帝国とブルガリア帝国の間での勢力争いも続いていきます。また、この時期にスラブ人の移住がさらに進んだことで、ルーマニアのラテン系文化にスラブ的要素が加わり、独特の文化的融合が生まれました。

 

ブルガリア帝国は、東ローマ帝国と対立しつつも、ルーマニア地域での支配を強化し、地域の政治的な支配構造に大きな影響を与えたのです。

 

このように、7世紀のルーマニア地域は、ブルガリア帝国の成立によってワラキアがその支配を受け、スラブ人の影響が強まる中で、新たな勢力図が形成された時代だったといえます。

 

10世紀

10世紀のルーマニア地域は、大きな変動と新しい勢力の登場が特徴です。特に重要なのは、第一次ブルガリア帝国の強い影響下にあったことです。ブルガリア帝国は9世紀から10世紀にかけて全盛期を迎え、ルーマニア南部のワラキアもその支配下にありました。ブルガリアの勢力が強まる中で、ルーマニア地域にはブルガリア文化や宗教が浸透していき、特に正教会の影響が深まりました。

 

また、10世紀後半には、東ローマ帝国が再び力を強め、バシレイオス2世の下でブルガリア帝国と衝突します。この戦いは「ブルガリア人殺し」と呼ばれるほど苛烈で、最終的にブルガリア帝国は敗北し、その支配は衰退します。これにともない、ルーマニア南部のワラキアもブルガリアの影響が弱まり、東ローマ帝国の勢力が再び強まっていきました。

 

一方で、北部のカルパチア山脈付近では、ハンガリーやその他の部族の影響が強まっていくなど、地域全体が外部の勢力に揺れ動く時代でもありました。

 

11世紀

11世紀に入りトランシルバニアがハンガリー王国に併合される。この併合により、トランシルバニアはハンガリー王国の一部としてその政治的および文化的影響下に置かれ、地域の歴史と発展に重要な役割を果たすことになった。

 

13世紀

13世紀に入ると、ルーマニア北東部に位置するモルダヴィアは、大きな変化を迎えます。この時期、タタール人(モンゴル帝国の支配下にあった勢力)による侵攻が進み、モルダヴィアは彼らの支配下に入ることとなりました。タタール人の支配は、モルダヴィアの社会構造や政治に深刻な影響を与え、特に地域の統治に混乱をもたらしました。

 

タタールの支配下で、モルダヴィアの領主や住民は重い貢納を課せられ、経済的な発展も停滞しました。これにともない、地域の安定性は大きく揺らぎ、政治的にも弱体化していきました。さらに、モルダヴィアの周辺地域でもタタールの影響が強まり、地域全体で異民族の支配に苦しむ時代となります。

 

一方で、13世紀のルーマニア南部では、第二次ブルガリア帝国が台頭し、ワラキアを含む広い範囲に影響を及ぼしました。これにより、ルーマニアの北と南で異なる勢力が支配を競い合う状況が続きました。

 

このように、13世紀のルーマニア地域は、タタール人によるモルダヴィアの征服とその社会的影響、また南部ではブルガリア帝国の影響が強まる中、安定と発展に長期的な課題を抱えた時代だったのです。

 

14世紀

14世紀のルーマニア地域は、大きな政治的転換と新たな公国の成立が見られる時代でした。特に重要なのが、ワラキア公国モルダヴィア公国の成立です。これにより、ルーマニアの独自の政治勢力が形づくられ、外部の勢力に対抗する基盤ができました。

 

ワラキア公国はバサラブ1世の統治下で1330年に独立を果たし、ハンガリー王国と激しく対立。この戦いは、ワラキアが自らの領土を防衛し、地域の主権を守る重要な一歩となりました。

 

一方で、モルダヴィア公国は14世紀半ばに成立し、モンゴルのタタール人の支配から独立する動きが進行。同時にハンガリー、さらにはポーランド王国との複雑な外交関係の中で領土を維持していく必要がありました。

 

このように、14世紀のルーマニア地域は、ワラキアとモルダヴィアの公国が成立し、外部の勢力に対抗する中で、独自の政治的枠組みが確立された時代だったのです。

 

1310年 トランシルバニアがハンガリー王国の支配下に

1310年、トランシルバニアは公式にハンガリー王国の支配下に入り、後に多民族地域としての特徴をより顕著に示すようになる。この時期、トランシルバニアの社会と経済は、ハンガリー王国の中心部と密接に結びつき、共同体の多様性が増加した。

 

1330年 ワラキア公国の成立

ハンガリーの支配から脱したルーマニア南部地方にワラキア公国が成立。14世紀末期にはバルカン半島に進出してきたオスマン帝国に服属した。

 

1359年 モルダヴィア公国の成立

モルダヴィア公のボグダン1世がハンガリーとの抗争に打ち勝ったことで、ルーマニア北東部を領土とするモルダヴィア公国が成立した。

 

近世ルーマニア

近世におけるルーマニアは、ワラキア、トランシルバニア、モルダヴィアの三公国が大きな変動と外部勢力の圧力にさらされる時期でした。17世紀と18世紀にかけて、これらの地域はオスマン帝国の影響下にありながらも、ハプスブルク帝国ロシア帝国の野望に挟まれて政治的なバランスを取る必要がありました。特に、トランシルバニアは1683年のウィーン包囲後にハプスブルクの支配下に入り、ワラキアとモルダヴィアもしばしば外国の保護と介入を受けました。

 

この時代、ルーマニアの公国たちは宗教的、文化的なアイデンティティを保ちながらも、領土の自主性と独立を維持するために外交的な巧妙さを求められたのです。

 

15世紀

15世紀のルーマニア地域は、ワラキア公国とモルダヴィア公国がそれぞれの独立を守りながら、外部勢力と激しく対立する時代でした。特にオスマン帝国の影響が強まり、バルカン半島全体で拡張を進めていく中で、ルーマニアの二つの公国もその圧力を受けることとなりました。

 

ワラキアでは、ヴラド3世(「串刺し公」ドラキュラとして知られる)が1448年から統治し、オスマン帝国に対抗する象徴的な指導者となりました。彼はオスマン帝国とハンガリー王国の狭間で巧みにバランスを取りつつ、領土の防衛を図り、オスマン帝国との戦いにおいて恐怖政治を用いました。彼の支配は短期間であったものの、その強烈な印象は後世に残り、特にオスマン帝国との戦いが激しさを増した時期です。

 

一方、モルダヴィア公国は、名君シュテファン大公(シュテファン3世)の統治下で最盛期を迎えました。彼は1457年から1504年にかけて公国を統治し、オスマン帝国やハンガリー王国、ポーランド王国に対しても成功裏に防衛戦を繰り広げました。特にオスマン帝国との戦いでは勝利を収め、その結果、モルダヴィアは一定の独立を維持することができたのです。

 

このように、15世紀のルーマニア地域は、ワラキアとモルダヴィアの両公国がオスマン帝国に対抗しつつ、それぞれの独立と領土を守るために戦い続けた時代だったのです。

 

1415年 ワラキア公国がオスマン帝国に征服

1415年、ワラキア公国がオスマン帝国に征服され、その後長期にわたりオスマンの影響下に置かれた。この征服は、ワラキアに新たな政治的および宗教的構造を導入し、地域の歴史に深い影響を及ぼした。オスマン帝国の支配下でワラキアは一定の自治を保持しつつも、多くの場面で帝国の政策に従わざるを得なくなり、その文化的および社会経済的発展に複雑な影響を与えた。

 

16世紀

16世紀のルーマニア地域は、オスマン帝国の影響がますます強まった時代です。特にモルダヴィア公国は、16世紀初頭にオスマン帝国の強大な圧力に屈し、一定の自治を条件にその保護下に入ることとなりました。この合意により、モルダヴィアは公(ヴォイヴォダ)を自ら選出する権利や内政の自由をある程度維持できましたが、同時に貢納を支払い、オスマン帝国に従属する立場に置かれました。

 

一方で、ワラキア公国も同様にオスマン帝国の圧力を受け、同じように貢納を支払いながら、名目的な自治を保っていました。これにともない、ルーマニアの両公国は形式的には独立を維持していたものの、実質的にはオスマン帝国の支配下に組み込まれていきます。オスマン帝国の影響力が強まる中で、政治的な独立性は次第に失われ、経済的にも重い負担を強いられました。

 

しかし、文化や宗教面では、モルダヴィアとワラキアは正教会を維持し、独自のアイデンティティを守る努力が続けられていたのも特徴的です。

 

このように、16世紀のルーマニア地域は、モルダヴィアとワラキアがオスマン帝国の保護下に入る中で、一定の自治を維持しつつも、その支配に大きく影響を受けた時代だったのです。

 

1571年 トランシルヴァニア公国の成立

ルーマニアの中部・北西部の地方トランシルヴァニアが、トランシルヴァニア公国として独立する。

 

17世紀

17世紀のルーマニア地域は、引き続きオスマン帝国の支配下にありながらも、政治的な混乱と外部勢力との対立が絶えない時代でした。特にワラキア公国モルダヴィア公国は、形式的には自治を認められていたものの、オスマン帝国への貢納や影響力の強化が続き、政治的な自由は次第に制約されていきます。

 

この時期、両公国はオスマン帝国の従属国として存在していましたが、帝国内での権力争いや外交問題が地域の不安定さをさらに助長しました。加えて、ハプスブルク家ポーランド・リトアニア共和国といった周辺の大国も、ルーマニア地域への影響力を強めようと介入を繰り返し、複雑な国際関係が展開されました。

 

また、17世紀後半になると、ワラキアとモルダヴィアはオスマン帝国の圧力が一層強まり、内政にも帝国の干渉が強化されることとなります。特に、オスマン帝国は傀儡的な公を据えることで、公国の支配を強めました。

 

このように、17世紀のルーマニア地域は、オスマン帝国の影響力が強まる中で、外部勢力との対立や内部の混乱が続き、政治的な独立性がさらに失われていく時代だったのです。

 

1699年 カルロヴィッツ条約の締結

オスマン帝国が敗れた大トルコ戦争の講和条約カルロヴィッツ条約が結ばれる。ルーマニアではオスマン帝国の影響が弱まった代わりに、オーストリア帝国とロシア帝国の影響を強く受けるようになる

 

18世紀

18世紀のルーマニア地域は、大きな政治的変動の時代でした。特に1699年のカルロヴィッツ条約の締結により、オスマン帝国が大トルコ戦争に敗れ、バルカン半島やルーマニア地域におけるその影響力が弱まりました。これにともない、代わりにオーストリア帝国ロシア帝国の影響が強まっていきます。

 

オーストリア帝国は、特にトランシルヴァニアに対して強い影響を持つようになり、同地域を直接支配下に置きました。一方、ロシア帝国は「モルダヴィアにおける正教徒の保護」を名目に、この地域への介入を開始しました。ロシアはモルダヴィアの領有権を主張し、オスマン帝国に対して優位に立とうとしました。

 

さらに、ロシアはモルダヴィアに侵攻し、プルト条約が結ばれる1711年までこの地を支配下に置きました。その後、モルダヴィアはオスマン帝国の支配に戻りますが、ロシアの影響力は引き続き強く残ることになるのです。

 

このように、18世紀のルーマニアはカルロヴィッツ条約により、オスマン帝国の影響が弱まった代わりに、オーストリア帝国やロシア帝国による支配と干渉が強まっていく時代だったといえますね。

 

近代ルーマニア

近代に入ると、19世紀にワラキアとモルダヴィアが合併したことで、ルーマニア公国が生まれ、現ルーマニアの基礎ができました。その後、露土戦争で宗主国オスマン帝国が敗れたのを機に独立を宣言。19世紀末にカロル1世が国王に即位したことで、ルーマニア王国が成立しました。

 

20世紀前半には第一次世界大戦に連合国勢力として参戦し、ルーマニア王国はその戦勝国となります。その結果、ブコヴィナ、トランシルバニア、ドブロジャ、ベッサラビアなど多くの領土を獲得し、「大ルーマニア」を築き上げ、一躍ヨーロッパの有力国として躍り出ることになりました。しかし20年後の第二次世界大戦では枢軸国側についたため、せっかく獲得した領土をソ連に奪われることになります。

 

19世紀

19世紀に入ると、ルーマニア地域は大きな政治的変動の中にありました。この時期、ロシアは不凍港獲得を目指して南下を進め、宗主国であるオスマン帝国とたびたび衝突を繰り返すようになります。これにともない、ルーマニア(特にワラキアとモルダヴィア)ではオスマン帝国の統治が揺らぎ始め、代わりにロシア帝国が介入する機会が増えていきました。

 

この流れの中で、ロシアはクリミア戦争や他の対オスマン戦争を通じて、ルーマニア地域への影響力を強めていきます。特に、ロシアはモルダヴィアやワラキアを保護国として扱い、オスマン帝国の統治を弱体化させる形で支配を強化しました。オスマン帝国も引き続き支配を維持しようとしましたが、その力は徐々に衰退し、代わってロシアの影響が地域の政治に深く根付いていきました。

 

さらに、19世紀半ばには、ルーマニアにおいて民族意識が高まり、独立運動の機運も強まります。このように外部勢力の介入が続く中で、ルーマニアの人々は自らの国家としての独立を模索し始めたのです。

 

このように、19世紀のルーマニアは、ロシアとオスマン帝国の衝突の影響を受け、ロシアの介入が増し、オスマン帝国の支配が揺らぐ中で、独立に向けた動きが加速していった時代だったのです。

 

1821年 ワラキア蜂起の勃発

オスマン帝国支配下のワラキア公国で、その統治に対する不満が爆発し、反乱が発生する。一時は首都ブカレストを制圧するほど勢いを得たが、最終的にはロシアの後ろ盾を得られなかったため、オスマン帝国に鎮圧された。

 

1848年 トランシルヴァニアがオーストリア領に

1848年、トランシルヴァニアはヨーロッパの革命波及の中でオーストリア帝国の直接支配に移された。この政治的変動は、トランシルヴァニアの社会構造と民族関係に大きな影響を与え、地域内の多民族間の緊張を高めた。オーストリアの支配は行政的な中央集権化を進め、トランシルヴァニアの自治と伝統的な社会秩序に変化をもたらし、後の民族主義の高まりにつながる土壌を形成した。

 

1859年 ルーマニア公国の成立

クリミア戦争にロシア帝国が敗れた結果、ワラキア公国とモルダヴィア公国はロシアからの支配を脱した。その後隣り合う二公国の統一が決定し、ルーマニア公国が成立した。この公国が現ルーマニアの基礎となった。

 

1881年 ルーマニア王国の成立

78年にオスマン帝国の宗主権から脱して、ドイツ・ホーエンツォレルン家より迎えられたカロル1世がルーマニア国王として即位し、ルーマニア王国が成立した。

 

1868年 トランシルヴァニアがハンガリー領に

1868年、オーストリア=ハンガリー帝国の内部再編の一環として、トランシルヴァニアはハンガリー王国に併合された。この政策はトランシルヴァニアにおけるハンガリー語の公用化とハンガリー文化の強化を推進し、地域のローマニア人やその他少数民族の不満を増大させた。この変化は地域内の民族間緊張を引き起こし、後に大規模な民族対立の原因となる根深い問題を生じさせた。

 

20世紀前半

20世紀前半のルーマニアは、激動の時代を迎えます。まず、第一次世界大戦(1914年〜1918年)の際、ルーマニアは1916年に連合国側に加わり、オーストリア=ハンガリー帝国と戦いました。戦争の結果、連合国が勝利し、トリアノン条約(1920年)によってルーマニアはトランシルヴァニアを含む広大な領土を獲得します。これにより、「大ルーマニア」と呼ばれる最大版図が形成され、国家の統一が実現しました。

 

しかし、1930年代には、経済的な困難や社会的な混乱が深まり、政治の不安定さが目立つようになります。ファシズムや共産主義の台頭により、ルーマニアは右派と左派の激しい対立に直面します。また、第二次世界大戦前夜には、ナチス・ドイツの影響力が強まり、ルーマニアも枢軸国側に引き込まれていきました。

 

第二次世界大戦(1939年〜1945年)では、ルーマニアは当初、ドイツ側につくものの、1944年にソ連軍が侵攻すると、反転して連合国側に転向します。これにともない、戦後のルーマニアはソ連の影響下に入り、共産主義政権が成立することとなります。

 

このように、20世紀前半のルーマニアは、二度の世界大戦を経て領土拡大と政治的不安定を経験し、最終的にはソ連の影響下に入る激動の時代だったのです。

 

1914年 第一次世界大戦の勃発

セルビアにおけるサラエボ事件を発端として第一次世界大戦が勃発。ルーマニア王国は16年に連合国側として参戦した。

 

1918年 第一次世界大戦の終結/大ルーマニアの成立

連合国の勝利で第一次世界大戦が終結した。戦勝国となったルーマニアは、トランシルバニア、ブコビナ、ベッサラビアを併合し、史上最大の領土となる「大ルーマニア」を構築する。

 

1939年 第二次世界大戦の勃発

ナチスドイツポーランド侵攻により第二次世界大戦が開始される。ルーマニアは中立を表明するも、翌40年にはソ連やドイツに多くの領土を奪われる。またこのことがルーマニア王室への不満を高めた。

 

1940年 鉄衛団による支配

  • 王党派と対立していた鉄衛団(反ユダヤ民族主義政党)が政権をとり、枢軸国を支援するようになる。
  • 三国同盟で北トランシルヴァニアがハンガリーに割譲。
  • ベッサラビアとブコヴィナをソ連が占領。

 

1944年 ルーマニア革命の勃発

ミハイ1世のクーデターにより、ユダヤ人迫害を行ったイオン・アントネスク政権が打倒され(ルーマニア革命)、新政府は枢軸国からの離脱を決定。連合国に鞍替えし、ドイツに宣戦布告を行った。

 

1945年 北トランシルヴァニアのルーマニア返還

ポツダム会談で北トランシルヴァニアがルーマニアに返還される。この地域の返還は、戦前の領土紛争を解決し、ルーマニアの国境を再確認する重要な出来事となった。北トランシルヴァニアの返還は、ルーマニア内部の民族的調和と国家統合に向けた一歩として、多くのルーマニア人に歓迎され、戦後の復興と国民統一の象徴となった。

 

現代ルーマニア

枢軸国勢力として第二次世界大戦に参戦したルーマニアですが、革命でファシズム政権が倒れ連合国側に鞍替えしたので結果的には戦勝国となりました。しかしドイツが去った代わりにソ連の支配が強化され、戦後は社会主義国家ルーマニア人民共和国として独裁体制が続くことになります。(一方でルーマニアは他の東欧諸国と違い、西側諸国との外交関係を重視するなど「東欧の異端児」と呼ばれていました)そんな不自由な体制も、冷戦末期に起きた大規模な反政府運動で打倒されます。同時に民主的な新憲法を採択し、共和制国家ルーマニアが成立させ現在にいたるというわけです。

 

20世紀後半

20世紀後半のルーマニアは、第二次世界大戦後の冷戦の影響を大きく受け、政治的にも社会的にも激動の時代を迎えます。1947年に王政が廃止され、ルーマニア人民共和国が成立し、ルーマニアは共産主義政権の下、ソ連の強い影響を受けることとなりました。しかし、ルーマニアはソ連との関係を維持しつつも、他の東欧諸国と比べて独自の道を歩み始めます。

 

特に、1965年にニコラエ・チャウシェスクが権力を握ると、ルーマニアはソ連から距離を取り、独自の外交路線を追求します。彼のもとで、ルーマニアは西側諸国とも関係を築きながら、一方で国内では強権的な独裁体制が確立されました。しかし80年代に経済不振に陥ると、生活水準の低下や抑圧的な統治に対する不満が高まりました。

 

最終的に、1989年のルーマニア革命でチャウシェスク政権は崩壊し、当のチャウシェスクは処刑されてしまうのです。これにより、共産主義体制は終焉を迎え、ルーマニアは民主化と市場経済への移行を目指す新たな時代に突入しました。

 

このように、20世紀後半のルーマニアは、共産主義体制の下で独自の外交を展開しながらも、経済危機と独裁政権に苦しみ、最終的には革命を通じて民主化への道を歩み始めた時代だったのです。

 

1947年 ルーマニア人民共和国の成立

戦後ソ連の圧力下で社会主義体制が確立。王政が廃止されるとともにルーマニア人民共和国が成立した。(74年に国号をルーマニア社会主義共和国に変更)

 

1974年 チャウシェスクの大統領就任

チャウシェスクが大統領に就任。政権を自分の親族グループで固め、権力を私物化した。チャウシェスクの独裁政権は国民統制を強化し、経済的自立と国家主義的な政策を推進することで、国内外からの批判を受けたが、一方で、国家のインフラ整備や工業化を進めた。

 

1989年 ルーマニア革命の勃発

東ヨーロッパで東欧革命が巻き起こる中、ルーマニアでも民主化を求める抗議運動が活発化。チャウシェスクが武力による鎮圧に動き、多数の死傷者が出るも、最終的にはチャウシェスク政権を倒し、民主化を成し遂げた。

 

1991年 新憲法発布

1991年、チャウシェスク政権の崩壊後、ルーマニアは新憲法を発布し、民主的な政治体制への移行を図った。この新憲法は政治の自由化、人権の保護、権力の分立を定め、ルーマニアの法的および政治的枠組みを大幅に改革した。憲法の発布は、国民の民主的参加を促進し、国際社会におけるルーマニアの地位を再構築するための基盤を提供した。

 

21世紀

21世紀に入ったルーマニアは、大きな変化と発展を遂げる時代を迎えました。まず、2004年には北大西洋条約機構(NATO)に加盟し、続いて2007年には欧州連合(EU)にも加盟。これにより、ルーマニアは西側諸国との関係を強化し、国際社会における位置づけが大きく変わりました。

 

EU加盟にともない、経済的な発展が進み、インフラ整備や外国からの投資が増加しましたが、同時に「課題」も浮上します。特に、汚職、政治的腐敗が問題視されるようになり、国内では透明性の向上や民主的改革が求められました。これに対する抗議運動や改革の動きが活発化し、政府の安定性が揺らぐ局面も。

 

EUからの資金援助を受けながら、経済的成長を続けつつも、農村部や都市部の格差など社会的な問題が多々残されているのですね。さらに、地政学的な位置からロシアとの関係も重要な課題であり、「ウクライナ情勢をめぐる不安定さ」がルーマニアの安全保障政策に影響を与えていることも知っておきましょう。

 

このように、21世紀のルーマニアはNATOとEU加盟を通じて西側諸国との結びつきを強める一方、国内の汚職問題や地域的な安全保障の課題に直面しながら発展を続ける時代なのです。

 

2004年 NATOに加盟

2004年、ルーマニアは北大西洋条約機構(NATO)に正式に加盟し、国の防衛能力と国際的な安全保障の体制を強化した。この加盟は西欧諸国との軍事的および政治的な結びつきを深め、地域の安定と集団防衛体制に寄与する重要なステップとなった。

 

2007年 欧州連合(EU)に加盟

2007年、ルーマニアは欧州連合(EU)に加盟し、経済的および政治的に欧州の一員としての地位を確立した。EU加盟は、ルーマニアにとって大きな市場へのアクセス、資金の流入、そして法的および制度的な改革の推進を意味し、長期的な発展と国民の生活水準の向上に寄与した。

 

ルーマニアの歴史は、古代から現代にかけて多様な文化と政治的変動に満ちています。古代には、現在のルーマニアの地にはトラキア系のダキア人が住んでおり、1世紀にローマ帝国の支配下に入りました。ローマのダキア属州として都市やインフラが発展しましたが、3世紀にはゴート族の侵入によりローマの支配が終焉を迎えました。

 

中世には、トランシルヴァニア、ワラキア、モルダヴィアの3つの公国が形成されました。14世紀から15世紀にかけて、これらの公国はオスマン帝国の支配を受けましたが、強い自治を維持し続けました。特に、ヴラド・ツェペシュ(ドラキュラ公)やステファン大公などがオスマン帝国に対抗しました。

 

19世紀には、ナショナリズムの高まりとともに、1859年にワラキアとモルダヴィアが統合してルーマニア公国が成立し、1877年には独立を達成しました。第一次世界大戦後、トランシルヴァニア、ベッサラビア、ブコヴィナがルーマニアに統合され、大ルーマニアが成立しました。

 

第二次世界大戦では、ソ連とナチス・ドイツの圧力を受け、戦後は共産主義政権が成立しました。1989年のルーマニア革命によりニコラエ・チャウシェスク政権が崩壊し、民主化と市場経済への移行が進みました。2004年にはNATO、2007年には欧州連合に加盟し、現在も欧州との統合を進めています。ルーマニアの歴史は、多様な外部勢力の影響を受けながらも、独自の文化とアイデンティティを築き続けてきた歩みです。