ルーマニアの歴史年表

ルーマニアの国旗

 

ルーマニアの国土

 

ルーマニアは、東ヨーロッパのバルカン半島東部に位置する共和制国家です。国土は南西にセルビア、北西にはハンガリー、北がウクライナ、北東をモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面しています。気候区は温暖な気候と大陸性気候の境目にあり、最南東部では地中海の影響で暖かく、海洋性の気候がみられます。 首都はアテネ音楽堂や国立ユダヤ劇場などの舞台芸術の発展地として知られるブカレスト
現在では鉄鋼やアルミニウム、繊維産業といった業種も主要産業となっています。そのほか、17世紀から続くモレニ油田が知られるように、ルーマニアは産油国でもあります。
そんなルーマニアの歴史は1861年、オスマン帝国宗主下の自治国として連合公国が成立したことから始まります。オスマン帝国の支配が長く続きましたが、1877年には露土戦争に乗じて完全な独立を果たすため、独立宣言を行い、1878年にベルリン会議で国際的に承認され、ルーマニア王国が成立しました。ここではそんなルーマニアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

ルーマニアの歴史年表

 

古代ルーマニア

現在のルーマニアの国土は、古代ヨーロッパにてローマ人から「ダキア」と呼ばれる地域で、前20世紀頃よりトラキア人一派のダキア人が暮らしていました。2世紀初めにローマ帝国に征服されダキア属州となり、ダキア人とローマ人の混血が進んだ結果、今のルーマニア人の祖先が誕生したと考えられています。ローマ帝国の文化、言語、法律がダキア地域に導入され、その影響は今日のルーマニアの言語と文化に深く根ざしています。ローマ化はダキア地域の社会構造や経済に大きな変化をもたらし、現代ルーマニアの基盤を形成した重要な時期となった。

 

前6世紀

前514年 ペルシア戦争の勃発

アケメネス朝ペルシアのギリシア侵略に端を発し、ペルシア戦争が起こる。ダキア人もギリシア連合に加わりペルシア勢力と戦った。

 

前1世紀

前82年ブレビスタの即位

ブレビスタが武力をもってダキアを統一し、ダキアの王に即位した。要塞サルミゼゲトゥサを建設し、そこを都とした。

 

前44年ブレビスタ暗殺

前44年、強力な統一者としてダキアを統治していた王ブレビスタが暗殺される。彼の死によって、以前に彼によって一つにまとめられていたダキア王国は、その後迅速に分裂してしまった。ブレビスタの暗殺は、地域の政治構造に深刻な影響を与え、後継者たちによる権力闘争が始まり、長期にわたる不安定な時期へと導いた。この分裂はダキアの内部弱体化を招き、後のローマ帝国による征服を容易にする一因となった。

 

1世紀

101年 ダキア戦争(〜102/105〜106年)

ローマ帝国のルーマニア侵攻を受けダキア戦争が勃発。ダキアはこの戦争に敗れ、一部がローマの属州化された

 

ローマ属州になるとローマ人の植民が開始され、ローマ文化の浸透が進みました。ルーマニア人の祖先はローマによる征服以降に形成されたダコ・ローマン人にあると考えられています。

 

2世紀

2世紀に入りキリスト教の普及が始まる。ルーマニアではイエスの使徒の1人聖アンドレによりもたらされたと伝えられている。

 

3世紀

 

271年 ローマ軍の撤退

ゲルマン系西ゴート族が流入してくるようになり、ローマ帝国はダキアを放棄。以後西ゴート族の支配下に入る。

 

4世紀

 

378年 ゲルマン民族の大移動

中央アジア出身のフン族の圧力でゲルマン民族の西ゴート族が西へ移動(ゲルマン民族の大移動)。ルーマニアにはスラブ人やブルガール人が居住するようになった。

 

中世ルーマニア

中世ルーマニアにはワラキア(ルーマニア南部の地方)、トランシルバニア(ルーマニア中部・北西部の地方)、モルダヴィア(ルーマニア東北部の地方)という3つの地域で勢力が台頭するようになりました。これらの地域ではそれぞれ独立した公国が成立し、地域ごとの特色ある文化や政治構造が形成されました。特にモルダヴィアとワラキアは強力な地域勢力として知られ、しばしばオスマン帝国や隣接するハンガリー王国との間で緊張関係が生じました。トランシルバニアは地理的な位置から多民族が集まり、異なる文化的背景を持つ人々の交流の場にもなったのです。

 

5世紀

5世紀から6世紀にかけては東ローマ帝国の強い影響下に置かれていた。同時期スラブ人がワラキア(ルーマニア南部)への移住をはじめ、ラテン系のルーマニアにスラブ的要素が加わった。またスラブ人は東ローマ帝国とたびたび衝突した。

 

7世紀

7世紀末にブルガリア帝国が成立し、ルーマニア南部のワラキアがその支配を受けるようになる。

 

10世紀

10世紀後半になり、ハンガリーの主要民族マジャル人が、ルーマニアのトランシルヴァニアやワラキアを支配するようになる。

 

11世紀

11世紀に入りトランシルバニアがハンガリー王国に併合される。この併合により、トランシルバニアはハンガリー王国の一部としてその政治的および文化的影響下に置かれ、地域の歴史と発展に重要な役割を果たすことになった。

 

13世紀

13世紀に入りモルダヴィアがタタール人に征服される。13世紀に入りモルダヴィアがタタール人に征服される。タタールの支配はモルダヴィアの社会構造と政治に深刻な影響を与え、地域の安定性と発展に長期にわたる挑戦をもたらした。

 

14世紀

1310年 トランシルバニアがハンガリー王国の支配下に

1310年、トランシルバニアは公式にハンガリー王国の支配下に入り、後に多民族地域としての特徴をより顕著に示すようになる。この時期、トランシルバニアの社会と経済は、ハンガリー王国の中心部と密接に結びつき、共同体の多様性が増加した。

 

1330年 ワラキア公国の成立

ハンガリーの支配から脱したルーマニア南部地方にワラキア公国が成立。14世紀末期にはバルカン半島に進出してきたオスマン帝国に服属した。

 

1359年 モルダヴィア公国の成立

モルダヴィア公のボグダン1世がハンガリーとの抗争に打ち勝ったことで、ルーマニア北東部を領土とするモルダヴィア公国が成立した。

 

近世ルーマニア

近世におけるルーマニアは、ワラキア、トランシルバニア、モルダヴィアの三公国が大きな変動と外部勢力の圧力にさらされる時期でした。17世紀と18世紀にかけて、これらの地域はオスマン帝国の影響下にありながらも、ハプスブルク帝国やロシア帝国の野望に挟まれて政治的なバランスを取る必要がありました。特に、トランシルバニアは1683年のウィーン包囲後にハプスブルクの支配下に入り、ワラキアとモルダヴィアもしばしば外国の保護と介入を受けました。

 

この時代、ルーマニアの公国たちは宗教的、文化的なアイデンティティを保ちながらも、領土の自主性と独立を維持するために外交的な巧妙さを求められたのです。

 

15世紀

1415年 ワラキア公国がオスマン帝国に征服

1415年、ワラキア公国がオスマン帝国に征服され、その後長期にわたりオスマンの影響下に置かれた。この征服は、ワラキアに新たな政治的および宗教的構造を導入し、地域の歴史に深い影響を及ぼした。オスマン帝国の支配下でワラキアは一定の自治を保持しつつも、多くの場面で帝国の政策に従わざるを得なくなり、その文化的および社会経済的発展に複雑な影響を与えた。

 

16世紀

16世紀初頭にモルダヴィア公国が一定の自治(公の選出や内政など)を条件にオスマン帝国の保護下に入る。

 

1571年 トランシルヴァニア公国の成立

ルーマニアの中部・北西部の地方トランシルヴァニアが、トランシルヴァニア公国として独立する。

 

17世紀

1699年 カルロヴィッツ条約の締結

オスマン帝国が敗れた大トルコ戦争の講和条約カルロヴィッツ条約が結ばれる。ルーマニアではオスマン帝国の影響が弱まった代わりに、オーストリア帝国とロシア帝国の影響を強く受けるようになる

 

18世紀

ロシア帝国はモルダヴィアにおける正教徒の保護を名目に、モルダヴィアの領有権を主張。モルダヴィアに侵攻し、プルト条約でオスマン帝国の支配に戻るまで支配下においた。

 

近代ルーマニア

近代に入ると、19世紀にワラキアとモルダヴィアが合併したことで、ルーマニア公国が生まれ、現ルーマニアの基礎ができました。その後、露土戦争で宗主国オスマン帝国が敗れたのを機に独立を宣言。19世紀末にカロル1世が国王に即位したことで、ルーマニア王国が成立しました。
20世紀前半には第一次世界大戦に連合国勢力として参戦し、ルーマニア王国はその戦勝国となります。その結果、ブコヴィナ、トランシルバニア、ドブロジャ、ベッサラビアなど多くの領土を獲得し、「大ルーマニア」を築き上げ、一躍ヨーロッパの有力国として躍り出ることになりました。しかし20年後の第二次世界大戦では枢軸国側についたため、せっかく獲得した領土をソ連に奪われることになります。

 

19世紀

19世紀になると、不凍港獲得のため南下を始めたロシアと、宗主国のオスマン帝国が衝突を繰り返すようになる。その影響でルーマニアにおけるオスマン帝国の統治がゆらぎ、代わりにロシアが介入してくるようになった。

 

1821年 ワラキア蜂起の勃発

オスマン帝国支配下のワラキア公国で、その統治に対する不満が爆発し、反乱が発生する。一時は首都ブカレストを制圧するほど勢いを得たが、最終的にはロシアの後ろ盾を得られなかったため、オスマン帝国に鎮圧された。

 

1848年 トランシルヴァニアがオーストリア領に

1848年、トランシルヴァニアはヨーロッパの革命波及の中でオーストリア帝国の直接支配に移された。この政治的変動は、トランシルヴァニアの社会構造と民族関係に大きな影響を与え、地域内の多民族間の緊張を高めた。オーストリアの支配は行政的な中央集権化を進め、トランシルヴァニアの自治と伝統的な社会秩序に変化をもたらし、後の民族主義の高まりにつながる土壌を形成した。

 

1859年 ルーマニア公国の成立

クリミア戦争にロシア帝国が敗れた結果、ワラキア公国とモルダヴィア公国はロシアからの支配を脱した。その後隣り合う二公国の統一が決定し、ルーマニア公国が成立した。この公国が現ルーマニアの基礎となった。

 

1881年 ルーマニア王国の成立

78年にオスマン帝国の宗主権から脱して、ドイツ・ホーエンツォレルン家より迎えられたカロル1世がルーマニア国王として即位し、ルーマニア王国が成立した。

 

1868年 トランシルヴァニアがハンガリー領に

1868年、オーストリア=ハンガリー帝国の内部再編の一環として、トランシルヴァニアはハンガリー王国に併合された。この政策はトランシルヴァニアにおけるハンガリー語の公用化とハンガリー文化の強化を推進し、地域のローマニア人やその他少数民族の不満を増大させた。この変化は地域内の民族間緊張を引き起こし、後に大規模な民族対立の原因となる根深い問題を生じさせた。

 

20世紀前半

1914年 第一次世界大戦の勃発

セルビアにおけるサラエボ事件を発端として第一次世界大戦が勃発。ルーマニア王国は16年に連合国側として参戦した。

 

1918年 第一次世界大戦の終結/大ルーマニアの成立

連合国の勝利で第一次世界大戦が終結した。戦勝国となったルーマニアは、トランシルバニア、ブコビナ、ベッサラビアを併合し、史上最大の領土となる「大ルーマニア」を構築する。

 

1939年 第二次世界大戦の勃発

ナチスドイツポーランド侵攻により第二次世界大戦が開始される。ルーマニアは中立を表明するも、翌40年にはソ連やドイツに多くの領土を奪われる。またこのことがルーマニア王室への不満を高めた。

 

1940年 鉄衛団による支配

  • 王党派と対立していた鉄衛団(反ユダヤ民族主義政党)が政権をとり、枢軸国を支援するようになる。
  • 三国同盟で北トランシルヴァニアがハンガリーに割譲。
  • ベッサラビアとブコヴィナをソ連が占領。

 

1944年 ルーマニア革命の勃発

ミハイ1世のクーデターにより、ユダヤ人迫害を行ったイオン・アントネスク政権が打倒され(ルーマニア革命)、新政府は枢軸国からの離脱を決定。連合国に鞍替えし、ドイツに宣戦布告を行った。

 

1945年 北トランシルヴァニアのルーマニア返還

ポツダム会談で北トランシルヴァニアがルーマニアに返還される。この地域の返還は、戦前の領土紛争を解決し、ルーマニアの国境を再確認する重要な出来事となった。北トランシルヴァニアの返還は、ルーマニア内部の民族的調和と国家統合に向けた一歩として、多くのルーマニア人に歓迎され、戦後の復興と国民統一の象徴となった。

 

現代ルーマニア

枢軸国勢力として第二次世界大戦に参戦したルーマニアですが、革命でファシズム政権が倒れ連合国側に鞍替えしたので結果的には戦勝国となりました。しかしドイツが去った代わりにソ連の支配が強化され、戦後は社会主義国家ルーマニア人民共和国として独裁体制が続くことになります。(一方でルーマニアは他の東欧諸国と違い、西側諸国との外交関係を重視するなど「東欧の異端児」と呼ばれていました)そんな不自由な体制も、冷戦末期に起きた大規模な反政府運動で打倒されます。同時に民主的な新憲法を採択し、共和制国家ルーマニアが成立させ現在にいたるというわけです。

 

20世紀後半

1947年 ルーマニア人民共和国の成立

戦後ソ連の圧力下で社会主義体制が確立。王政が廃止されるとともにルーマニア人民共和国が成立した。(74年に国号をルーマニア社会主義共和国に変更)

 

1974年 チャウシェスクの大統領就任

チャウシェスクが大統領に就任。政権を自分の親族グループで固め、権力を私物化した。チャウシェスクの独裁政権は国民統制を強化し、経済的自立と国家主義的な政策を推進することで、国内外からの批判を受けたが、一方で、国家のインフラ整備や工業化を進めた。

 

1989年 ルーマニア革命の勃発

東ヨーロッパで東欧革命が巻き起こる中、ルーマニアでも民主化を求める抗議運動が活発化。チャウシェスクが武力による鎮圧に動き、多数の死傷者が出るも、最終的にはチャウシェスク政権を倒し、民主化を成し遂げた。

 

1991年 新憲法発布

1991年、チャウシェスク政権の崩壊後、ルーマニアは新憲法を発布し、民主的な政治体制への移行を図った。この新憲法は政治の自由化、人権の保護、権力の分立を定め、ルーマニアの法的および政治的枠組みを大幅に改革した。憲法の発布は、国民の民主的参加を促進し、国際社会におけるルーマニアの地位を再構築するための基盤を提供した。

 

21世紀

2004年 NATOに加盟

2004年、ルーマニアは北大西洋条約機構(NATO)に正式に加盟し、国の防衛能力と国際的な安全保障の体制を強化した。この加盟は西欧諸国との軍事的および政治的な結びつきを深め、地域の安定と集団防衛体制に寄与する重要なステップとなった。

 

2007年 欧州連合(EU)に加盟

2007年、ルーマニアは欧州連合(EU)に加盟し、経済的および政治的に欧州の一員としての地位を確立した。EU加盟は、ルーマニアにとって大きな市場へのアクセス、資金の流入、そして法的および制度的な改革の推進を意味し、長期的な発展と国民の生活水準の向上に寄与した。

 

ルーマニアの歴史は、古代から現代にかけて多様な文化と政治的変動に満ちています。古代には、現在のルーマニアの地にはトラキア系のダキア人が住んでおり、1世紀にローマ帝国の支配下に入りました。ローマのダキア属州として都市やインフラが発展しましたが、3世紀にはゴート族の侵入によりローマの支配が終焉を迎えました。

 

中世には、トランシルヴァニア、ワラキア、モルダヴィアの3つの公国が形成されました。14世紀から15世紀にかけて、これらの公国はオスマン帝国の支配を受けましたが、強い自治を維持し続けました。特に、ヴラド・ツェペシュ(ドラキュラ公)やステファン大公などがオスマン帝国に対抗しました。

 

19世紀には、ナショナリズムの高まりとともに、1859年にワラキアとモルダヴィアが統合してルーマニア公国が成立し、1877年には独立を達成しました。第一次世界大戦後、トランシルヴァニア、ベッサラビア、ブコヴィナがルーマニアに統合され、大ルーマニアが成立しました。

 

第二次世界大戦では、ソ連とナチス・ドイツの圧力を受け、戦後は共産主義政権が成立しました。1989年のルーマニア革命によりニコラエ・チャウシェスク政権が崩壊し、民主化と市場経済への移行が進みました。2004年にはNATO、2007年には欧州連合に加盟し、現在も欧州との統合を進めています。ルーマニアの歴史は、多様な外部勢力の影響を受けながらも、独自の文化とアイデンティティを築き続けてきた歩みです。