アナーニ事件の教皇の死因「憤死」とは?

アナーニ事件と「憤死」の実態

アナーニ事件後、教皇ボニファティウス8世は辱めを受けて急死したと伝えられる。実際の死因は病死説もあり、「憤死」は象徴的な表現とされる。本ページでは、ヨーロッパの歴史的叙述や権威失墜、宗教観を理解する上で重要なこのテーマについて、より詳しく探っていこうと思う。

アナーニ事件の教皇の死因「憤死」とは?

フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世を襲撃させた事件で、教皇は「憤死した」と表現されていますが、これって死因なのですか?

アナーニ事件の中で、教皇はフィリップ4世の使者に暴行・監禁されて、権威もプライドも激しく傷つけられました。当然激しく怒ったはずです。


その後彼は支持者により解放されましたが、結局屈辱を晴らすことはできず怒りを抱いたまま病死しました。そして側近が教皇が悔しさのあまりに亡くなったと主張したことから「憤死」と表現されているのです。


聖年を宣言するボニファティウス 8 世/ジョット画


ちなみに死因が「憤死」と表現されている歴史上の人物は、ボニファティウス8世以外にも、ヨーロッパではグレゴリウス7世、シモン・ドゥ・モンフォール、アジアでは周瑜、早良親王など洋の東西を問わず結構います。


実際の死因は?

実際のボニファティウス8世の死因は、高齢と長年の不摂生による腎臓病の悪化と考えられていますが、監禁時に受けた暴行やストレスが悪化を早め、間接的な死因になった可能性は十分考えられます。