ヨーロッパ最大の王朝だったハプスブルク家が衰退した原因として以下のような点が挙げられます。
ハプスブルク家凋落のきっかけとなったウェストファリア条約の締結場面を描いた絵
三十年戦争の講和条約として結ばれたヴェストファーレン条約は、「神聖ローマ帝国を構成する領邦に主権を認める」というものでした。これにより、ただでさえ地方分権が強かった神聖ローマ帝国の分裂が決定的なものとなり、代々ハプスブルク家が世襲していた皇帝位は、形骸化してしまいます。この条約により、ハプスブルク家は没落し、ヨーロッパの覇権をフランス・ブルボン家に奪われる結果となったのです。
ハプスブルク家は代々病弱で、その原因は血筋を維持し、権力を身内で固めるために繰り返した「近親婚」であったといわれています。近親婚を繰り返すと、どんどん血が濃くなり、特定の外形的特徴や体質が強すぎて奇形や障害を持って生まれてくることがあります。
カルロス2世(在位:1665年〜1700年)は近親婚による弊害が目立っていた例ですが、彼は4歳まで会話もできず、8歳まで歩けませんでした。さらに「ハプスブルク家の顎」と呼ばれる下顎前突症も遺伝し、そのせいで咀嚼がうまくできず、常によだれをたらしていたといいます。
ハプスブルク家最後のスペイン王カルロス2世。何重もの近親婚の影響で、極度の下顎前突症の他、様々な身体障碍を患っていた。
そして晩年は幻覚や痙攣を繰り返し、寝たきり&心神喪失でまともな日常を送ることすら困難に。そうして苦渋の生活を送った末に、38歳と若くして亡くなったのです。彼は生殖能力にも障害を抱え、跡継ぎを残せなかったので、その死をもってスペイン・ハプスブルク朝は断絶しています。
スペイン王位はブルボン家が次ぐこととなりましたが、フランスの勢力拡大を防ぎたい周辺各国が大反発し、スペイン継承戦争(1701〜1714年)に発展しました。
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