ローマ帝国はトラヤヌス帝(在位:98〜117年)の治世で、イタリア半島周辺だけでなく、地中海沿岸地域、北アフリカや西アジアまで勢力圏を拡大し、史上最大版図を現出しました。しかしあまりにも広大な領土は、財政を圧迫し、政治的混乱を引き起こすようになったため、次代ハドリアヌス帝からは拡大路線を放棄し、国境の安定化に努めるようになります。しかしそれでも異民族の侵入や奴隷不足による労働力低下で、ジワジワと限界は近づいていき、分裂と統一を繰り返す不安定な状況が続くようになるのです。
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ローマ帝国の統一国家体制が最初に激しく揺らがされたのは、235年アレクサンデル帝(在位:222〜235年)の死から始まる軍人皇帝時代になります。ペルシアやゲルマン人との戦いで軍隊の発言力が強まっていたことを背景に、帝国各地の軍隊が独自に皇帝を擁立するという、無秩序の国内分裂状態が50年間も続いたのです。
ディオクレティアヌス帝(在位:284〜305年)による専制君主政(ドミナートゥス)の確立で、国土分裂は一応の解消をみましたが、コンスタンティヌス1世(在位:306〜337年)の死後、またも激しい内部闘争が起こり、3者の有力者が正帝を宣言したことで再び国は分裂してしまいました。
353年にコンスタンティウス2世(在位:337〜361年)が再統一を果たしますが、375年頃からゲルマン人がローマ帝国領に大挙するようになり、その対処のために、テオドシウス1世(在位:379〜395年)の死後、ローマ帝国を西ローマ帝国と東ローマ帝国に分け、分割統治を行うようになりました。
西ローマ帝国の勢力範囲(赤色領域)と東ローマ帝国の勢力範囲(青色領域)
これが本当の意味での「ローマ帝国の分裂」です。あくまで当時の為政者の認識としては、「分裂」ではなく「分割統治」なのですが、この後、東西ローマ帝国は政治的・文化的に明確に剥離していくので、今の視点からみれば「分裂」と表現するのが適当なのです。
なお具体的に両者がどう剥離していったのかは、東ローマ帝国と西ローマ帝国の違いは?をご参照ください。
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