第一次世界大戦におけるイタリアの「裏切り」って何のこと?

第一次世界大戦とイタリアの裏切り

第一次世界大戦における「イタリアの裏切り」は同盟関係の変化を意味する。三国同盟の一員だったイタリアが協商国側に転じ、領土拡張を優先した行動である。本ページでは、ヨーロッパの外交転換や戦争同盟、国際関係などを理解する上で重要なこのテーマについて、より詳しく探っていこうと思う。

第一次世界大戦におけるイタリアの動向を探るイタリアの「裏切り」とは何か

オーストリアに対するイタリアの勝利を決定づけたヴィットリオ・ヴェネトの戦いの後、トレントに滞在するイタリア騎兵隊


三国同盟の一員として戦争を始めたはずなのに、途中で陣営を変えた国。
かつての同盟国オーストリア=ハンガリー帝国に銃口を向けた決断。
そして戦争の終盤、情勢を一気に決定づけたヴィットリオ・ヴェネトの戦い
第一次世界大戦におけるイタリアの行動は、なぜ「裏切り」と呼ばれるのでしょうか?


実はこの動きは、感情的な寝返りではありません。
戦前から積み重なっていた不満と、戦時下での現実的な計算が重なった結果でした。


本節ではこの「イタリアの『裏切り』」というテーマを、参戦当初の立場・連合国側への転換・戦争の終結を決めた戦い──という3つの視点に分けて、ざっくり楽しく紐解いていきたいと思います!



三国同盟の一員──名ばかりの同盟関係

第一次世界大戦が始まる前、イタリアはドイツ、オーストリア=ハンガリーとともに三国同盟を結んでいました。
表向きは「がっちり結束した同盟」。ですが実態はというと、かなりギクシャクした関係だったんです。


とくに大きな火種になっていたのが、領土問題
イタリアは、オーストリア領内に残るイタリア系住民の地域──南チロルやトリエステなど──を「未回収のイタリア」と考えていました。
つまり、同盟国の中に「取り戻したい土地」があった、というわけです。


同盟国が最大の不満の相手

同盟を結んでいるはずの相手が、そのまま領土問題の当事者。
これでは、心からの信頼関係が築けるはずもありません。


イタリアにとって三国同盟は、最初から不満を抱え込んだ関係でした。
そのため、戦争が始まってもイタリアは「これは防衛戦争ではない」と主張し、参戦を見送ります。
同盟国の呼びかけに、すぐ応じなかったのも無理はありません。


中立という時間稼ぎ

1914年、ヨーロッパ全体が戦火に包まれる中で、イタリアは中立を宣言します。
一見すると煮え切らない態度に見えますが、実際はかなり計算された行動でした。


どちらにつく方が、より多くの利益を得られるのか
その見極めのための「時間稼ぎ」だったのです。


勝ちそうな側につく──きれいごとより現実を重視する姿勢。
この判断が、のちにイタリアが大きく進路を変える伏線になっていきます。


連合国への転換──「裏切り」と呼ばれた理由

1915年、イタリアは進路を大きく変え、連合国側として参戦します。
その結果、つい昨日まで同盟国だったオーストリア=ハンガリーとは、一転して敵同士の関係に。ここ、かなり衝撃的ですよね。


この決断が、後になって「裏切り」という強い言葉で語られるようになる理由です。


ロンドン密約という取引

イタリアは参戦に先立ち、連合国と水面下で交渉を進めていました。
その中で交わされたのが、参戦の見返りとして領土拡大を約束するロンドン密約です。


理念よりも、戦後に何を得られるかを重視した選択
この現実的すぎる判断が、後に強い道義的批判を招くことになります。


国内世論と政治判断

もちろん、国内の意見は一枚岩ではありませんでした。
戦争を避けたいと考える人びとが多くいる一方で、「未回収のイタリア」を取り戻したいという声も、次第に強まっていきます。


国家として、何を最優先するのか
その問いに対し、政府が選んだ答えが「参戦」でした。


理想と現実、感情と計算。そのはざまで下された決断。
イタリアのこの選択は、第一次世界大戦における立ち位置を大きく変えると同時に、後世まで評価が分かれる分岐点となったのです。


ヴィットリオ・ヴェネトの戦い──結末を決めた一撃

イタリア軍は、第一次世界大戦を通じて決して順風満帆とは言えませんでした。
とくにカポレットの戦いでの大敗は、前線の崩壊と国内の動揺を招き、国家の行方そのものが不安視されるほどの衝撃でした。


ですが、戦争が終盤に差しかかると、流れは少しずつ変わっていきます。
混乱を立て直し、態勢を整えたイタリア軍は、最後の勝負に打って出るのです。


総力戦としての反攻

1918年、イタリア軍は再編成を終え、総力を挙げて反攻を開始しました。
その舞台となったのが、ヴィットリオ・ヴェネトの戦いです。


オーストリア=ハンガリー軍を完全に崩壊させた決定的な戦い
この一撃によって前線は瓦解し、帝国内部では民族問題や政治的混乱が一気に噴き出していきました。
軍事的敗北が、帝国そのものの終焉を早めた瞬間でもあります。


「裏切り」の評価が変わる瞬間

この勝利によって、イタリアは戦勝国の一員として講和の場に立つことになります。
参戦時には厳しく批判された判断も、結果を受けて国内では次第に肯定的に語られるようになりました。


結果が、その過程の評価を塗り替えた
イタリアの第一次世界大戦は、まさにその典型だったと言えるでしょう。


迷い、批判され、それでも最後に勝利をつかむ。
ヴィットリオ・ヴェネトの戦いは、イタリアにとって戦争の意味そのものを決定づけた、象徴的な一戦だったのです。


イタリアの「裏切り」とは、感情的な寝返りではなく、戦前から続く不満と戦時下の計算が生んだ選択でした。
三国同盟に属しながら中立を保ち、より有利な条件を求めて連合国側に立つ。その動きは冷静で現実的でもあったのです。


そしてヴィットリオ・ヴェネトの戦いによって、イタリアは戦争の結末を決定づける側に回りました。 「裏切り」という言葉の裏には、国益を最優先した国家の判断があった
この視点で見ると、第一次世界大戦のイタリアは、ずっと違った姿で見えてくるはずです。