ハインリヒ4世とは何をした人?〜叙任権闘争、カノッサの屈辱〜

ハインリヒ4世

 

ハインリヒ4世の基本情報

 

誕生:1050年ゴスラー
死没:1106年リエージュ
在位:1053年 - 1105年
王朝:ザリエル朝
実績:叙任権闘争、カノッサの屈辱

 

ハインリヒ4世はザリエル朝の神聖ローマ皇帝で、グレゴリウス7世と「叙任権闘争」を繰り広げ、破門をくらい、「カノッサの屈辱」でそれを解かれた人物として知られています。即位時は6歳だったため、しばらくは母や側近が摂政となり国政を担い、1065年成年に達すると同時に新政を開始しました。

 

治世ではザクセンに国王直轄領を建設するなど王権基盤強化に着手。その一環として聖職者の任命権を得ようとしますが、教皇グレゴリウス7世の大反発に合い、いわゆる「叙任権闘争」の口火を切るのです。

 

対立激化の末にハインリヒ4世は破門されてしまい、それを解いてもらうために、カノッサ城門にて雪が降る中、裸足のまま祈り、3日3晩許しを請うた事件が「カノッサの屈辱」です。この事件で皇帝の権威は大いに傷つきましたが、まもなく反撃を開始し、軍勢を率いてローマを包囲、教皇グレゴリウスを亡命に追いやり雪辱を晴らしています。

 

ハインリヒ4世はなぜ破門されたのか

ハインリヒ4世は即位後、父の意思を継いで王権の強化に乗り出しました。その一環として始めたのが帝国教会政策で、1075年、教皇の意思を無視して叙任権を行使し、自分に都合の良い司教を任命、教会を通じた支配を目論むのです。

 

当然教皇はこれに抗議し、ハインリヒ4世に聖職叙任の禁止を通告。これにハインリヒ4世は対決姿勢を示したため、叙任権闘争を誘発し、最終的に破門されてしまうのです。

 

破門されたハインリヒ4世は臣下や諸侯からの信頼を失くし窮地に立たされてしまいました。そのため破門を説いてもらうべくカノッサに滞在中の教皇のもとへ赴き、城外で雪の中3日間祈り続け、ようやく破門を許されました。これがいわゆるカノッサの屈辱なのです。