フランスによるアルジェリア侵略戦争の一つ「コンスタンティーヌの戦い」を描いた絵。コンスタンティーヌは現アルジェリア第三の都市で、フランスの侵略に対し、最も粘り強く抵抗した都市として知られる。
1830年、フランスはアルジェリアに対して「アルジェリア侵略」と呼ばれる侵略戦争を起こしています。シャルル10世の復古王政下の出来事で、この戦争の結果、当時オスマン帝国(トルコ)領だったアルジェリアは、フランスの植民地になり、その支配は1962年のアルジェリア独立まで続くことになります。ここでは植民地化の動機や植民地化されるまでの流れ、その後の影響などについて解説しています。
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フランスがアルジェリアを植民地にした主な理由としては
などが挙げられ、とりわけ、当時人気がなかった反動的な復古王政期の政府が、国内の不満の矛先をそらすために、強行した側面が強いです。(しかし人気取りのかいないく復古王政は七月革命で崩壊しています。)
1830年6月にアルジェ近郊の海岸にフランス軍が上陸を開始。同年7月フサイン軍が降伏したのを皮切りに沿岸の主要都市も次々と占領。その後は、アルジェリアの駐屯軍を増強したり、移民を送り込むことで、占領統治の既成事実を作り上げていきました。七月革命でシャルル10世が退位した後もフランスの占領は続き、植民地支配は1962年の独立まで132年間にもおよびました。
またのちにフランスは、アルジェリアを拠点としてチュニジアとモロッコまで勢力図に組み込み、マグレブ地方全体を植民地化してしまいました。
アルジェリアの植民地化により、フランス人への対抗意識から、アルジェリア人の民族意識が形成されていきました。これが第二次世界大戦後のアルジェリア民族解放戦線(FLN)による独立運動、アルジェリア戦争へとつながっていきます。
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