ブレジネフとは何をした人?〜ブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)の提唱〜

 

ブレジネフの基本情報

 

本名:レオニード・イリイチ・ブレジネフ
誕生:1906年エカテリノスラフにて
死没:1982年モスクワにて
在任:1964年10月14日 -1982年
政策:ブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)/「プラハの春」弾圧/アフガニスタン侵攻

 

ブレジネフ(1906年 - 1982年)はソ連の政治家で、フルシチョフの失脚後実権を握り、その後18年間に渡りソ連の最高指導者としての地位についていた人物です。とりわけ、社会主義国の連帯を最優先する「ブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)」と呼ばれる原則を定めたことで有名です。

 

ウクライナの製鉄労働者の家庭に生まれ、ソ連成立まもない1923年に成年共産同盟に加盟。31年共産党に入党後頭角をあらわし、次々と重要ポストを歴任する中、第二次世界大戦での戦功や戦後復興の功績により名声を高めました。そして64年フルシチョフが解任されると、66年書記長、77年最高ソビエト幹部議長となり、事実上の最高指導者として君臨するようになったのです。

 

チェコで民主化運動「プラハの春」が起こると、「ブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)」を唱えてこれを弾圧。またアフガニスタン侵攻を強行し、東西対立を激化させた上、戦費により経済を悪化させ、ソ連崩壊に向けた下地を準備してしまっています。

 

ブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)とは何か

ブレジネフといえば、ブレジネフ=ドクトリン(制限主権論)と呼ばれる理論の提唱者としても知られています。制限主権論とは、1968年春、ブレジネフがチェコスロバキアの民主化運動を武力で弾圧した後に、軍事介入を正当化するために創出した理論のこと。

 

社会主義共同体の利益のために、社会主義諸国(主に東欧諸国を指す)の主権は制限され、社会主義共同体全体の利益が脅威にさらされた場合は、主権国家への介入も正当化されるという理屈です。後のアフガニスタン侵攻もこの原則に則って行われました。

 

原則の放棄

制限主権理論が発表されると、社会主義国のユーゴスラビアやアルバニアは強く反発し、中国も「ソ連帝国主義の現れ」として痛烈に批判しています。のちに書記長となるゴルバチョフもこの理論に批判的で、彼は就任後、内政不干渉の原則を掲げ、チェコスロバキアへの軍事介入の誤りを認める声明を出し、制限主権論を放棄しています。