清教徒革命

清教徒革命

清教徒革命(ピューリタン革命)とは1640年から1660年までにイギリスで起こった市民革命です。その実はイングランド国内における議会派と国王派の内戦ですが、清教徒(ピューリタン)が主導した運動であったことからこのように呼ばれています。チャールズ1世の強権的な専制政治に対する国民の反感が発端とし、王政の廃止を始めとする様々な改革が行なわれました。

 

 

清教徒革命の中心人物

チャールズ1世

ジェームズ1世(在位:1603年〜1625年)の次男として生まれた、スチュアート朝イングランド王です。在位1625年〜49年。1628年、三十年戦争の戦費支出のため増税を企て、議会と激しく対立。以後議会無視の専制政治を行い、スコットランドに国教会を強制しようとしたことで、議会派と王党派の内戦(清教徒革命)を引き起こしました。最終的には王党派が敗れ、1649年、チャールズ1世は裁判で死刑宣告後、処刑されています。

 

クロムウェル

清教徒のジェントリ出身のイギリスの軍人です。清教徒革命が勃発すると鉄騎隊を率いて王党軍を撃破。1649年にチャールズ1世を処刑し、イギリス史上初の共和政を創始しました。しかし1653年には護国卿となり、議会を解散し、独裁政治を行ったため、彼の死後王政復古が起こりました。また彼がアイルランド遠征の際に行った徹底的な反対派粛清は、現在に続くアイルランド問題の始まりとなりました。

 

清教徒革命の党派

議会派

チャールズ1世の絶対王政に反対、大抗議文の作成を主導した党派です。共に国王軍(王党派)に対峙しましたが、同じ議会派でも長老派、独立派、平等派など様々な派閥があり、必ずしも同じ方向を向いていたわけではありません。議会派勝利の一番の功労者であったクロムウェルは独立派でした。

 

王党派

チャールズ1世を支持し、大抗議文に賛同せず、議会と敵対した党派です。ほぼ大地主や貴族、聖職者などの国教会の信徒によって構成されていました。王党派の多くは、内戦に敗れた後、土地や財産を没収されています。

 

清教徒革命の影響

チャールズ1世はピューリタン一派の長老教会主義を国教としていたスコットランドにイングランド国教会を強制しようとし、このことが反感を呼び武力闘争に発展。清教徒革命の幕が上がりました。序盤は国王派が優勢でしたが、鉄騎隊率いる議会派のクロムウェルの活躍で戦況が変わり始めます。そして1645年のネーズビーの戦いで議会派が国王軍を破ったことで、第一次内乱は終結。1649年、チャールズ1世が処刑されるとともに王政が廃止され、イングランド史上初の共和政が成立しました。

 

清教徒革命のその後

1651年公開法の発布がきっかけとなり第一次イギリス=オランダ戦争が勃発。これにより議会と軍が対立し紛糾しましたが、53年クロムウェルは武力で議会を解散させ、統治章典によって護国卿となり、独裁的な支配体制を確立しました。しかしその強権的な支配体制が国民に不評だったため、クロムウェルの没後イングランドは再び王政に戻っていったのです。