![スイスの歴史年表](../img/header_nenpyou.jpg)
スイスの国旗
スイスの国土
スイス(正式名称:スイス連邦)は、中央ヨーロッパのアルプス山脈沿い、ドイツ・オーストリア・リヒテンシュタイン・イタリア・フランスなどに囲まれた地域に位置する連邦共和制国家です。国土は南部のアルプス山脈地帯と北部の台地(スイス高原)で構成され、気候区は大部分が海洋性気候に属しています。首都は旧市街が世界遺産にも登録されており、中世の面影を多く残す“古都”として知られるベルン。
この国ではとくに機械工業が発達しており、中でも時計・精密機械の生産がさかんです。また旧市街など豊富な観光資源を背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。
そんなスイスの歴史は、14世紀初頭、スイス中部地方に建設された原初3州(ウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン)からなる永久盟約から始まるといえます。14世紀半ばここにベルンが加盟して8州からなるスイス自由連合が成立。17世紀半ばに神聖ローマ帝国からスイス連邦として独立。18世紀末のナポレオンの支配を経て19世紀初頭に永世中立国として再独立を果たして現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなスイスの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
古代スイス地域は多様な文化的変遷を経験しました。前3900年から3500年にかけて発展したフィン文化はスイス北部に根付き、定住生活と農耕の発展を示しています。紀元前800年頃には、ハルシュタット文化がこの地に現れ、鉄器の使用とともにより複雑な社会構造が形成されました。その後、ラ・テーヌ文化が繁栄し、ケルト人がこの地域に影響を与え、独自の芸術と工芸技術を発展させました。ローマ帝国の拡大とともに、紀元前15年にスイスはローマ帝国の支配下に入り、ガリア・ヘルヴェティア属州となりました。ローマ化が進む中で、都市が建設され、ローマの法と文化が導入されました。しかし、西ローマ帝国の崩壊とともにゲルマン人の侵入が進み、地域の文化的風景は大きく変わりました。
前3900年から3500年にかけてフィン文化が発展した。この文化は、主にスイス中央部の湖沼地帯に広がり、農耕と牧畜を基盤とした定住生活が特徴であった。また、木製の家屋や精巧な石器の製造技術も発展した。
ケルト人のヘルウェティイ族がスイスに居住を始める。農業と牧畜を主な生業とし、また交易も盛んに行っていた。ヘルウェティイ族は、スイスの中部および西部に広がり、その後のローマ人との接触や対立の基盤を築いた。スイスの古名「ヘルヴェティア」はこの民族の呼称に由来。
ユリウス・カエサル率いるローマ軍がスイスの中部平原に侵攻。ヘルウェティイ族の国が滅ぼされスイスはローマの支配下に入った。
スイスにローマ属州ヘルウェティアが設置される。この属州はローマ帝国の支配下で高度なインフラが整備され、ローマ風の都市や道路が建設された。また、ローマの文化や法律が導入され、地元のケルト文化と融合することで地域の発展が促進された。
ヘルウェティアにゲルマン一派のアラマンニ人が侵入。これにより、ローマ帝国の支配が揺らぎ、地域は混乱に陥った。翌260年にはローマはこの地の防衛を放棄し、ヘルウェティアは事実上アラマンニ人の支配下に置かれることとなった。この出来事は、ローマ帝国の衰退とゲルマン民族の勢力拡大を象徴する重要な転換点となった。
4世紀に入りスイス地域に初めてキリスト教の司教区が設立される。これにより、キリスト教は地域社会に深く浸透し、教会や修道院の建設が進んだ。司教区の設立は、ローマ帝国末期における宗教的・文化的変革の一環であり、スイスの宗教的アイデンティティの形成に大きな影響を与えた。
5世紀に入り、ローマ帝国の衰退にともないローマ軍がスイスから撤退。アレマン人、ブルグント人、ラエティ人、ランゴバルド人の4民族が共存するようになる。
ブルグント族の王グンダハールにより、ローヌ川流域を領土とするブルグント王国が成立。スイスもその支配下に入った。
西ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパ全体が混乱期に突入する。この崩壊はスイス地域にも大きな影響を与え、ブルグント王国の支配が強まった。同時に、他のゲルマン部族の進出が加速し、地域の権力構造が大きく変動した。
スイスの地は前1世紀頃からローマ帝国の属領となり、5世紀に西ローマ帝国が滅ぶと、次はフランク王国の支配下に入りました。その後も神聖ローマ帝国、ハプスブルク家と支配者は入れ替わりましたが、13世紀末にウーリ、シュビーツ、ウンターヴァルデンの3州によるスイス誓約同盟が結ばれたことで、スイス建国の基礎が築かれました。14世紀半ばにはルツェルン・チューリッヒ・グラールス・ツーク・ベルンの5州を加え、同盟は計8州に拡大しました。
フランク王国領を三分割するヴェルダン条約が結ばれ、スイスの西部は中フランク王国に、東部は東フランク王国に支配されるようになる。
神聖ローマ帝国が成立し、スイス地域もその影響下に置かれることとなる。オットー1世によって帝国の統治が強化され、スイス地域では封建制度が発展した。また、この時期に多くの修道院や教会が建設され、キリスト教の影響力がさらに広がった。スイスの各地方は、神聖ローマ帝国の複雑な政治体制の中で一定の自治権を保持しながらも、帝国の一部として統治された。
スイス全域が神聖ローマ帝国の支配下に置かれる。この時期、スイスは帝国の一部として重要な位置を占め、アルプス越えの交易路の管理が強化された。また、各地に城塞や修道院が建設され、宗教的・経済的中心地として発展していった。スイスの都市や村々は、自治権を持ちながらも、神聖ローマ帝国の政治的枠組みの中で統治されていた。
ハプスブルク家がスイスへの影響力を強めた。またザンクト・ゴットハルト峠が開通したことで、スイスがヨーロッパにおける交通の要衝となった。
スイス農民軍によるハプスブルク家支配に対する反乱が起こされ、スイスからハプスブルク家が排除される。この戦いでスイス同盟軍はハプスブルク軍を撃退し、スイスの独立と自治を大きく進展させた。この勝利は、スイスの農民や都市の民兵が団結して強大な封建領主に立ち向かい、成功を収めた象徴的な出来事となり、その後のスイスの自由と独立を象徴する重要な歴史的転換点となった。
近世スイスは、ヨーロッパの政治的な変動の中で独自の道を歩んできました。1520年代には宗教改革がスイス各地で広がり、特にジュネーブがカルヴァン派の中心地として知られるようになりました。これにより、スイスはプロテスタントとカトリックの勢力が入り交じる複雑な宗教地図を持つことになりました。また、スイスは諸州が同盟を結び、相互の独立と平和を維持する連邦主義の原型を築きました。この時期、スイスは外部の侵略から自国を守るために、しばしば傭兵を提供することで知られており、その中立政策の基礎が形成されました。スイスの地理的な位置と強固な軍事戦略により、国内は比較的安定しており、農業、手工業、そして次第に銀行業が発展していきました。
ドイツのシュヴァーベン地方及びスイスのグラウビュンデン地方で、スイス同盟とハプスブルク家の武力衝突が発生。勝利したスイスはハプスブルク支配からの脱却をとげた。
スイスにおけるカトリックとプロテスタントの間で行われた「戦争」。プロテスタントからカトリックへの宣戦布告は行われたが、実際には武力衝突にいたる前に和解した。
再度カトリックとプロテスタントの対立が再燃し、第二次カッペル戦争が起こった。カッペル協定が結ばれ和約。カトリックとプロテスタント共存の体制が作られた。
神聖ローマ帝国内でカトリックとプロテスタントの対立が頂点に達し、ヨーロッパ中を巻き込んだ宗教戦争「三十年戦争」が勃発。スイスは「武装中立」という立場をとった。
三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約が結ばれた。この条約の効力によりスイスは、正式に神聖ローマ帝国から独立を遂げた。
18世紀末にフランスによる侵攻を受けますが、19世紀初頭のナポレオン失脚後、ウイーン会議によりスイスの永世中立が承認されることとなりました。最初は諸州の緩やかな連合にすぎない国でしたが、19世紀半ばに連邦憲法を改正し、首都をベルンとする確固たる連邦制統一国家となりました。20世紀に起こった第一次世界大戦・第二次世界大戦という2つの大戦は、ヨーロッパ全体に大打撃を与え、多くの国が消えたり、領土を失ったりしたが、スイスは中立を維持し、生き残ることができました。
同年3月にフランス軍がスイスに侵攻し、衛星国としてヘルヴェティア共和国の建国を宣言した。これは、フランス革命の影響を受けたもので、スイスの旧制度を廃止し、中央集権的な統治を目指した。ヘルヴェティア共和国の成立により、スイスの各州は独立した存在ではなくなり、統一された国家として再編成されたが、内紛や経済的困難が続き、安定した政権とはならなかった。
フランス支配下のスイス(ヘルヴェティア共和国)において、共和国派と連邦派による内戦に発展。連邦軍が勝利し、ヘルヴェティア共和国は解体された。
フランス革命(1789年-)が起こり、ナポレオン調停法の発布によりスイスは地方自治の体制に戻った。
ナポレオン戦争終結後開催されたウィーン会議でスイスの独立が認められ、永世中立国として国際的に認知されるようになる。
スイスでカトリック派(分離同盟)とプロテスタント派の緊張状態が頂点に達し、分離同盟戦争と呼ばれる内戦に発展。結果はカトリック派が敗北した。
分離同盟戦争の結果、スイスでは連邦制度が採択されることとなり、スイス連邦が成立した。この新しい憲法は、各州の自治を尊重しながらも、中央政府の権限を強化し、政治的安定と経済発展を促進するための基盤を築いた。これにより、スイスは統一国家としての地位を確立し、現代のスイスの政治的枠組みが形成された。この時期から、スイスは永世中立国としての立場を強調し、国際的な舞台で重要な役割を果たすようになった。
スイスフランが公式通貨として導入され、経済を安定させるとともに国際取引を容易にした。これにより、スイスの中立性と経済的独立が強化された。
スイス・ユニオン銀行が設立され、後に大手銀行UBSへと発展。スイスの金融産業における中心的役割を果たし、国際金融センターとしてのスイスの地位を確立した。
スイス・ジュネーブ出身のアンリ・デュナンが、悲惨な戦争を目にした自身の経験から、救護団体赤十字を創設した。この活動は、ソルフェリーノの戦いでの悲惨な状況を目の当たりにしたデュナンの熱意によって推進され、人道的援助の新しい基準を確立した。赤十字は、戦争や災害時における負傷者や病人への救護活動を行う国際的な団体として成長し、後に国際赤十字・赤新月運動として広がり、多くの国で人道支援活動を展開する基盤となった。
20世紀のヨーロッパでは、第一次世界大戦、第二次世界大戦という世界史を揺るがす2つの大戦が起こったがいずれの戦いでもスイスは中立の立場を取った。
第一次世界大戦が勃発しても、スイスは厳格な中立政策を維持し、戦後の国際関係における基盤を保持した。この中立政策により、スイスは戦闘に巻き込まれることなく、戦争難民や負傷者の避難先としての役割を果たし、国際赤十字などの人道支援活動の拠点となった。
第二次世界大戦が始まり、スイスは再び中立政策を維持。戦争中、外交のハブおよび避難所として機能した。スイスは各国の間で情報交換の場となり、諸外国の利益代表を務めるなど、国際的な仲介役として重要な役割を果たした。また、多くの難民を受け入れ、人道的支援を提供し続けた。
現代スイスは、強固な経済と政治の安定が特徴です。第二次世界大戦後の中立政策を維持し、国際連合には2002年に加盟しました。金融業は依然として国の経済を支える重要な柱であり、銀行の秘密保持は厳格ですが、国際圧力により透明性が増しています。多言語国家であり、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つの公用語が使用されています。高品質の教育システムと包括的な社会保障が国民に提供されており、国際的な外交や平和促進の場としても認知されています。また、環境保護と持続可能な開発にも力を入れており、高い生活水準を享受しています。
スイスは核武装を行わないことを決定し、中立と平和への取り組みを強化した。この決定は、国際社会におけるスイスの立場を明確にし、核兵器の拡散防止に貢献する姿勢を示した。
スイスは欧州自由貿易連合に加盟し、政治的中立を保ちつつ経済的な結びつきを強化した。これにより、スイスは貿易の自由化と経済成長を促進し、欧州の市場との関係を深めた。
欧州評議会への加盟により、スイスは中立を保ちながらも、より広い大陸の政策議論に参加するようになった。これにより、スイスは人権、民主主義、法の支配といった欧州の共通価値を支持し、地域の安定と協力に貢献することを目指した。
2002年、スイスは国際連合に加盟し、国際外交や多国間協力における役割を公式化した。この加盟により、スイスは国際的な課題に対する貢献を強化し、平和と安全、開発、人権などの分野で積極的な役割を果たすことを目指した。加盟後、スイスは中立国としての立場を維持しつつ、国際社会における信頼されるパートナーとしての地位を確立した。
スイスの加盟が遅れた理由
スイスの国際連合(国連)への加盟が遅れた理由は複数の要因によります。以下にその主な理由を挙げます。
これらの要因が重なり、スイスの国連加盟は遅れることとなりました。しかし、1990年代以降の国際情勢の変化や国連の役割の再評価、国内の支持の高まりなどを背景に、2002年に国民投票で加盟が承認され、正式に国連の一員となりました。
スイスはシェンゲン協定およびダブリン規約に加盟し、欧州連合(EU)との協力を深める。
グローバルな金融危機がスイス経済に影響を及ぼし、銀行業界にも大きな打撃を与えた。
スイス政府は金融危機の影響を受けたUBS(ユニオン・バンク・オブ・スイス)を救済するための支援を実施した。
国際的な圧力により、スイスは銀行秘密法を緩和し、税逃れの防止と国際的な透明性の向上を目指す。
スイスの有権者はEUからの移民を制限する提案を僅差で承認し、EUとの関係に緊張をもたらす。
スイス国立銀行がスイスフランの対ユーロ上限を撤廃し、スイスフランが急騰。輸出業や観光業に大きな影響を与えた。
スイスの金融機関がパナマ文書に関与していることが明らかになり、国際的な注目を浴びた。
スイスは再生可能エネルギーへの移行を目指し、原子力発電を段階的に廃止する政策を採択した。
スイスも新型コロナウイルスのパンデミックに直面し、ロックダウンや経済対策を実施した。
スイスはCOVID-19ワクチン接種を全国的に推進し、パンデミック収束に向けた取り組みを強化した。
ロシアのウクライナ侵攻に対する国際的な制裁やエネルギー価格の上昇がスイス経済に影響を与えた。
古代から現代にかけてのスイスの歴史を総括すると、スイスは多様な民族と文化の交差点として発展してきました。古代にはケルト民族やローマ帝国の影響を受け、中世には独立した都市国家が形成されました。1291年にはスイス連邦の原型となる永久同盟が結ばれ、中立国としての立場を固めていきました。近世から近代にかけては、宗教改革の影響を受けながらも、政治的には中立を保ち続け、第一次世界大戦と第二次世界大戦を通じて非戦を維持しました。戦後、スイスは経済的にも発展し、銀行業や時計製造業などが国際的に認知されるようになりました。また、国際平和と協調を支える重要な役割を担い、国際連合などの国際機関に加盟しています。高度な教育制度と政治の安定が、現代スイスの特徴となっています。
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