スイスの歴史年表

スイスの国旗

 

スイスの国土

 

年代 出来事 時代
前1世紀 ローマ帝国がケルト系ヘルウェティイ族を征服し、属州化 古代
5世紀 ローマ帝国崩壊後、ブルグント族やアレマン人が定住 古代末期
8世紀 フランク王国の支配下に入り、カロリング朝に統合 中世
1291年 ウーリ・シュヴィーツ・ウンターヴァルデン3州が盟約を結び、スイス建国の伝説的起源 中世
1315年 モルガルテンの戦いでハプスブルク軍に勝利 中世
1499年 シュヴァーベン戦争後、神聖ローマ帝国から事実上の独立 中世末期
1515年 マリニャーノの戦い敗北後、対外中立政策を強化 近世
1648年 ヴェストファリア条約でスイスの独立が国際的に承認される 近世
1798年 フランス革命の影響で「ヘルヴェティア共和国」として再編 近代
1815年 ウィーン会議で永世中立国として承認 近代
1848年 連邦憲法制定、近代スイス国家の枠組みが整う 近代
1874年 憲法改正で中央集権的な連邦国家体制が強化 近代
1914〜1918年 第一次世界大戦では中立を維持 近代
1939〜1945年 第二次世界大戦でも中立を維持、周辺国に包囲される 近代
1971年 連邦レベルで女性参政権が実現 現代
2002年 国連に加盟 現代
2023年 EU非加盟を維持しつつ、欧州との二国間協定体制を継続 現代

 

スイスの歴史詳細

スイス(正式名称:スイス連邦)は、中央ヨーロッパのアルプス山脈沿い、ドイツオーストリアリヒテンシュタインイタリアフランスなどに囲まれた地域に位置する連邦共和制国家です。国土は南部のアルプス山脈地帯と北部の台地(スイス高原)で構成され、気候区は大部分が海洋性気候に属しています。首都は旧市街が世界遺産にも登録されており、中世の面影を多く残す“古都”として知られるベルン

 

この国ではとくに機械工業が発達しており、中でも時計・精密機械の生産がさかんです。また旧市街など豊富な観光資源を背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんなスイスの歴史は、14世紀初頭、スイス中部地方に建設された原初3州(ウリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデン)からなる永久盟約から始まるといえます。14世紀半ばここにベルンが加盟して8州からなるスイス自由連合が成立。17世紀半ばに神聖ローマ帝国からスイス連邦として独立。18世紀末のナポレオンの支配を経て19世紀初頭に永世中立国として再独立を果たして現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなスイスの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

スイスの歴史年表

 

古代スイス

古代スイス地域は多様な文化的変遷を経験しました。前3900年から3500年にかけて発展したフィン文化はスイス北部に根付き、定住生活と農耕の発展を示しています。紀元前800年頃には、ハルシュタット文化がこの地に現れ、鉄器の使用とともにより複雑な社会構造が形成されました。その後、ラ・テーヌ文化が繁栄し、ケルト人がこの地域に影響を与え、独自の芸術と工芸技術を発展させました。ローマ帝国の拡大とともに、紀元前15年にスイスはローマ帝国の支配下に入り、ガリア・ヘルヴェティア属州となりました。ローマ化が進む中で、都市が建設され、ローマの法と文化が導入されました。しかし、西ローマ帝国の崩壊とともにゲルマン人の侵入が進み、地域の文化的風景は大きく変わりました。

 

前40世紀

前3900年から3500年にかけてフィン文化が発展しました。この文化は、主にスイス中央部の湖沼地帯に広がり、農耕と牧畜を基盤とした定住生活が特徴でした。また、木製の家屋や精巧な石器の製造技術も発展しています。

 

前15世紀

ケルト人のヘルウェティイ族がスイスに居住を始めています。農業と牧畜を主な生業とし、交易も盛んに行っていた民族で、スイスの中部および西部に広がり、その後のローマ人との接触や対立の基盤を築きました。スイスの古名「ヘルヴェティア」はこの民族の呼称に由来しています。

 

前1世紀

紀元前1世紀のスイス、当時は「スイス」という国は存在せず、現在のスイスにあたる地域は「ヘルウェティイ族」と呼ばれるケルト系部族が住んでいました。彼らはアルプス山脈周辺の広大な地域で生活していましたが、ローマ帝国との関わりがこの時期に大きく増加します。

 

特に紀元前58年、ガリア戦争の最中に、ローマの将軍ユリウス・カエサルがこの地域を通過しようとするヘルウェティイ族の大移動を阻止しました。この「ビブルアクタの戦い」で、カエサル率いるローマ軍はヘルウェティイ族を打ち破り、彼らはローマの支配下に組み込まれたのです。また、これにともないローマは現在のスイス地域に軍事的・経済的影響力を強め、ローマの都市がいくつか建設され、交易や文化の交流も進みました。

 

この結果、スイス地域はローマの属州として統治され、ヘルウェティイ族の生活は大きく変化していきました。ローマの支配下でインフラが整備され、農業や商業が発展し、ローマ文化が徐々に浸透していったのです。

 

このように、紀元前1世紀のスイスはローマ帝国の進出により、ケルト系部族が支配を受ける中で、ローマ文化の影響を強く受け始めた時代だったのです。

 

前58年 古代ローマの支配下に

ユリウス・カエサル率いるローマ軍がスイスの中部平原に侵攻。ヘルウェティイ族の国が滅ぼされスイスはローマの支配下に入った。

 

前15年

スイスにローマ属州ヘルウェティアが設置される。この属州はローマ帝国の支配下で高度なインフラが整備され、ローマ風の都市や道路が建設された。また、ローマの文化や法律が導入され、地元のケルト文化と融合することで地域の発展が促進された。

 

3世紀

3世紀のスイス地域は、ローマ帝国の属州として重要な役割を果たしていましたが、この時期は帝国全体が不安定な時代に突入していました。特にゲルマン民族の侵入が増加し、スイス地域もその影響を強く受けたのです。

 

この時代、ローマ帝国は外敵からの攻撃に対応するため、スイス地域にいくつかの防衛施設を建設しました。とりわけ、ライン川沿いに防衛線を強化し、アラマンニ族などのゲルマン部族の侵入を食い止めるために、軍を配置していたのです。しかし、3世紀中頃にはアラマンニ族がライン川を越えて頻繁に襲撃を行うようになり、スイス地域も度重なる侵攻にさらされました。

 

また、この混乱の中で、ローマの支配体制が弱まり、スイス地域のローマ都市や村は荒廃し始めました。なおかつ、経済的にも打撃を受け、都市の住民は農村部に移り住むようになり、徐々に生活様式が変わっていったのです。ローマ帝国はそれでも支配を維持しようとしましたが、その力は次第に衰退していきました。

 

このように、3世紀のスイスは、ゲルマン部族の侵入やローマ帝国の衰退に直面し、激しい混乱と変化が進行していた時代だったのです。

 

259年アラマンニ人の侵入

ヘルウェティアにゲルマン一派のアラマンニ人が侵入。これにより、ローマ帝国の支配が揺らぎ、地域は混乱に陥った。翌260年にはローマはこの地の防衛を放棄し、ヘルウェティアは事実上アラマンニ人の支配下に置かれることとなった。この出来事は、ローマ帝国の衰退とゲルマン民族の勢力拡大を象徴する重要な転換点となった。

 

4世紀

4世紀のスイス地域は、依然としてローマ帝国の一部でありながら、大きな変化の波にさらされていました。この時代、ローマ帝国は外敵の侵入に悩まされ、特にゲルマン部族であるアラマンニ族の脅威が増していたのです。

 

とりわけ、アラマンニ族は4世紀を通じてライン川を越え、現在のスイス地域に侵入し、ローマの防衛線は次第に弱まっていきました。これに対抗するため、ローマはライン川沿いに防備を強化し、都市を要塞化しました。ジュネーブやアヴァンシュといった都市では、ローマの軍事拠点が築かれましたが、それでもゲルマン族の襲撃を完全に防ぐことはできなかったのです。

 

また、4世紀に入りスイス地域に初めてキリスト教司教区が設立されました。これにより、キリスト教は地域社会に深く浸透し、教会や修道院の建設が進んでいます。司教区の設立は、ローマ帝国末期における宗教的・文化的変革の一環であり、スイスの宗教的アイデンティティの形成に大きな影響を与えたのでした。

 

経済的には、ローマの影響力が徐々に衰え、都市が衰退して農村社会が広がり始めます。これにともない、ローマの文化とゲルマン文化が交錯し、地域の生活様式や社会構造にも変化が生じていきました。

 

このように、4世紀のスイスは、ローマの防衛力が弱まり、ゲルマン部族の侵入が進む一方で、キリスト教の広がりが始まるなど、社会や文化が大きく変化していった時代だったのです。

 

5世紀

5世紀のスイス地域は、ローマ帝国の衰退に伴い、大きな変革の時代を迎えました。4世紀末から続く帝国の弱体化によって、ローマ軍はついにこの地域から撤退し、スイスは新たな時代に突入します。これにともない、ゲルマン系のアレマン人、ブルグント人、ラエティ人、ランゴバルド人といった4つの民族がこの地域で共存するようになったのです。

 

アレマン人は、特にスイス北部と東部に定住し、農耕社会を発展させました。一方、ブルグント人は西部に王国を建設し、現在のジュネーブやローヌ川流域を支配下に置きます。ラエティ人は、アルプス山脈周辺に住み続け、地域の文化に深く根付いた存在でした。そして、ランゴバルド人は南部を中心に影響を持ち、後のイタリア半島進出への足がかりを築いていたのです。

 

これにより、スイス地域は多民族の共存する土地となり、それぞれの文化や社会構造が交錯しました。ローマ時代の影響が徐々に薄れる中、ゲルマン文化やキリスト教の影響が地域全体に広がり始め、新しい社会の形成が進んでいきます。

 

このように、5世紀のスイスはローマ軍撤退後、多民族が共存し、新しい文化や社会が形成されていった時代だったのです。

 

411年ブルグント王国の成立

ブルグント族の王グンダハールにより、ローヌ川流域を領土とするブルグント王国が成立。スイスもその支配下に入った。

 

476年西ローマ帝国の崩壊

西ローマ帝国が崩壊し、ヨーロッパ全体が混乱期に突入する。この崩壊はスイス地域にも大きな影響を与え、ブルグント王国の支配が強まった。同時に、他のゲルマン部族の進出が加速し、地域の権力構造が大きく変動した。

 

中世スイス

スイスの地は前1世紀頃からローマ帝国の属領となり、5世紀に西ローマ帝国が滅ぶと、次はフランク王国の支配下に入りました。その後も神聖ローマ帝国ハプスブルク家と支配者は入れ替わりましたが、13世紀末にウーリ、シュビーツ、ウンターヴァルデンの3州によるスイス誓約同盟が結ばれたことで、スイス建国の基礎が築かれました。14世紀半ばにはルツェルン・チューリッヒ・グラールス・ツーク・ベルンの5州を加え、同盟は計8州に拡大しました。

 

6世紀

6世紀のスイスは、ローマ帝国崩壊後に続く混乱の中で、各民族がその影響力を強め、地域の社会構造が大きく変わっていった時代です。特に、アレマン人とブルグント人がスイスの主要な地域を支配し始め、この2つの勢力がスイスの将来に大きな影響を与えました。

 

アレマン人はスイス北部から東部にかけて広く定住し、独自のゲルマン文化を広めました。彼らは農業を基盤とする社会を築き、部族単位での自治を重視していました。一方で、西部ではブルグント人のブルグント王国が発展し、現在のジュネーブやローヌ川流域を中心に支配を確立しました。ブルグント王国は、当初は独自の法と文化を持ちながらも、次第にフランク王国との関係を強め、カトリックを受け入れました。

 

また、この時代、スイス南部にはランゴバルド人が影響を持ち、アルプスを越えてイタリア半島への進出を続けていました。これにともない、ランゴバルド人の文化や社会的影響がスイスの南部に残る一方で、ラエティ人は引き続きアルプス山脈の山岳地帯に住み続け、独自の文化を維持しました。

 

なおかつ、6世紀はフランク王国が台頭する時代でもあり、ブルグント王国はフランク王国の支配下に組み込まれ、アレマン人もフランク王国の影響を受けていきました。これにより、スイス地域はゲルマン系部族とフランク王国の文化や政治的影響が混ざり合う土地となったのです。

 

このように、6世紀のスイスはアレマン人とブルグント人を中心とした多様な文化が交錯し、フランク王国の影響が強まりつつある時代だったのです。

 

9世紀

9世紀のスイスは、フランク王国の分裂と変動の中で、大きな政治的変革を経験した時代です。この時期、スイス地域はカロリング朝のもと、フランク王国の一部として統治されていましたが、同時にその内部で新たな勢力が台頭していました。

 

特に、843年に締結されたヴェルダン条約が重要です。この条約によって、フランク王国は三分割され、スイスの領域は主にロタリンギア王国東フランク王国に分割されました。これにともない、スイス西部はロタリンギアに属し、東部は東フランク王国に組み込まれることになったのです。この分裂により、スイスは異なる政治勢力の支配下に置かれ、地域ごとに異なる文化や法制度の影響を受けるようになりました。

 

また、この時代には、ヴァイキングマジャール人といった外部からの侵入も増え、特にスイス北部や東部では防衛の必要性が高まりました。これに対抗するため、地域の貴族や教会勢力が力を持ち始め、地方分権的な統治が進んでいったのです。

 

なお、9世紀はキリスト教の影響がさらに強まった時期でもあり、修道院や教会の建設が進みました。とりわけ、ザンクト・ガレン修道院が重要な宗教・文化の中心地として発展し、学問や芸術が花開く場となったのです。

 

このように、9世紀のスイスはフランク王国の分裂と外部からの脅威の中で、政治的に変動しつつ、キリスト教が深く浸透し、文化の中心地としての役割を担った時代だったといえます。

 

841年中フランク王国・東フランク王国の支配下に

フランク王国領を三分割するヴェルダン条約が結ばれ、スイスの西部は中フランク王国に、東部は東フランク王国に支配されるようになる。

 

10世紀

10世紀のスイスは、フランク王国のさらなる分裂と地方の自立が進んだ時代でした。この時期、スイス地域は東フランク王国(後の神聖ローマ帝国)の一部となり、政治的には分権化が進み、各地の貴族や教会勢力が地域の支配を強めました。

 

特に、スイスの東部や北部では、地方領主や修道院が影響力を持ち始めます。ザンクト・ガレン修道院はその代表例で、地域の宗教的・文化的な中心地として、学問や芸術が発展しました。また、この時期、アルプスを越える交易路が重要視され、スイスはヨーロッパとイタリア半島を結ぶ戦略的要地としての役割を果たしていたのです。

 

なおかつ、10世紀後半には、神聖ローマ帝国が成立し、スイス地域はその一部としてさらに統治されるようになりました。しかし、帝国の力が強力ではなかったため、スイス地域の貴族や修道院は実質的な自治を行い、地方の権力が強まる結果となりました。

 

また、この時期は、マジャール人(ハンガリー人)の侵入が頻発し、スイス地域も襲撃を受けましたが、955年のレヒフェルトの戦いでオットー1世がマジャール人を撃退したことで、侵略の脅威は次第に弱まっていきました。

 

このように、10世紀のスイスは、地方領主や修道院が力を強める中で、神聖ローマ帝国の一部として政治的な変動を迎え、交易や宗教が発展した時代だったのです。

 

962年 神聖ローマ帝国の成立

神聖ローマ帝国が成立し、スイス地域もその影響下に置かれることとなる。オットー1世によって帝国の統治が強化され、スイス地域では封建制度が発展した。また、この時期に多くの修道院や教会が建設され、キリスト教の影響力がさらに広がった。スイスの各地方は、神聖ローマ帝国の複雑な政治体制の中で一定の自治権を保持しながらも、帝国の一部として統治された。

 

11世紀

11世紀のスイスは、神聖ローマ帝国の一部として統治されつつも、地方領主や教会勢力がさらに強まり、自治の色を強めた時代です。この時期、スイス地域では、アルプス越えの重要な交通路がますます注目され、経済的にも戦略的にもその価値が高まりました。

 

特に、ザンクト・ガレン修道院や修道院の保護を受けた都市が、地域社会で大きな役割を果たしました。これにともない、農業や交易が発展し、地域経済が成長しました。また、この時期は「封建制」が一層進展し、地方の貴族が土地を支配し、農民を統治する体制が強固になりました。

 

さらに、11世紀はヨーロッパ全体で教会改革の動きが強まった時期でもあり、スイス地域でも修道院や教会の力が増大していきました。特に、クリュニー修道院運動の影響を受け、修道院の改革や教会の権威向上が進み、教会が地域社会の中でますます影響力を強めました。

 

また、神聖ローマ帝国内では、皇帝と教皇の権力闘争が始まっており、スイスもその影響を受けました。特に、叙任権闘争と呼ばれるこの対立では、教皇と皇帝が「司教の任命権」を巡って争い、地方の教会と領主たちもその緊張に巻き込まれることになったのです。

 

このように、11世紀のスイスは、教会と封建領主の力が増し、経済や社会が発展する一方で、神聖ローマ帝国内の権力闘争に影響を受けた時代だったのです。

 

13世紀

13世紀のスイスは、ハプスブルク家が台頭し、地域への影響力を強めた時代でした。ハプスブルク家はスイスの東部や北部に領土を持ち、特にアルプス周辺で勢力を拡大していきました。この一族はスイスの貴族や都市と結びつき、徐々に地域の支配権を確立しつつありました。また、これに伴い、ハプスブルク家の影響は神聖ローマ帝国内でも大きくなり、後にこの家系がヨーロッパの主要な王朝となる基盤を築いたのです。

 

さらに、この時期はスイスにとって経済的にも重要な変化がありました。それが、ザンクト・ゴットハルト峠の開通です。この峠は、イタリアと中欧を結ぶ重要な交通路で、スイスがヨーロッパにおける交通の要衝としての地位を確立するきっかけとなりました。峠の開通により、商業や人の往来が活発化し、スイスの都市や村々はその恩恵を受けて経済的に発展したのです。とりわけ、ルツェルンやウーリといった地域は、この新しい交易路の中心地となり、重要性を増しました。

 

また、この経済発展にともない、スイス各地で自治都市や領主たちが力を強め、ハプスブルク家と対立する場面も見られるようになりました。これが後のスイス独立運動の遠因となっていくのです。

 

このように、13世紀のスイスはハプスブルク家の影響力が強まる一方で、ザンクト・ゴットハルト峠の開通により、交通の要衝として経済的発展を遂げた時代だったのです。

 

14世紀

14世紀のスイスは、ハプスブルク家との対立とスイス独立への動きが本格化した重要な時代です。また、この時期は黒死病(ペスト)の流行など、社会的な混乱も重なり、スイス地域は大きな転換点を迎えました。

 

まず、ハプスブルク家は依然としてスイス地域への支配を強めようとしていましたが、スイスの諸州はこれに抵抗します。特に、ウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの3つの州(「原初同盟」)が連携し、1291年に独立を目指す動きが始まりました。14世紀にはこの同盟が拡大し、他の地域も次第に参加していき、スイス連邦の基盤が形成されていったのです。

 

その中でも、1315年のモルガルテンの戦いが象徴的です。この戦いで、スイス同盟軍はハプスブルク家の軍を撃破し、独立への意志を強く示しました。この勝利は、スイスの自治を求める動きに弾みをつけ、14世紀を通じてハプスブルク家との対立が続くことになります。スイスはその後も自治を拡大し、最終的には独立へと向かう基盤を強化していきました。

 

一方で、この時代は黒死病がスイス地域にも襲来し、人口の多くが犠牲となりました。14世紀半ばに広がったこの疫病は、社会に甚大な被害をもたらし、農村や都市の経済が大きく停滞しました。しかし、こうした困難にもかかわらず、スイスの諸州は連携を深め、独立への歩みを止めませんでした。

 

このように、14世紀のスイスは、ハプスブルク家との対立と黒死病の混乱を経ながらも、独立へと向けた強い団結が進んだ時代だったのです。

 

1315年 モルガルテンの戦い

ハプスブルク家の支配に反抗していた、スイスのウーリ、シュヴィーツ、ウンターヴァルデンの原初同盟を、ハプスブルク家レオポルト1世率いる騎士軍が攻撃。しかし山岳地帯の不利な地形を利用したスイス同盟軍が勝利を収めた。この勝利により、スイスはその後の自治権を確立し、独立への道を進める重要な一歩となった。

 

1386年 ゼンパハの戦い

スイス農民軍によるハプスブルク家支配に対する反乱が起こされ、スイスからハプスブルク家が排除される。この戦いでスイス同盟軍はハプスブルク軍を撃退し、スイスの独立と自治を大きく進展させた。この勝利は、スイスの農民や都市の民兵が団結して強大な封建領主に立ち向かい、成功を収めた象徴的な出来事となり、その後のスイスの自由と独立を象徴する重要な歴史的転換点となった。

 

近世スイス

近世スイスは、ヨーロッパの政治的な変動の中で独自の道を歩んできました。1520年代には宗教改革がスイス各地で広がり、特にジュネーブがカルヴァン派の中心地として知られるようになりました。これにより、スイスはプロテスタントとカトリックの勢力が入り交じる複雑な宗教地図を持つことになります。また、スイスは諸州が同盟を結び、相互の独立と平和を維持する連邦主義の原型を形成しました。

 

この時期、スイスは外部の侵略から自国を守るために、しばしば傭兵を提供することで知られており、その中立政策の基礎が形成されるのです。スイスの地理的な位置と強固な軍事戦略により、国内は比較的安定しており、農業、手工業、そして次第に銀行業が発展していきました。

 

15世紀

15世紀のスイスは、ハプスブルク家との対立がさらに激化する中、スイス連邦(エイドゲノッセンシャフト)が急速に発展し、独立国家としての基盤を固めた時代です。また、この時期にはスイス傭兵がヨーロッパで名を馳せ、スイスの国際的影響力も高まりました。

 

まず、スイス連邦の重要な出来事は、ハプスブルク家との戦いです。スイスの諸州(カントン)は14世紀末から15世紀初頭にかけて連携を強化し、独立を目指す動きを加速させました。特に、シュヴィーツ、ウーリ、ウンターヴァルデンを中心とした連邦は、次々と他のカントンを巻き込み、勢力を拡大していきました。ハプスブルク家との対立は続きましたが、1446年のザンクト・ヤコブの戦いなどを経て、スイス連邦は軍事的にも優位に立ち、事実上ハプスブルク家の影響を排除していきます。

 

さらに、15世紀後半にはブルゴーニュ戦争が勃発します。スイス連邦は、当時強力な領主であったブルゴーニュ公シャルル突進公と戦い、1476年と1477年の戦いで勝利を収めました。この勝利により、スイス連邦の軍事力は広く知られるようになり、ヨーロッパ各地の君主がスイスの傭兵を雇用するようになります。これにより、スイス傭兵は一大勢力として台頭し、スイスの経済や国際的な地位を高める要因となりました。

 

なおかつ、スイス連邦の拡大は続き、15世紀末には連邦に加わる州が増え、13のカントンが形成されました。この拡大と団結が、後のスイスの独立と安定に繋がる基盤となっていったのです。

 

このように、15世紀のスイスはハプスブルク家やブルゴーニュ公との戦いを経て、スイス連邦としての独立と発展を確実にした時代だったのです。

 

1499年 シュヴァーベン戦争

ドイツのシュヴァーベン地方及びスイスのグラウビュンデン地方で、スイス同盟とハプスブルク家の武力衝突が発生。勝利したスイスはハプスブルク支配からの脱却をとげた。

 

16世紀

16世紀のスイスは、宗教改革とそれに伴う国内の対立、さらにはヨーロッパ情勢への影響力が拡大した激動の時代でした。この時期、スイスは単に独立を維持するだけでなく、宗教と政治の両面で大きな変化を迎えたのです。

 

特に重要な出来事は、宗教改革の開始です。1519年、スイスのチューリッヒでウルリッヒ・ツヴィングリがカトリック教会に対する批判を展開し、スイスにおける宗教改革が本格化しました。ツヴィングリは、ルターと同様に聖書中心の教義を主張し、チューリッヒをはじめとする都市で改革派の影響が広がりました。これにともない、スイス国内ではカトリック派と改革派(プロテスタント)の間で深刻な対立が生まれ、宗教的な分断が進行したのです。

 

この宗教的対立は、政治にも大きな影響を与えました。各カントン(州)はそれぞれカトリックか改革派のどちらを支持するかで分かれ、一部の州はプロテスタントに、他の州はカトリックに残ることを選びました。とりわけ、1531年のカッペル戦争では、ツヴィングリ率いる改革派がカトリック派と衝突し、ツヴィングリ自身が戦死する結果となりました。この戦争は、スイスの宗教的対立をさらに激化させましたが、最終的には両派が共存する体制が整えられ、スイス連邦内で宗教的な多様性が認められるようになりました。

 

また、16世紀後半には、ジュネーヴが宗教改革の中心地として特に重要な役割を果たしました。ジャン・カルヴァンがジュネーヴで改革を進め、カルヴィニズムが広がる中で、ジュネーヴは「プロテスタントのローマ」と呼ばれるようになり、ヨーロッパ全土から宗教改革の指導者や追随者が集まる場所となったのです。

 

スイスの国際的な影響力も16世紀に増大しています。スイス傭兵は依然としてヨーロッパの多くの国々で高い評価を受け、各国の君主が競ってスイス傭兵を雇用。傭兵制度は、スイスの経済にとって重要な収入源であり続けたのです。

 

このように、16世紀のスイスは「宗教改革を通じて国内が分断されながらも、最終的には共存の道を模索し、国際的な影響力も強化していった時代だった」といえますね。

 

1529年 第一次カッペル戦争の勃発

スイスにおけるカトリックとプロテスタントの間で行われた「戦争」。プロテスタントからカトリックへの宣戦布告は行われたが、実際には武力衝突にいたる前に和解した。

 

1531年 第2次カッペル戦争/カッペル協定の締結

再度カトリックとプロテスタントの対立が再燃し、第二次カッペル戦争が起こった。カッペル協定が結ばれ和約。カトリックとプロテスタント共存の体制が作られた。

 

17世紀

17世紀のスイスは、三十年戦争などヨーロッパ全体の動乱に巻き込まれつつも、最終的に中立の地位を確立し、内外の政治的安定を図った時代です。この時期、スイス連邦は宗教的・政治的な内部対立を抱えながらも、国際的には重要な地位を築いていきました。

 

まず、スイス連邦は宗教的対立を抱え続けていました。16世紀の宗教改革によって、カトリックとプロテスタントが共存する形になったものの、両派の間には緊張が残り続けました。とりわけ、各カントン(州)はそれぞれの宗教に基づいて強い自治を持っていたため、内部の政治的統一は難しく、しばしば小競り合いが起こっていました。

 

このような国内の宗教的緊張の中、スイスはヨーロッパ全体で繰り広げられた三十年戦争(1618?1648年)に対して、基本的には中立を維持しました。スイス連邦は三十年戦争に直接関与せず、周囲の混乱を避けることで、戦争による被害を回避することに成功しました。そして、1648年のヴェストファーレン条約で、スイスは事実上、神聖ローマ帝国から独立した存在として認められ、ヨーロッパにおける中立国としての地位を確立したのです。

 

この中立の地位は、スイスが後世にわたり国際的な安定を保つための重要な基盤となりました。また、戦争の混乱を避けたスイスでは、商業や金融が発展し、特にアルプス越えの交通路が重要な役割を果たしました。スイスはヨーロッパ各国と交易を続け、経済的にも成長を遂げたのです。

 

さらに、17世紀を通じて、スイス傭兵の評判は依然として高く、各国の君主がスイス兵を雇用し続けました。これにより、スイスはヨーロッパの軍事的舞台にも間接的に関与し続けていましたが、自国は中立の立場を貫くことができたのです。

 

このように、17世紀のスイスは宗教的な対立を抱えながらも、三十年戦争の混乱から中立を保ち、最終的にヨーロッパにおける独立と中立の地位を確立した時代だったのです。

 

1618年 三十年戦争の勃発

神聖ローマ帝国内でカトリックとプロテスタントの対立が頂点に達し、ヨーロッパ中を巻き込んだ宗教戦争「三十年戦争」が勃発。スイスは「武装中立」という立場をとった。

 

1648年 神聖ローマ帝国の支配から脱却

三十年戦争の講和条約であるウェストファリア条約が結ばれた。この条約の効力によりスイスは、正式に神聖ローマ帝国から独立を遂げた。

 

近代スイス

18世紀末にフランスによる侵攻を受けますが、19世紀初頭のナポレオン失脚後、ウイーン会議によりスイスの永世中立が承認されることとなりました。最初は諸州の緩やかな連合にすぎない国でしたが、19世紀半ばに連邦憲法を改正し、首都をベルンとする確固たる連邦制統一国家となりました。20世紀に起こった第一次世界大戦第二次世界大戦という2つの大戦は、ヨーロッパ全体に大打撃を与え、多くの国が消えたり、領土を失ったりしたが、スイスは中立を維持し、生き残ることができました。

 

18世紀

18世紀のスイスは、ヨーロッパ全体で繰り広げられた大きな戦争や政治的変動の中でも、中立の立場を維持し、内外の安定を保った時代でした。しかし、内部では経済的・社会的な変化が進み、フランス革命の影響を受けることになります。

 

まず、スイスはこの時期も引き続き中立政策を貫きました。ヨーロッパでは18世紀にスペイン継承戦争(1701?1714年)や七年戦争(1756?1763年)が勃発し、大国同士の争いが続いていましたが、スイス連邦はこれらの戦争に巻き込まれることなく、独自の立場を守り続けました。スイスの中立は、国際的に貿易や金融の面で有利に働き、国土は「アルプス越えの交通要所」としての重要性を維持しました。

 

また、18世紀のスイスでは、金融業と傭兵派遣が引き続き主要な経済活動として機能していました。スイスの銀行業はヨーロッパ全土で信用を得ており、ジュネーヴやチューリッヒといった都市は金融の中心地として発展しました。さらに、スイス傭兵はヨーロッパ各国で引き続き重宝され、特にフランスやナポリで雇われることが多かったのです。

 

一方で、18世紀後半には、スイス内部でも啓蒙思想が広がり、社会的な変革を求める声が上がり始めました。多くの知識人が、平等や自由を求める思想に共鳴し、特に都市部で政治改革を求める動きが活発化していきました。また、スイスは近隣のフランスで起こったフランス革命(1789年)の影響を大きく受けます。革命の理念はスイスの都市部や一部の地域にも波及し、共和制や市民の権利を求める声が高まりました。

 

なお、1798年にはフランス革命軍がスイスに侵入し、ヘルヴェティア共和国が樹立されることになりますが、これは短命に終わります。この出来事は、スイスの政治的安定に対する試練となり、19世紀初頭の大きな変革へと繋がっていくのです。

 

このように、18世紀のスイスは中立政策を維持しながらも、金融業や傭兵派遣で繁栄し、啓蒙思想とフランス革命の影響を受けて内部変革の兆しを見せ始めた時代だったのです。

 

1798年 ヘルヴェティア共和国の成立

同年3月にフランス軍がスイスに侵攻し、衛星国としてヘルヴェティア共和国の建国を宣言した。これは、フランス革命の影響を受けたもので、スイスの旧制度を廃止し、中央集権的な統治を目指した。ヘルヴェティア共和国の成立により、スイスの各州は独立した存在ではなくなり、統一された国家として再編成されたが、内紛や経済的困難が続き、安定した政権とはならなかった。

 

19世紀

19世紀のスイスは、フランス革命とナポレオン戦争の影響を強く受けながら、国内外で大きな政治的変革を経験し、最終的に現代の連邦制が確立された重要な時代でした。この期間、スイスは独立を維持しつつ、安定した国家体制を築くために多くの試練を乗り越えました。

 

まず、18世紀末、ヘルヴェティア共和国が樹立され、スイスはフランスの支配下に置かれます。この共和国は中央集権的な国家を目指しましたが、各カントン(州)の伝統的な自治を侵害したため、国内で強い反発が起こりました。さらに、ナポレオンが登場すると、スイスはナポレオンの意向に従う形で再編されましたが、1803年の調停法により、カントンの自治が部分的に回復されました。この時点で、スイス連邦は復活し、国内の安定を目指すようになります。

 

1815年のウィーン会議では、スイスの中立が国際的に承認され、スイスは独立と永世中立国の地位を得ることになります。この中立はスイスの国際的地位を確固たるものにし、以後、スイスはヨーロッパの戦争に巻き込まれず、平和と独立を維持する基盤となりました。

 

19世紀半ばには、国内でカトリックとプロテスタント、自由主義者と保守主義者の対立が激化し、分離同盟戦争(1847年)が勃発。この内戦は短期間で終結し、翌年には1848年憲法が制定されました。この憲法は、スイスを連邦制国家として確立し、強力な中央政府のもとで各カントンの自治を尊重するという体制を整えたものです。この憲法は現在のスイスの基盤となり、民主主義と連邦制の枠組みが固められました。

 

また、19世紀後半には、スイスは経済的にも発展し、特に金融業や製造業が急成長しました。鉄道や通信網が整備され、スイスはヨーロッパの重要な経済拠点としての地位を強めました。さらに、この時期に観光業も発展し、アルプスの美しい自然を目当てに訪れる外国人旅行者が増えたことが、経済成長を後押ししました。

 

このように、19世紀のスイスは、フランス革命の影響や内戦を経て、連邦制と中立国としての基盤を固め、経済的にも成長を遂げた時代だったのです。

 

1802年 ステッキ戦争の勃発

フランス支配下のスイス(ヘルヴェティア共和国)において、共和国派と連邦派による内戦に発展。連邦軍が勝利し、ヘルヴェティア共和国は解体された。

 

1803年 ナポレオン調停法の発布

フランス革命(1789年-)が起こり、ナポレオン調停法の発布によりスイスは地方自治の体制に戻った。

 

1814年 ウィーン会議

ナポレオン戦争終結後開催されたウィーン会議でスイスの独立が認められ、永世中立国として国際的に認知されるようになる。

 

1847年 分離同盟戦争

スイスでカトリック派(分離同盟)とプロテスタント派の緊張状態が頂点に達し、分離同盟戦争と呼ばれる内戦に発展。結果はカトリック派が敗北した。

 

1848年 スイス連邦の成立

分離同盟戦争の結果、スイスでは連邦制度が採択されることとなり、スイス連邦が成立した。この新しい憲法は、各州の自治を尊重しながらも、中央政府の権限を強化し、政治的安定と経済発展を促進するための基盤を築いた。これにより、スイスは統一国家としての地位を確立し、現代のスイスの政治的枠組みが形成された。この時期から、スイスは永世中立国としての立場を強調し、国際的な舞台で重要な役割を果たすようになった。

 

1850年 通貨スイス・フランの制定

スイスフランが公式通貨として導入され、経済を安定させるとともに国際取引を容易にした。これにより、スイスの中立性と経済的独立が強化された。

 

1862年 スイス・ユニオン銀行(現UBSの前身)の創業

スイス・ユニオン銀行が設立され、後に大手銀行UBSへと発展。スイスの金融産業における中心的役割を果たし、国際金融センターとしてのスイスの地位を確立した。

 

1864年 赤十字が創設

スイス・ジュネーブ出身のアンリ・デュナンが、悲惨な戦争を目にした自身の経験から、救護団体赤十字を創設した。この活動は、ソルフェリーノの戦いでの悲惨な状況を目の当たりにしたデュナンの熱意によって推進され、人道的援助の新しい基準を確立した。赤十字は、戦争や災害時における負傷者や病人への救護活動を行う国際的な団体として成長し、後に国際赤十字・赤新月運動として広がり、多くの国で人道支援活動を展開する基盤となった。

 

20世紀前半

20世紀前半のスイスは、二度の世界大戦を避けつつ、中立を維持し、国内の安定と国際的な調停役としての地位を確立する時代でした。また、政治・経済の変化や国際機関の設置など、内外で多くの動きが見られました。

 

まず、第一次世界大戦(1914?1918年)の際、スイスは中立を維持しました。戦争による被害は直接受けませんでしたが、周囲の国々が戦火に包まれる中で、物資の不足や経済的困難が発生しました。また、国内では労働者の不満が高まり、戦後の1918年にはゼネストが発生し、政治的緊張が高まりましたが、スイス政府は平和的にこれを収束させました。このストライキは、スイスにおける社会改革の契機となり、労働者の権利拡大や社会保障の整備が進行していきます。

 

一方で、スイスは国際的な役割も果たし始めました。1920年に国際連盟が設立され、その本部がスイスのジュネーヴに置かれたことで、スイスは国際的な調停の場としての役割を強めました。この国際連盟への貢献は、スイスの中立と平和外交の象徴ともなり、国際的な信頼をさらに高めたのです。

 

その後、1939年に第二次世界大戦が勃発しましたが、スイスは再び中立を維持しました。スイスは周囲を枢軸国に囲まれる状況にありましたが、軍事的準備を強化しつつ、外交的手段を駆使して侵略を回避しました。また、スイスは戦争中、難民を受け入れ、中立国としての立場から人道的支援を行いましたが、同時にナチス・ドイツとの経済的な協力関係もあったため、戦後にはその対応が批判の対象となることもありました。

 

経済的には、二度の世界大戦の間、スイスは他国との貿易に依存していたため、経済的困難もありましたが、中立を守ったことで、戦後の復興が比較的迅速に進みました。銀行業や製薬業、機械工業といった分野での発展が続き、スイスの経済基盤が強化されました。

 

このように、20世紀前半のスイスは二度の世界大戦の中で中立を維持し、国内の安定と国際的な調停役としての地位を築き上げた時代だったのです。

 

1914年 第一次世界大戦の勃発

第一次世界大戦が勃発しても、スイスは厳格な中立政策を維持し、戦後の国際関係における基盤を保持した。この中立政策により、スイスは戦闘に巻き込まれることなく、戦争難民や負傷者の避難先としての役割を果たし、国際赤十字などの人道支援活動の拠点となった。

 

1939年 第二次世界大戦の勃発

第二次世界大戦が始まり、スイスは再び中立政策を維持。戦争中、外交のハブおよび避難所として機能した。スイスは各国の間で情報交換の場となり、諸外国の利益代表を務めるなど、国際的な仲介役として重要な役割を果たした。また、多くの難民を受け入れ、人道的支援を提供し続けた。

 

現代スイス

現代スイスは、強固な経済と政治の安定が特徴です。第二次世界大戦後の中立政策を維持し、国際連合には2002年に加盟しました。金融業は依然として国の経済を支える重要な柱であり、銀行の秘密保持は厳格ですが、国際圧力により透明性が増しています。多言語国家であり、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つの公用語が使用されています。高品質の教育システムと包括的な社会保障が国民に提供されており、国際的な外交や平和促進の場としても認知されています。また、環境保護と持続可能な開発にも力を入れており、高い生活水準を享受しています。

 

20世紀後半

20世紀後半のスイスは、引き続き中立政策を維持しながら、国際的な平和調停の役割を果たし、経済的にも大きく発展した時代でした。この時期、スイスは冷戦やヨーロッパ統合の動きの中で、自らの独自性を保ちながら、国際的に重要な役割を担いました。

 

まず、冷戦の中で、スイスは中立国として両陣営(西側と東側)に対して独自の外交政策を展開しました。スイスは、軍事的な同盟には参加せず、特に国連には1970年代まで加盟しないという姿勢を貫きました。しかし、スイスは国際的な場での調停や人道的支援を行い、ジュネーヴを拠点に多くの国際会議が開催されました。スイスの中立的な立場は、冷戦下のヨーロッパで信頼を集め、特にジュネーヴは東西冷戦の交渉の場として重要視されました。

 

経済的発展も顕著で、第二次世界大戦後の高度経済成長期にスイスは国際的な金融の中心地としての地位を確立しました。特に、銀行業や製薬業、精密機械産業が世界的に注目され、チューリッヒやジュネーヴは国際的な金融都市として発展を遂げました。また、スイスは観光業でも大きな発展を見せ、アルプスの美しい景観を楽しむ観光客が世界中から訪れるようになり、経済の重要な柱となっていきました。

 

国内では、スイスの中立政策に対する議論も行われていました。特に、女性参政権の問題が大きなテーマとなり、1971年にはようやく女性に対して参政権が認められました。これによって、スイス国内の政治的平等が進み、社会的にも大きな前進を遂げたのです。

 

さらに、20世紀後半のスイスはヨーロッパ統合の動きに対しても独自の立場を保ちました。EU(欧州連合)が形成される中で、スイスは加盟を避け、独立した立場を維持し続けました。ただし、1992年に欧州経済地域(EEA)への加盟が国民投票で否決されるなど、欧州との距離を慎重に保ちながらも、経済的には欧州と密接に結びついていました。

 

このように、20世紀後半のスイスは冷戦下でも中立を維持し、経済的に大きく発展しながら、国際的な調停役としての役割を果たした時代だったのです。

 

1958年 原爆不保有を決定

スイスは核武装を行わないことを決定し、中立と平和への取り組みを強化した。この決定は、国際社会におけるスイスの立場を明確にし、核兵器の拡散防止に貢献する姿勢を示した。

 

1960年 欧州自由貿易連合に加盟

スイスは欧州自由貿易連合に加盟し、政治的中立を保ちつつ経済的な結びつきを強化した。これにより、スイスは貿易の自由化と経済成長を促進し、欧州の市場との関係を深めた。

 

1963年 欧州評議会に加盟

欧州評議会への加盟により、スイスは中立を保ちながらも、より広い大陸の政策議論に参加するようになった。これにより、スイスは人権、民主主義、法の支配といった欧州の共通価値を支持し、地域の安定と協力に貢献することを目指した。

 

21世紀

21世紀のスイスは、引き続き中立政策を維持しながらも、国際社会での役割を広げ、国内では政治・経済・社会の変化に適応してきた時代です。環境問題やグローバル経済、国際的な安全保障など、さまざまな課題に直面しつつも、スイスは独自の立場を守り続けています。

 

まず、スイスは国際的な中立国としての役割をさらに強化し、多くの国際機関の本部が置かれる場所として、外交や人道支援で重要な役割を果たしています。特に、ジュネーヴには国連の欧州本部や国際赤十字などが存在し、スイスは世界の調停役としての地位を維持しています。また、スイスは中立国でありながらも、テロや国際犯罪への対応、そして環境保護や気候変動問題など、グローバルな課題に対して積極的に関与しています。

 

EUとの関係についても、スイスは21世紀に入ってからも独自の道を歩んできました。スイスはEUには加盟していませんが、二国間協定を通じてEUとの経済的なつながりを維持しています。この関係は特に貿易や人の移動において重要であり、スイス経済はEU市場に深く依存しています。とはいえ、スイスは国民投票によってEU加盟を繰り返し否定し、政治的な独立性を守ってきました。

 

国内では、移民問題や多様性の受容が大きな課題となっています。21世紀に入ると、スイス社会はますます多文化化し、移民が増加しましたが、これに伴う社会的な緊張も高まりました。特に、移民制限を求める国民投票が行われるなど、スイス国民の間で移民政策に対する議論が活発化しています。しかし、経済的には移民の労働力が必要であるため、バランスを取る政策が模索され続けています。

 

また、スイスは21世紀においても金融大国としての地位を維持していますが、国際的な圧力により、銀行の機密保持を巡る問題が浮上しました。特に脱税やマネーロンダリングに対する国際的な規制強化の中で、スイスは銀行の透明性を高める改革を進めてきました。

 

気候変動への対応もスイスの重要なテーマです。アルプスの氷河が急速に溶け始め、観光業や水資源に影響が出る中で、スイス政府は気候変動対策を積極的に進めています。特に、再生可能エネルギーの導入温室効果ガス削減に向けた政策が進行中です。

 

このように、21世紀のスイスは中立政策を堅持しつつ、EUとの関係や移民問題、気候変動といった国内外の課題に向き合いながら、国際社会における独自の立場を維持しているのです。

 

2002年 国際連合に加盟

2002年、スイスは国際連合に加盟し、国際外交や多国間協力における役割を公式化した。この加盟により、スイスは国際的な課題に対する貢献を強化し、平和と安全、開発、人権などの分野で積極的な役割を果たすことを目指した。加盟後、スイスは中立国としての立場を維持しつつ、国際社会における信頼されるパートナーとしての地位を確立した。

 

スイスの加盟が遅れた理由

 

スイスの国際連合(国連)への加盟が遅れた理由は複数の要因によります。以下にその主な理由を挙げます。

 

  • 永世中立政策:スイスは1815年のウィーン会議以来、永世中立国としての立場を維持してきました。国連加盟がこの中立政策に影響を与える可能性を懸念し、加盟を避けていました。特に、国連の平和維持活動や制裁措置への参加が中立性を損なうと考えられていたためです。
  • 主権と独立の維持:スイスは自国の主権と独立を非常に重視しており、国連への加盟が内政干渉のリスクを伴うと懸念していました。特に、国連の決議や義務がスイスの自主的な政策決定に影響を与える可能性があることが心配されました。
  • 国内の世論:スイス国内では長年にわたり国連加盟に対する反対意見が強く、国民投票でも加盟は否決されてきました。特に冷戦時代には、国連が西側諸国とソビエト連邦の対立の舞台となっていたため、中立を保つための非加盟が支持されていました。
  • 中立の役割:スイスは国際紛争の仲介や人道支援の提供など、中立国としての役割を果たしてきました。国連加盟がその中立的な立場に対する信頼を損なう可能性があると考えられていたため、慎重な姿勢を取っていました。
  • 国連の改革と動向:スイスは国連の改革が進むまで加盟を躊躇していました。特に国連の効率性や透明性に対する懸念があり、これらの問題が解決されるまで待つべきだとの意見がありました。

 

これらの要因が重なり、スイスの国連加盟は遅れることとなりました。しかし、1990年代以降の国際情勢の変化や国連の役割の再評価、国内の支持の高まりなどを背景に、2002年に国民投票で加盟が承認され、正式に国連の一員となりました。

 

2005年 シェンゲン協定とダブリン規約への加盟

スイスはシェンゲン協定およびダブリン規約に加盟し、欧州連合(EU)との協力を深める。

 

2008年 金融危機の影響

グローバルな金融危機がスイス経済に影響を及ぼし、銀行業界にも大きな打撃を与えた。

 

2009年 UBSの政府支援

スイス政府は金融危機の影響を受けたUBS(ユニオン・バンク・オブ・スイス)を救済するための支援を実施した。

 

2010年 銀行秘密法の改革

国際的な圧力により、スイスは銀行秘密法を緩和し、税逃れの防止と国際的な透明性の向上を目指す。

 

2014年 移民制限の国民投票

スイスの有権者はEUからの移民を制限する提案を僅差で承認し、EUとの関係に緊張をもたらす。

 

2015年 フランショック

スイス国立銀行がスイスフランの対ユーロ上限を撤廃し、スイスフランが急騰。輸出業や観光業に大きな影響を与えた。

 

2016年 パナマ文書の公開

スイスの金融機関がパナマ文書に関与していることが明らかになり、国際的な注目を浴びた。

 

2017年 エネルギー政策の改革

スイスは再生可能エネルギーへの移行を目指し、原子力発電を段階的に廃止する政策を採択した。

 

2020年 COVID-19パンデミック

スイスも新型コロナウイルスのパンデミックに直面し、ロックダウンや経済対策を実施した。

 

2021年 ワクチン接種の推進

スイスはCOVID-19ワクチン接種を全国的に推進し、パンデミック収束に向けた取り組みを強化した。

 

2022年 ウクライナ戦争の影響

ロシアのウクライナ侵攻に対する国際的な制裁やエネルギー価格の上昇がスイス経済に影響を与えた。

 

古代から現代にかけてのスイスの歴史を総括すると、スイスは多様な民族と文化の交差点として発展してきました。古代にはケルト民族やローマ帝国の影響を受け、中世には独立した都市国家が形成されました。1291年にはスイス連邦の原型となる永久同盟が結ばれ、中立国としての立場を固めていきました。近世から近代にかけては、宗教改革の影響を受けながらも、政治的には中立を保ち続け、第一次世界大戦と第二次世界大戦を通じて非戦を維持しました。戦後、スイスは経済的にも発展し、銀行業や時計製造業などが国際的に認知されるようになりました。また、国際平和と協調を支える重要な役割を担い、国際連合などの国際機関に加盟しています。高度な教育制度と政治の安定が、現代スイスの特徴となっています。