東ローマ帝国と西ローマ帝国の違いは?

赤色領域:西ローマ帝国 青色領域:東ローマ帝国

 

西暦395年、当時のローマ帝国テオドシウス帝が亡くなる際に広大な領地を2人の息子に東西で分けて統治するように伝えました。その結果、東ローマ帝国と西ローマ帝国が誕生しました。ここでは、それぞれ異なった歴史を歩んできた東ローマ帝国と西ローマ帝国の違いについて簡潔に解説していきます。

 

 

西ローマ帝国とは

ローマ帝国の分裂により、国教であるキリスト教のトップの教皇も東西で別れました。そして、西ローマ教皇は「教皇の絶対性」を主張し、皇帝と同等の位置付けとなりました。

 

絶対的な地位で無くなった皇帝は軍事面においても影響力は弱く、西暦476年に軍人のオドアケルがクーデターを起こし、西ローマ帝国の皇帝は廃位となりました。この皇帝廃位をもって、西ローマ帝国は滅亡とされます。

 

東ローマ帝国とは

一方の東ローマ帝国は西暦1453年にオスマン帝国が首都コンスタンティノープルを陥落するまで約1000年存続しました。その間に14の王朝と90人以上の皇帝が存在しました。

 

東ローマ帝国は政治体制に特徴があった他、ギリシア・ローマ文化と東方文化の要素を交えたビザンツ様式を確立させたり、ギリシア正教の布教を行うなど独自の文化圏を形成して行き、大きな影響を残しました。

 

西ローマ帝国と東ローマ帝国の違い

政治的および行政的な違い

西ローマ帝国は、ローマを首都とし、ゲルマン民族の侵入によって476年に滅亡しました。対照的に、東ローマ帝国、後にビザンツ帝国として知られるようになったこの帝国は、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)を首都とし、1453年まで存続しました。東ローマ帝国は、より集権的な行政構造を持ち、統治体系も高度に発展していました。

 

文化的および言語的な違い

文化的な面では、西ローマ帝国がラテン語を公用語とし、ローマの伝統を重んじていたのに対し、東ローマ帝国ではギリシャ語が公用語となり、ヘレニズム文化の影響が強かったです。また、東ローマ帝国はビザンツ美術という独自の芸術様式を発展させ、宗教画やモザイクが特徴的です。

 

宗教的な違い

宗教においては、西ローマ帝国がローマ・カトリック教会の影響下にあり、教皇を中心とした組織が形成されていました。一方、東ローマ帝国では正教会が主流であり、コンスタンティノープルの総主教が重要な役割を果たしていました。この宗教的分裂は、1054年の大分裂によってさらに深まりました。

 

東ローマ帝国と西ローマ帝国は、政治的、文化的、宗教的な面で明確な違いを持っていました。これらの違いは、それぞれの帝国が歴史の中で辿った道のりを理解する上で重要であり、後のヨーロッパ文化や政治の発展に大きな影響を与えました。