アルメニアの国旗
アルメニアの国土
アルメニア(正式名称アルメニア共和国)は東ヨーロッパ(もしくは西アジア)の 南コーカサスに位置する共和制国家です。国土が 小コーカサス山脈とアルメニア高地で構成された内陸国で、気候は 低地ではステップ気候、高地では亜寒帯湿潤気候が支配的です。首都は前7世紀以来の古都で、バラ色の石造建築物が多いことで知られるエレバン。
この国ではとくに 工業が発達しており、中でも機械(電気機器や自動車など)・化学(クロロプレンやアセテートなど)の生産がさかんです。また国内に多数点在する鉱床を背景にした金・銀・銅などの生産もこの国の重要産業となっています。
そんな アルメニアの歴史は、前9世紀アルメニアの地を中心に成立したウラルトゥ王国の時代まで遡ることができます。前6世紀にウラルトゥが滅ぶとアルメニア人の定住が始まり、前2世紀にアルメニア王国が誕生しました。アルメニア王国は前1世紀にローマの支配下を受けるようになり、301年には史上初めてキリスト教を国教にした国家となりました。中世以降はモンゴル帝国、トルコ民族のセルジューク朝、オスマン帝国の支配を経て、19世紀に大半がロシアに併合。20世紀にはロシア革命を経て成立したソ連に参加します。そして長い社会主義時代を過ごしたのちに、1991年アルメニア共和国としてソ連から独立を宣言して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなアルメニアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
古代アルメニアは、地理的に南コーカサス地域の高原に位置し、西はアナトリア、東はカスピ海に接する戦略的要地でした。紀元前6世紀にアケメネス朝ペルシアの一部となり、後にアレクサンドロス大王の支配を経てセレウコス朝の影響下に入りました。紀元前188年にはアルタクシアス朝アルメニア王国が成立し、グレコローマンの文化が影響を与えながらも、独自のアルメニア文化を花開かせました。特に宗教面では、301年にキリスト教を国教として採用し、世界で最初のキリスト教国家となったことで知られています。アルメニアはその後もローマ帝国やササン朝ペルシアの間で緩衝地帯としての役割を果たし、多様な文化的影響を受けながら独自のアイデンティティを保ち続けました。
前860年頃、アラマによってウラルトゥ王国が建国された。この王国はナイリの諸部族を統一し、アルメニア高原の全域を支配したことで知られる。ウラルトゥ王国はアルメニアの原型とされ、その文化や社会構造は後のアルメニア文化に大きな影響を与えた。ウラルトゥは強固な要塞システム、進んだ農業技術、そして独特のアートスタイルで知られる。
ウラルトゥ王国の時代に、アラクス川流域に砦が築かれ、これが現在のアルメニアの首都エレバン(エレブニ)の原型となった。エレブニは戦略的に重要な位置にあり、交易や軍事の拠点として機能した。この砦の建設はウラルトゥ王国の政治的・軍事的な力の象徴とされる。
前6世紀頃からウラルトゥ王国は衰退を始めた。これは外部からの圧力、特にメディア人やスキタイの攻撃によるものだった。王国の衰退は地域の政治的構造に大きな変化をもたらし、その後のアルメニア地域の歴史に影響を与えた。
前550年頃、ペルシャのアケメネス朝がオリエント世界全域に勢力を拡大した。この時、アルメニア地域もアケメネス朝の支配下に入った。アケメネス朝の支配はアルメニア地域の政治、文化、宗教に大きな影響を与え、アルメニア史の重要な時期となった。ペルシャ文化の影響はアルメニアの社会構造や行政システムにも見られ、その後のアルメニアの歴史において重要な役割を果たした。
アレクサンドロス大王率いるマケドニア軍が、東方遠征の一環としてペルシアに進出。ダレイオス3世率いるペルシア軍を破り、以後アルメニア一帯はマケドニア王国の支配下に入った。
アルタクシアス朝により、史上初めてのアルメニア人による独立国家アルメニア王国が建設される。同王国は「大帝」ティグラネス2世(在位:前95年頃 - 前55年)の治世で全盛期を迎えた。
前95年、ティグラネス2世がアルメニア王に即位した。彼の治世はアルメニアの歴史上、特に重要であり、彼は「ティグラネス大王」として知られている。ティグラネス2世はアルメニアを拡大し、一時期は中東の主要な勢力として隆盛を極めた。彼の統治下でアルメニアは経済的、文化的に発展し、その影響力はシリアやレバント地域にまで及んだ。
前69年、ティグラネス大王のアルメニアはティグラノケルタの戦いでローマ軍に大敗。この敗北により、ティグラネス2世は建国以来獲得した多くの領土を失い、アルメニアの勢力は大きく後退した。この敗北後、アルメニアはパルティアとローマ帝国の間の緩衝地帯としての役割に追い込まれ、その政治的自立性は大きく制限された。
66年、パルティアのアルサケス家がアルメニアの王位を継承し、アルサケス朝アルメニア王国が成立した。これにより、アルメニアはパルティアの影響下に入り、後にサーサーン朝ペルシャの影響を受けることになった。アルサケス朝アルメニアは、地域の大国間の政治的なバランスの中で存続した。
アルメニア王ティリダテス3世によりキリスト教がアルメニアの国教となる。ローマのキリスト教国教化の79年前の出来事であり、アルメニアは世界初のキリスト教国家となった。
ティリダテス没後のアルメニアは政治的混乱に陥り、その隙を突いたローマとペルシアにより、アルメニア一帯は分割支配(ローマ領アルメニアとペルシア領アルメニアに分裂)されることとなった。
405年、聖メスロプ・マシュトツによってアルメニア文字が発明された。この文字はギリシア文字を基にして創られたとされ、アルメニア文化とアイデンティティの重要な部分となった。アルメニア文字の発明は、アルメニア文学、宗教、文化の発展に重要な役割を果たした。
カルケドン公会議の結果、アルメニアの宗派は非主流派となり、「アルメニア使徒教会」の成立に繋がった。
中世アルメニアは、地政学的な位置から多くの外敵にさらされる時期でした。7世紀から9世紀にかけて、アラブのウマイヤ朝およびアッバース朝の支配を受け、イスラムの影響が広がりました。しかしアルメニアのキリスト教コミュニティは、ビザンツ帝国との関係を通じて強固に保たれました。10世紀にバグラトゥニ朝(885年創立)が独立王国を再興し、文化的な黄金時代を迎え、多くの教会や修道院が建設されました。
しかし、その後のセルジューク、モンゴル、ティムールの侵攻により、アルメニアは再び外部勢力の支配を受けることとなりました。これらの侵入によってアルメニアは政治的に分裂し、多くのアルメニア人が安全な地を求めて移動することになり、ディアスポラの形成につながりました。中世のアルメニアは、外部からの圧力に抗しながらも、その独自の文化と宗教を保持し続ける地域でした。
東ローマ皇帝ユスティアヌスが、東ローマ領アルメニアにおける行政職を全て撤廃。国境を要塞化し、ペルシア領アルメニアとの交流の一切を遮断した。
東ローマ帝国の縮小やアルメニア公の外交努力により、387年以来のアルメニアの東西分裂状況が解消された。
アラブ・東ローマ戦争の結果、ウマイヤ朝によるアルメニア支配が確立された。
アッバース革命によりウマイヤ朝が滅び、アルメニアは新たに創建されたアッバース朝の支配下に入った。アッバース朝治世下において、アルメニアには自治権や信教の自由が認められ、農業と交易により栄えるようになった。
8世紀後半以降、バグラトゥニ家が新たなアルメニアの支配層としての地位を固める。そして885年にはアッバース朝から独立し、バグラトゥニ朝アルメニアを成立させた。
東ローマ皇帝バシレイオス2世により、バグラトゥニ朝アルメニア王カギク2世が廃位させられ、アルメニア王国は崩壊する。
マラズギルトの戦いで東ローマに勝利したセルジューク朝がアルメニアの支配を確立させる。マリク・シャー治世のもと、商業や芸術の振興、インフラ整備などが推進された結果、アルメニア経済は発展をみることとなった。
セルジューク朝が滅ぶと、ホラズム・シャー朝が勃興し、モンゴル帝国に滅ぼされるまでアルメニアの支配者として君臨した。
東ローマ帝国によりキリキアに送り込まれたアルメニア人により、キリキア・アルメニア王国が建国される。アルメニア本国がトルコ人に侵略された際は、大勢のアルメニア人がキリキアに亡命した。マルムーク朝の侵略により1375年滅亡。
中央アジアよりモンゴル帝国の軍団が襲来し、アルメニアはモンゴル帝国地方政権イルハン朝の支配下に入った。
エジプトを中心としたイスラム王朝・マルムーク朝の占領を受け、キリキア・アルメニア王国が滅亡する。
近代アルメニアは、激動の時代を経てきました。19世紀にはオスマン帝国とロシア帝国の間でアルメニア人居住地域が分割され、アルメニア人は両大国の支配下に置かれました。ロシア支配下のアルメニアでは教育や文化が発展し、民族意識が高まりましたが、オスマン帝国下ではアルメニア人は迫害と抑圧に直面しました。特に20世紀初頭のアルメニア人虐殺(1915-1917年)は、100万人以上のアルメニア人が殺害された悲劇的な出来事です。
第一次世界大戦後、アルメニアは短期間の独立を果たしましたが、1920年にはソビエト連邦に編入され、アルメニア・ソビエト社会主義共和国が成立しました。ソ連時代には、工業化と教育の普及が進みましたが、宗教や伝統文化への弾圧もありました。1991年のソ連崩壊後、アルメニアは再び独立を宣言し、独立国家として新たな歩みを始めました。
第二次ロシア・ペルシア戦争の講和条約・トルコマンチャーイ条約により、ペルシア領アルメニアがロシア帝国に併合される。
フランスにおける二月革命に端を発し、西ヨーロッパ全域でナショナリズムの高揚および民主化運動が活発化する。その動きはアルメニアにも波及し、民族解放思想が育つようになった。
1848年革命以降過熱していた民族解放運動を鎮圧する過程で、オスマン帝国によるアルメニア人虐殺事件が発生する。いまだに論争の的になる事件だが、オスマン帝国の計画的かつ組織的なジェノサイドであったとする説が有力。
アルメニア人はオスマン帝国で少数派であり、差別や迫害に直面していた。そんな中でアルメニア人がトルコ東部のヴァン市を中心に武装蜂起し、オスマン帝国軍との間で激しい戦闘が発生した。反乱は一時的に成功し、アルメニア人による自治が実現したが、これはオスマン政府によるアルメニア人への更なる弾圧の引き金となった。
ヴァンの反乱を受け、政府はアルメニア人を「国家の敵」と見なし、強制移住、虐殺、飢餓、病気などを通じてアルメニア人のコミュニティを破壊した。推定で100万人以上のアルメニア人が命を落としたこの事件は「アルメニア人虐殺」として知られ、20世紀最初の大規模なジェノサイドの一つとされています。多くの国がこの虐殺をジェノサイドと認識していますが、トルコはこれを否定しており、国際的な論争の対象となっています。
トルコが「ジェノサイド」と認めない理由
トルコがアルメニア人虐殺をジェノサイドと認めない理由は複数あります。主な理由は以下の通りです:
これらの理由により、トルコはアルメニア人虐殺をジェノサイドとして認めることに対して強い抵抗を示しています。この問題は歴史的、法的、政治的、そして外交的な複雑さを含んでおり、簡単に解決できるものではありません。
ロシア革命後、ザカフカース民主連邦共和国の崩壊にともないアルメニア第一共和国が成立した。
アルメニア共和国政府が打倒され、ソビエト政権の樹立が宣言されるとともに、アルメニア・ソビエト社会主義共和国が成立した。
ロシア内戦に打ち勝った共産主義勢力によりソビエト連邦が結成され、アルメニアソビエト社会主義共和国もそれに加わった。
1988年のスムガイト暴動は、ソビエト連邦末期のアゼルバイジャンSSRのスムガイト市で起きた民族衝突。ナゴルノ・カラバフ自治州のアルメニアSSRへの併合要求に続いて発生したこの暴動では、アゼルバイジャン人の群衆がアルメニア人に対して暴力を行使した。多数のアルメニア人が殺害され、家屋が略奪・破壊されたこの事件はソビエト連邦の民族問題の深刻さを象徴し、アゼルバイジャンとアルメニア間の緊張を一層高めることとなった。
アゼルバイジャンとの間で、ナゴルノ・カラバフ自治州を巡る武力衝突が勃発。住民の8割がアルメニア系のナゴルノ・カラバフ自治州が、アゼルバイジャンからの独立(アルツァフ共和国の建国)を宣言したことがきっかけとなった。決着がつかないまま1994年停戦が成立。
1991年にソビエト連邦から独立したアルメニアは、初期の政治的不安定さを乗り越えて、民主的な体制を築きました。しかし、ナゴルノ・カラバフ地域を巡るアゼルバイジャンとの紛争は継続し、1994年の停戦にもかかわらず時折衝突が再燃しています。経済的には、アルメニアは投資や技術の発展に努めており、特に情報技術分野で進展を遂げています。そして国際的には、ロシア、ヨーロッパ、近隣諸国との関係を重視するようになりました。
ソ連からの独立を宣言し、現在に続くアルメニア共和国(第二共和制)が成立した。この独立はソ連の崩壊という歴史的転換点において、アルメニア人民の民族自決の成果とされる。独立後、アルメニアは民主的な政治体制の構築を進め、国際社会における独自の地位を確立し始めた。
1991年、ナゴルノ・カラバフ地域のアルメニア人住民は、アゼルバイジャンSSRからの分離と独立を宣言し、アルツァフ共和国(後のナゴルノ・カラバフ共和国)を成立させました。この動きは、ナゴルノ・カラバフ地域における民族緊張とアルメニア人の自治権獲得への長期的な闘争の結果でした。しかし、この宣言はアゼルバイジャンとの間で激しい武力衝突を引き起こし、後にナゴルノ・カラバフ戦争へと発展しました。
1999年10月27日、アルメニアの議会で銃撃事件が発生。この事件で当時の首相ヴァジェン・サルキシャンを含む数名の政治家が暗殺。この事件はアルメニアの政治史において衝撃的な出来事であり、政治的不安定さの象徴とされる。事件の動機は複雑であり、政治的な対立、個人的な恨み、国内の不安定な政治状況などが絡み合っているとされる。
2020年、長年の緊張が再び表面化し、アゼルバイジャンとアルメニアの間でナゴルノ・カラバフ地域を巡る戦闘が再発。この紛争は約1か月半続き、アルメニアはナゴルノ・カラバフの大部分を失った。この戦争はロシアの仲介による停戦協定で終結したが、アルメニアにとっては事実上の敗北となった。この紛争は数千人の死者を出し、両国の間の緊張を一層高める結果となった。
アルメニアの歴史は、古代から現代にかけて多くの変遷を経てきました。古代には、アケメネス朝ペルシア、アレクサンドロス大王、セレウコス朝の支配を受けた後、アルタクシアス朝が独立し、紀元301年には世界初のキリスト教国となりました。中世には、アラブのウマイヤ朝、セルジューク朝、モンゴル帝国など外部勢力の侵入を受けながらも、バグラトゥニ朝の時代には文化的な黄金期を迎えました。近代にはオスマン帝国とロシア帝国の間で分割され、特にオスマン帝国下では1915年のアルメニア人虐殺という悲劇に見舞われました。第一次世界大戦後、一時的に独立を果たすも、1920年にソビエト連邦に編入されました。1991年のソ連崩壊により再び独立し、現在は独立国家として新たな歩みを進めています。アルメニアはその長い歴史の中で、多くの文化的、宗教的影響を受けながらも、独自のアイデンティティを保ち続けています。
|
|
|
|