ブルガリアの歴史年表

ブルガリアの国旗

 

ブルガリアの国土

 

年代 出来事 時代
前6世紀頃 ギリシア人が黒海沿岸に植民市を建設 古代
前1世紀 ローマ帝国がトラキア地方を支配 古代
395年 東ローマ帝国(ビザンツ)の支配下に入る 古代末期
681年 第一次ブルガリア帝国が建国され東ローマと対峙 中世
864年 キリスト教を国教として受容 中世
1018年 東ローマ帝国が第一次帝国を征服 中世
1185年 第二次ブルガリア帝国が独立 中世
1396年 オスマン帝国が完全征服 中世末期
1878年 露土戦争後、ブルガリア公国として自治承認(ベルリン会議) 近代
1908年 完全独立を宣言しブルガリア王国となる 近代
1912〜1913年 バルカン戦争に参加、領土拡大と縮小を経験 近代
1915〜1918年 第一次世界大戦で敗北、王国体制維持 近代
1941〜1944年 枢軸国側で第二次世界大戦に参戦 近代
1946年 君主制廃止、ブルガリア人民共和国成立 近代
1989年 共産党政権崩壊、民主化へ 現代
2004年 NATO加盟 現代
2007年 EU加盟 現代

 

ブルガリアの歴史詳細

ブルガリア(正式名称:ブルガリア共和国)は、東ヨーロッパの ルーマニアセルビア北マケドニア・ギリシャ・トルコと隣接し、バルカン半島に位置する 共和制国家です。国土は 1/3を占める山岳地帯と、平原地帯で構成され、気候区は 北部が湿潤大陸性気候、南部が温暖湿潤気候に属しています。首都は ヨーロッパ最古の都市の一つとして知られるソフィア

 

この国ではとくに 製造業が発達しており、中でも0 加工食品や化学製品、繊維・アパレル製品の生産がさかんです。また外資企業の参入を背景にした不動産や金融などサービス業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんな ブルガリアの歴史は、7世紀にに建設された第1次ブルガリア帝国から始まるといえます。第1次ブルガリア帝国は、11世紀に東ローマ帝国領となるも、12世紀に第2次ブルガリア帝国として再独立。しかし14世紀末オスマン帝国に占領され、以後5世紀に渡り服従を強いられることになりました。1908年にはフェルディナンド1世の尽力でブルガリア王国として再独立しますが、1944年にはソ連の侵攻を受けソ連の衛星国家に。戦後は一党独裁の共産主義政権の支配が続きますが、1989年の東欧革命で共産党政権が崩壊。まもなく民主的な新憲法が採択されて現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなブルガリアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

ブルガリアの歴史年表

 

古代ブルガリア

古代ギリシア時代、現在のブルガリアをふくむバルカン半島南東部の地域は「トラキア」と呼ばれ、トラキア人による文化が栄えていました。とくにブルガリア領内からは、多くのトラキア時代の遺跡・金細工などが発掘されており、その精巧な造形から、かなり高度な文明を築いていたことがわかっています。

 

前6世紀

前6世紀のブルガリア地域は、トラキア人と呼ばれる部族が住んでいた時代です。トラキア人は、現在のブルガリアを中心に広がるエリアに定住しており、彼らの文化や社会は独自の発展を遂げていました。ギリシャやペルシャなどの強力な文明との接触が増えてきた時期でもあり、文化にもその影響が見られるようになります。

 

また、前6世紀は、古代ギリシャの植民都市が黒海沿岸に設立された時期でもあります。ギリシャの都市国家(ポリス)は、貿易の拡大や経済的な利益を求めて、トラキアの地にも目を向け、黒海沿岸にいくつかの植民地を建設しました。こうしたギリシャの影響は、トラキア人の生活様式や宗教にも少なからず変化をもたらします。

 

そして、この地域には強力なトラキア王国が形成されつつありましたが、統一された国家というよりは、複数の部族がそれぞれの首長のもとで統治されていたことが特徴です。彼らは農業を基盤にしていましたが、戦士としての名声も高く、周辺地域への影響力も拡大していきます。しかし前6世紀末には、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世に征服されました。

 

このように、前6世紀のブルガリアはトラキア人が主導する文化圏であり、外部の文明との接触を通じて徐々に変化しつつある時代だったといえます。

 

前5世紀

紀元前5世紀のブルガリア地域は、トラキア人が引き続き主導する時代でした。トラキアはこの時期、周辺のギリシャやペルシャといった大国の影響を強く受けながらも、独自の文化と社会構造を維持していました。とりわけ、紀元前5世紀中頃には、強力なトラキア王国が登場し、その中でも特に有名なのがオドリュサイ王国です。この王国は、ギリシャ世界との交流や戦争を通じて勢力を拡大していきました。

 

また、この時代は、ギリシャのペロポネソス戦争(紀元前431年〜404年)の影響も受けた時期です。ギリシャの都市国家が内紛を起こしている間、トラキアはしばしば傭兵や戦略的な拠点として利用されました。とりわけアテネやスパルタといった勢力がトラキア地域に目を向け、資源や軍事的支援を求めて接触を図るようになり、同時にトラキア人の戦士としての評判はさらに高まっていくのです。

 

また前世紀の末からアケメネス朝ペルシャは、一時的にトラキアの一部を支配下に置きましたが、トラキア人は独自の自治を維持し続けていました。そして、ペルシャの影響力が薄れると、トラキアの部族たちは再び独立性を強め、オドリュサイ王国の支配領域も大きく広がっていったのです。

 

このように、紀元前5世紀のブルガリア地域は、トラキア人が外部勢力の影響を受けつつも、独自の文化と政治的独立を保っていた時代だといえます。

 

前480年頃 オドリュサイ王国の成立

ブルガリアを中心にルーマニア南東部、ギリシャ北部、トルコ北西部にまたがる地域に、トラキア人諸部族を統合した連合国オドリュサイ王国が成立する。

 

前4世紀

紀元前4世紀のブルガリア地域では、引き続きトラキア人が大きな影響力を持っていましたが、この時代は大きな変化が訪れる時期でもありました。特にオドリュサイ王国は依然として強力な王国として存在していましたが、内紛や外部の脅威によって徐々に弱体化していきます。

 

また、この時期に最も注目されるのは、マケドニア王国の影響力の拡大です。紀元前4世紀半ば、フィリッポス2世がマケドニア王となり、トラキアを含むバルカン半島全体に勢力を拡大しました。これにともない、トラキア人はマケドニアの支配下に置かれることとなります。フィリッポス2世は、トラキアの部族を従えるだけでなく、そこから資源や軍事力を引き出して、自らの軍事力を強化しました。

 

さらに、フィリッポス2世の息子であるアレクサンドロス大王が紀元前336年に父の跡を継ぐと、トラキアも彼の遠征計画の一部となります。アレクサンドロス大王の東方遠征には、トラキア人の戦士たちも従軍し、彼の軍事活動を支えました。しかし、この遠征によってトラキアの地方統治はさらに不安定となり、次第にマケドニアの一部として組み込まれていくことになります。

 

このように、紀元前4世紀のブルガリア地域は、オドリュサイ王国の衰退とともに、マケドニアの台頭が地域情勢に大きな影響を与えた時代だったのです。

 

前3世紀

紀元前3世紀のブルガリア地域では、ケルト人による国家の建設が大きな出来事として注目されます。このケルト人はガリアからバルカン半島へ進出してきた一派で、トラキア人が暮らしていた地域の中央部に国家を築きました。ケルト人は、バルカンの地元文化に大きな影響を与え、特に高度な金属加工技術をもたらしたことで、地域経済を活性化させたのです。

 

また、ケルト人とトラキア人の間では文化的な交流も盛んに行われており、これにより地域全体の発展が促進されました。ケルト人の信仰や習慣もトラキアの人々に影響を与え、土着の文化と融合していきました。これにともない、彼らの宗教儀式やアートスタイルも徐々に取り入れられ、ブルガリアの文化的遺産の一部として今日まで続いています。

 

さらに、ケルト人がもたらした影響は、単なる経済や技術だけにとどまりません。彼らの国家は、トラキア地域の政治や軍事にも深く関わり、その後の歴史においてもケルトの存在がしばしば見られることとなります。

 

このように、紀元前3世紀のブルガリア地域は、ケルト人の進出によって技術的・文化的に大きな変化を遂げた時代だったのです。

 

前2世紀

紀元前2世紀のブルガリア地域では、オドリュサイ諸王国が共和政ローマの支配下に入るという重要な出来事が起こりました。ローマはこの地域に進出し、オドリュサイ諸王国を徐々に従属させていきました。これにともない、ローマの統治制度や法律が導入され、地域の安定と発展が促進されることになります。

 

また、ローマの支配によってインフラ整備が進み、道路や港湾などの交通網が整えられたことで、交易がさらに活発化しました。この結果、ブルガリア地域はローマ帝国内の重要な交易ルートの一部となり、経済的に繁栄しました。特にローマの貨幣制度や物流の効率化は、地域経済に大きな影響を与えたのです。

 

さらに、ローマ文化が広がる中で、地元のトラキア文化との融合が進みました。ローマの都市建設や公共事業により、この地域は次第にローマ化が進んでいき、政治的にもローマの一部としての役割を担うようになります。

 

このように、紀元前2世紀のブルガリア地域は、ローマの支配によって統治制度やインフラが整備され、交易や経済が発展した時代だったのです。

 

前1世紀

紀元前1世紀のブルガリア地域では、オドリュサイ諸王国が一時的に独立を回復するという大きな出来事がありました。この時期、ローマの支配が一時的に弱まったことを背景に、オドリュサイ諸王国は再び自治を得ることに成功しました。しかし、ローマの影響力は依然として強く、完全な独立を維持することは困難でした。

 

この独立回復は、主に地元のトラキア貴族たちによるものでしたが、彼らの統治は不安定で、内部の対立や外部勢力の干渉が続いていました。特にローマとの関係においては、形式的な独立を保ちながらも、ローマの指示や圧力に従わざるを得ない状況が多かったのです。

 

また、ローマの経済的影響は依然として強く、交易やインフラの面でローマの制度や技術が広がり続けました。地域の商業活動はローマの需要に応える形で発展しましたが、その一方で、政治的安定には限界があり、頻繁に反乱や対立が起こっていました。

 

このように、紀元前1世紀のブルガリア地域では、オドリュサイ諸王国が独立を回復したものの、ローマの影響力を完全に排除することはできず、政治的安定が揺らぐ時代だったのです。

 

1世紀

1世紀のブルガリア地域では、ローマ帝国の直接支配が完全に確立しました。オドリュサイ諸王国などのトラキア系国家は最終的にローマに吸収され、この地域はローマ帝国の属州として統治されることになりました。ローマの支配下では、行政や法律の整備が進み、トラキア地域はローマの統治体制に組み込まれていきます。

 

特に、ローマによるインフラ整備がこの時期に進みました。道路や要塞、都市が建設され、地域の経済や軍事的な重要性が高まりました。ブルガリア地域はローマの重要な防衛線の一部となり、軍事拠点としても活用されました。これにともない、ローマ軍の駐屯地が設置され、現地のトラキア人もローマ軍に従事するようになりました。

 

さらに、ローマ文化の浸透も進みました。ラテン語が公用語として使われ、ローマの法律や文化が地元住民に受け入れられていきました。また、都市生活が広がり、公共浴場や劇場、神殿などローマ風の施設が次々と建設され、地域社会はローマ化していきましたが、トラキア独自の文化も同時に残され、融合していく時期でもあったのです。

 

このように、1世紀のブルガリア地域は、「ローマの完全な支配の下で、行政・経済の発展とローマ文化の浸透が進み、地域の社会構造が大きく変化した時代だった」といえます。

 

46年 トラキア属州の成立

トラキアがローマの属州となり、オドリュサイ王国は完全に滅亡した。これにより、トラキア全域はローマの直接統治下に置かれ、ローマ風の都市建設や道路網が発展し、地域のローマ化が進んだ。

 

5世紀

5世紀のブルガリア地域では、ローマ帝国の衰退とともに大きな変化が訪れました。この時期、ローマ帝国は東西に分裂しており、ブルガリア地域は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の支配下に置かれていました。しかし、帝国内での統治力は弱まり、地域は外部からの侵略や内部の混乱にさらされることになります。

 

特に重要なのは、ゲルマン系ゴート族やフン族の侵入です。5世紀初頭、ゴート族がこの地域を通過し、東ローマ帝国と衝突しました。これにともない、ゴート族は一部この地に定住し、ローマの影響が薄れつつある中で、独自の勢力を築きます。また、フン族の大規模な侵攻もこの時期に発生し、ブルガリア地域は度重なる略奪や戦乱に巻き込まれました。

 

さらに、ローマの防衛ラインの崩壊により、かつてローマが整備したインフラや都市も荒廃していきます。地域は徐々に政治的な統制を失い、東ローマ帝国もその全土を効果的に管理できなくなりました。こうした混乱の中、トラキア人を含む現地の住民たちは、外部勢力の侵入に耐えながら生き延びる必要があったのです。

 

このように、5世紀のブルガリア地域は、ローマ帝国の衰退と外部からの侵略により混乱が続いた時代であり、かつての安定した支配が崩れ始めた転換期だったといえます。

 

中世ブルガリア

ブルガリアの歴史は、7世紀後半、タタール系のブルガル族が現在のブルガリアの地に侵入し、先住のスラブ系民族を駆逐、ブルガリア王国が成立させたところから始まりました。最初のブルガリア国家は長く続かず、11世紀になると東ローマ帝国に征服されます。12世紀末に反乱を起こし再度独立を勝ち取るも、14世紀末には新興のオスマン帝国に征服され、王国としては一度滅んでしまいました。

 

7世紀

7世紀のブルガリア地域は、大きな政治的変動の時代となりました。この時期、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は依然として地域を支配していましたが、その支配力は著しく弱まり、スラヴ人の大規模な移住が進行しました。これにより、ブルガリア地域の人口構成や文化は大きく変わり始めます。スラヴ人は農業を基盤とした共同体を築き、次第に地域に定住していきました。

 

また、アスパルフ族のブルガール人がこの地域に進出してきたことも、7世紀の大きな出来事です。ブルガール人は中央アジア起源の遊牧民族であり、南下してバルカン半島に侵入しました。彼らは東ローマ帝国の弱体化に乗じて、バルカン半島北部を拠点に勢力を拡大します。そして、紀元681年には、ブルガール人の指導者であるアスパルフがビザンツ帝国を破り、東ローマ帝国と講和を結びます。これにともない、第一次ブルガリア帝国が正式に成立しました。

 

この新しいブルガリア国家は、ブルガール人とスラヴ人が融合する形で形成されました。ブルガリア帝国は独自の文化と政治体制を発展させ、周辺地域にも影響を与える存在となっていきます。ビザンツ帝国との緊張は続きましたが、同時に東ローマ帝国との交易や文化的な交流も行われ、ブルガリアは次第に力をつけていくことになります。

 

このように、7世紀のブルガリア地域は、スラヴ人の定住とブルガール人の進出によって、第一次ブルガリア帝国が誕生するという重要な転換点となった時代だったのです。

 

681年 第一次ブルガリア帝国の成立

西ローマ帝国崩壊後ブルガリアに流入してきたテュルク系のブルガール人が、この地を支配していた東ローマ帝国を破り、ブルガリア帝国を建国した。

 

8世紀

8世紀のブルガリア地域は、第一次ブルガリア帝国が勢力を拡大し、ビザンツ帝国と対立を深めながらも安定した時期でした。この時代、ブルガリアは強力な国家としての基盤を築き、特にブルガール人とスラヴ人の統合が進み、独自の文化と統治体制が整えられました。ハン・テルヴェル(在位:700年頃〜721年頃)は、この時代の代表的な指導者で、彼の統治下でブルガリアはさらなる発展を遂げます。

 

テルヴェルは、ビザンツ帝国との複雑な関係を利用しながら、国の安定を図りました。特に、ビザンツ皇帝ユスティニアノス2世を支援し、彼が皇位に復帰するのを助けたことで、ブルガリアはローマと友好関係を築き、一時的に影響力を強めました。その結果、ビザンツ帝国から正式に「皇帝」の称号を授与されるという、非常に珍しい栄誉を得ています。

 

しかし、ブルガリアとビザンツ帝国との関係は常に安定していたわけではなく、8世紀後半になると、再び対立が激化します。ビザンツ帝国は何度もブルガリアに侵攻を試みましたが、ブルガリアは巧みな外交と軍事力によってこれに対抗しました。特に、ビザンツの皇帝コンスタンティノス5世(在位:741年〜775年)が複数回にわたってブルガリアに攻撃を仕掛けましたが、大きな成果は得られませんでした。

 

また、この時期のブルガリアは、内部統治の面でも強化が進みました。ブルガール人とスラヴ人の融合がさらに進展し、国家としてのまとまりが強化されました。軍事力の整備や行政組織の発展により、ブルガリアはバルカン半島の強国としての地位を確立していきます。

 

このように、8世紀のブルガリアは、ビザンツ帝国との対立を乗り越えながら、内外に強力な国家を築き、次第にバルカン半島での存在感を強めていった時代だったのです。

 

9世紀

9世紀のブルガリアは、第一次ブルガリア帝国の最盛期にあたり、国家としての発展が急速に進んだ時代です。この時期、ブルガリアは政治的・文化的に大きな飛躍を遂げ、ビザンツ帝国との関係も複雑さを増しましたが、独自のアイデンティティを確立していきました。特に注目すべきは、ハン・クルム(在位:803年〜814年)とボリス1世(在位:852年〜889年)の支配です。

 

ハン・クルムは、ブルガリアを強力な軍事国家へと変貌させ、ビザンツ帝国に対して多くの戦勝を収めました。特に、811年にビザンツ皇帝ニケフォロス1世を撃破し、彼を戦死させたことは、ブルガリアの軍事的威信を大いに高めました。クルムはまた、法典を整備し、国家統治の基盤を強化するなど、内部の安定にも尽力しました。

 

その後、ボリス1世の治世は、ブルガリアの歴史において特に重要な転換点となります。ボリス1世は、キリスト教への改宗を決断し、864年にブルガリアは正式にキリスト教を受け入れました。これにより、ブルガリアはビザンツ帝国や西ヨーロッパとの関係が再編され、東欧キリスト教文化圏に組み込まれることになります。とりわけ、ギリシャ正教を選んだことで、ブルガリアはビザンツの宗教的影響を受けつつも、政治的独立を保つ道を模索しました。

 

また、ボリス1世の治世中には、キリルとメトディオスの弟子たちによって、スラヴ語の文字であるキリル文字が導入されました。この文字の普及により、ブルガリアは文化的にも大きな進歩を遂げ、東欧におけるスラヴ文化の中心地としての地位を確立しました。

 

このように、9世紀のブルガリアは、クルムによる軍事的勝利とボリス1世によるキリスト教への改宗、そしてキリル文字の導入を通じて、政治的・文化的に大きな飛躍を遂げた時代だったのです。

 

809年 ソフィアの占領

第一次ブルガリア帝国のハーン・クルムがソフィアを占領する。この占領により、ブルガリア帝国はバルカン半島中央部への支配を拡大し、戦略的要地であるソフィアを掌握した。ソフィアの占領は、ブルガリアの領土拡大と帝国の強化に大きく寄与し、経済的および軍事的な要衝としての重要性を高めた。

 

811年 プリスカの戦い

ブルガリア帝国と東ローマ帝国とのあいだでプリスカの戦いと呼ばれる武力衝突が発生。ブルガリアの勢力拡大を危惧する東ローマ皇帝ニケフォロス1世がブルガリアに侵攻したことで開始された。結果はブルガリアの勝利と終わり、東ローマ帝国軍は返り討ちにされた。

 

864年 ボリス1世キリスト教に改宗

ブルガリア帝国のハーンであるボリス1世(在位852年〜889年)が、異教信仰からキリスト教に改宗。洗礼名ミハイルを名乗った。以後、ブルガリアではギリシア正教が受容されていく。

 

893年 ブルガリア正教会の設立

893年、ブルガリア正教会が設立される。この設立は、第一次ブルガリア帝国のシメオン大帝によって推進され、東ローマ帝国からの宗教的独立を確立した。ブルガリア正教会の成立により、ブルガリア語による聖書や典礼が導入され、キリル文字の普及が進んだ。これにより、ブルガリアは文化的にも独自性を強め、スラブ文化圏における宗教的中心地としての地位を確立した。

 

10世紀

10世紀のブルガリアは、第一次ブルガリア帝国の全盛期から衰退へと転じる時代でした。この時期のブルガリアは、強力な王朝とともに一時的な繁栄を迎えつつも、ビザンツ帝国との絶え間ない対立や内部の混乱により徐々にその力を失っていきます。

 

特に重要な人物は、シメオン1世(在位:893年〜927年)です。彼は「皇帝(ツァール)」の称号を初めて使用したブルガリアの君主で、彼の治世下でブルガリアはかつてないほどの領土拡大を果たしました。シメオン1世は、ビザンツ帝国と繰り返し戦い、コンスタンティノープルに迫るほどの勢力を築き上げました。彼はまた、文化面でもブルガリアを大きく発展させ、「シメオンの黄金時代」と呼ばれる文化的繁栄をもたらしました。

 

この時期、ブルガリアはスラヴ文化の中心地となり、文学、宗教、教育の分野で重要な進展がありました。キリル文字の普及も進み、ブルガリア語による文献が多く作成され、正教会の影響を受けた宗教文学が発展しました。シメオンの時代、ブルガリアはヨーロッパでも強大な国家の一つとなり、ビザンツ帝国と並び立つ存在としての地位を確立しました。

 

しかし、シメオン1世の死後、ブルガリアは徐々に衰退の道を歩みます。内政の不安定さや、ビザンツ帝国との絶え間ない戦争が経済的な負担となり、帝国の統治力が弱まります。ペチェネグ人やハンガリー人など、外部からの侵略も加わり、国力は次第に消耗していきました。

 

さらに、10世紀後半にはビザンツ帝国の皇帝バシレイオス2世がブルガリアに対して強力な攻撃を開始します。この結果、ブルガリアは度重なる戦争に敗れ、ついに1018年、ブルガリア帝国はビザンツ帝国に併合されることとなりました。

 

このように、10世紀のブルガリアは、シメオン1世による全盛期を迎えつつも、彼の死後はビザンツ帝国との戦争や内政の混乱によって衰退し、最終的にはビザンツに併合される運命にあったのです。

 

918年 シメオン1世が皇帝を称するようになる

918年、シメオン1世が正式に皇帝(バシレウス)を称するようになる。シメオン1世の治世下でブルガリア帝国は最盛期を迎え、領土を大幅に拡大し、バルカン半島の覇権を握った。彼の即位は、ブルガリアの政治的および文化的な独立を強調し、東ローマ帝国と対等な帝国としての地位を主張する重要な象徴となった。

 

970年 キエフ大公国に占領される

970年、ブルガリアはキエフ大公スヴャトスラフ1世の軍によって占領される。この時期、キエフ大公国はバルカン地域への影響力を拡大し、ブルガリア東部を一時的に掌握したが、この支配は短期間に終わった。

 

971年 東ローマ帝国に併合される

971年、東ローマ帝国の皇帝ヨハネス1世ツィミスケスがブルガリアを征服し、ブルガリア東部を併合する。この征服により、ブルガリアは東ローマ帝国の支配下に入り、その文化的および政治的影響を受けることになる。

 

976年 独立を回復

976年には、ブルガリアは東ローマ帝国からの支配を脱して再び独立を回復する。この独立は、地方の貴族たちの支持を背景に、サムイル王が主導し、その後のサムイルの帝国として知られる新たな王朝が樹立された。

 

986年 トラヤヌスの門の戦い

ブルガリアのソフィア周辺の山脈で、東ローマ帝国と第一次ブルガリア帝国が武力衝突を起こす。ブルガリアはこの戦いで勝利した勢いで、プレスラフ、プリスカなどを取り戻した。

 

11世紀

11世紀のブルガリアは、ビザンツ帝国の支配下にあった時代です。10世紀末、ブルガリアはビザンツ皇帝バシレイオス2世(「ブルガロクトノス=ブルガリア人殺し」)によって征服され、1018年に正式にビザンツ帝国の一部となりました。この征服により、ブルガリアの独立は失われ、帝国の統治下で再編されることとなりました。

 

ビザンツ帝国は、ブルガリアを直接的な統治のもとに置き、軍事と行政の両面で支配体制を整備しました。ブルガリアには、ビザンツから派遣された総督が置かれ、税制や法律もビザンツ式に改められました。東ローマ帝国と同様にテマ制(軍管区制)が適用され徴税が強化されたのです。しかし、ブルガリア人は独自の文化とアイデンティティを維持し続けており、ビザンツの支配に対して根強い反発が存在しました。

 

また、この時代、ブルガリア正教会はビザンツの管理下に置かれることになります。ビザンツ帝国はブルガリア教会をコンスタンティノープル総主教の管轄下に置き、宗教的な統制を強めました。しかし、地元の教会組織や聖職者たちはブルガリアの伝統的な宗教的慣習を守り続け、ビザンツの宗教的影響と地元文化の間で緊張関係が続きます。

 

この時期には、ブルガリア人の間で反乱や独立運動が何度も起こりました。特に、11世紀後半にはペタル・デリヤンの反乱(1040年〜1041年)が起こり、ブルガリア独立を目指す大規模な反乱が展開されましたが、最終的にはビザンツ軍によって鎮圧されました。この反乱は、ブルガリア人の独立への強い意志を示すものでしたが、結果的には成功しませんでした。

 

このように、11世紀のブルガリアは、ビザンツ帝国の支配下で文化的・宗教的な独自性を維持しながらも、独立を求める反乱が繰り返された時代だったのです。

 

1014年 クレディオン峠の戦い

ブルガリアのクレディオンにて、東ローマ帝国との間で会戦が起こる。東ローマ帝国の決定的勝利と終わり、半世紀戦い続けている敵国の進撃を勢いづけることになってしまった。

 

1018年 第一次ブルガリア帝国の滅亡

東ローマ皇帝バシレイオス2世により、残った全てのブルガリアの国土が東ローマ帝国領に併合され、第一次ブルガリア帝国は滅亡した。

 

1040年 ペタル・デリャンの蜂起

東ローマ皇帝ミカエル4世(在位1034年〜1041年)は、財政改革を実施し、ブルガリア人に貨幣での納税を課す。これによりブルガリアの人々の生活は苦しくなり、不満が高まっていった。そんな中ブルガリア皇帝の血を引くペタル・デリャンは、不満をもつブルガリア人をまとめ反乱を起こす(ペタル・デリャンの蜂起)。一時期バルカン半島の大部分を反乱軍が制圧するも、東ローマ帝国軍の物量にはかなわず鎮圧させられた。

 

12世紀

12世紀のブルガリアは、ビザンツ帝国の支配下で再び独立を目指す動きが強まった時代です。この時代のブルガリア人は、長期間にわたるビザンツ帝国の統治に耐えていましたが、独立への強い願望が残っていました。12世紀後半には、その願望がついに結実し、第二次ブルガリア帝国の成立に繋がります。

 

特に注目すべき出来事は、1185年に起こったアセンとペタルの反乱です。ブルガリアの貴族アセンとその弟ペタルは、ビザンツ帝国による重税と圧政に対抗して蜂起し、これに呼応した多くのブルガリア人が反乱に参加しました。彼らはビザンツ軍を何度も撃退し、最終的に1185年に第二次ブルガリア帝国を樹立しました。この反乱によってブルガリアは約170年ぶりに独立を回復し、再び独自の国家を築くことになります。

 

さらに、アセン家によるブルガリアの統治は、首都タルノヴォを中心に展開されました。タルノヴォは新たなブルガリアの政治・文化・宗教の中心地となり、ビザンツ帝国からの影響を受けつつも独自の文化を発展させました。また、この時期のブルガリアは軍事的にも強化され、ビザンツ帝国や周辺の諸勢力と対抗できる強国として再びバルカン半島での地位を確立しました。

 

なお、ビザンツ帝国はこのブルガリアの独立に対し、幾度となく反攻を試みましたが、アセンとペタルの指導のもと、ブルガリアはその攻撃を撃退し続けます。この新生ブルガリア帝国は、政治的独立を取り戻すと同時に、宗教的な独自性も強調し、ブルガリア正教会の地位を再確立しました。

 

このように、12世紀のブルガリアは、アセンとペタルの反乱を通じてビザンツ帝国の支配から脱し、第二次ブルガリア帝国として独立を果たし、バルカン半島で再び力を取り戻した時代だったのです。

 

1185年 アセンとペタルの蜂起の発生

東ローマ帝国支配に対する不満から、ブルガリア住民による蜂起が発生。タルノヴォ近郊の地主アセンとペタル兄弟が首謀したことから「アセンとペタルの蜂起」と呼ばれる。反乱軍は第一次ブルガリア帝国の首都だったプレスラフを制圧することに成功した。

 

1187年 第二次ブルガリア帝国の成立

アセンとペタルはブルガリアの独立を宣言するとともに、皇帝(ツァーリ)として共同で即位。第一次ブルガリア帝国の正当な継承国として第二次ブルガリア帝国を成立させ、170年近い東ローマ帝国の支配に終止符を打った。

 

1190年トリャヴナの戦い

ブルガリア中部トリャヴナ近郊で起きたブルガリアと東ローマ帝国の武力衝突。ブルガリアはこの戦いに勝利したことで、真の独立を確立した。

 

1196年 アセン1世の暗殺

アセン1世の中央集権的な政策に反発する貴族層の手引きで、宮廷内でクーデターが発生し、アセン1世が暗殺される。

 

1197年 ペタルの暗殺

アセン1世の死後兄のペタルが即位するも、貴族の反抗は止まらず、またしても暗殺されてしまう。ペタルの死後はペタルとアセンの弟、カロヤンが即位した。

 

13世紀

13世紀のブルガリアは、第二次ブルガリア帝国が隆盛を極めた時代であり、バルカン半島で大国としての地位を確立しました。12世紀末にアセンとペタルの反乱によって独立を回復したブルガリアは、その後、アセン家の指導のもとでさらなる発展を遂げました。

 

特に13世紀初頭には、カロヤン(在位:1197年〜1207年)がブルガリアを統治し、彼の治世でブルガリアは再びビザンツ帝国や第四回十字軍に対抗する強国となりました。カロヤンは、十字軍がコンスタンティノープルを陥落させた際、ラテン帝国と対立し、1205年にアドリアノープルの戦いでラテン帝国軍を大敗させました。これにより、ブルガリアの軍事力は再びヨーロッパ中で注目され、カロヤンはローマ教皇から「ブルガリア人とヴラフ人の王」として承認されるという外交的成功も収めました。

 

続くイヴァン・アセン2世(在位:1218年〜1241年)の治世において、ブルガリア帝国は最盛期を迎えました。イヴァン・アセン2世は、巧みな外交と軍事戦略でブルガリアの領土を大幅に拡大し、エピロス、マケドニア、セルビアなど周辺地域を支配下に置きました。特に1230年にクリティアンの戦いでエピロス専制侯国を破ったことで、ブルガリアはバルカン半島の覇権を握ります。

 

また、イヴァン・アセン2世の治世下でブルガリアは経済的にも繁栄しました。交易路が拡大し、東ローマ帝国やヴェネツィアとの貿易が盛んに行われた結果、ブルガリアはバルカン半島の重要な商業拠点として栄えます。また、文化的にも発展を遂げ、首都タルノヴォは「第二のコンスタンティノープル」と称されるほどの文化・宗教の中心地となりました。

 

しかし、13世紀後半になると、ブルガリアは内部の分裂やモンゴル帝国の侵攻によって徐々に力を失います。特にタタールの侵攻や貴族間の対立が深刻化し、国家の統治力が弱体化していきました。これにより、ブルガリアは次第に政治的安定を失い、外部からの圧力に対して脆弱となっていきます。

 

このように、13世紀のブルガリアは、カロヤンとイヴァン・アセン2世の統治下で全盛期を迎え、バルカン半島での覇権を確立したものの、後半には内外の混乱により次第に衰退していった時代だったのです。

 

1202年 ビザンツ帝国と和約

1202年、ブルガリアはビザンツ帝国と和約を結び、両国間の緊張が一時的に緩和された。この和約は、ビザンツ帝国の皇帝アレクシオス3世アンゲロスの治世下で締結され、ブルガリアに対する領土的要求の一部を緩和し、経済的な利益をもたらす条件が含まれていた。この条約により、ブルガリアはビザンツ帝国との貿易を拡大し、内部の政治安定を図ることが可能となった。この時期の外交的な努力は、周辺国との関係改善に向けたブルガリアの戦略的な一環であった。

 

1204年 ラテン帝国の成立

ビザンツ帝国のコンスタンティノープルが十字軍に占領され、ここにラテン帝国が建国された。ラテン帝国はブルガリアを含めたバルカン諸国の征服を図るようになる。また国を追われた東ローマの皇族は、ニカイアに逃亡しニカイア帝国を建国した。

 

1205年 ブルガリア帝国軍とラテン帝国軍の戦闘

アドリアノープル近郊でブルガリア帝国軍とラテン帝国軍の戦闘が行われるが、ブルガリア軍の大勝となった。続くセレスとフィリッポポリスの戦闘でもラテン帝国軍を打ち破り、ラテン帝国勢力に大ダメージを与えた。

 

1232年 ブルガリア正教会の独立

1232年、イヴァン・アセン2世の治世下で、ブルガリア正教会がカトリック教会から独立を果たし、東方正教会の自立を再確立した。この独立は、ブルガリアの宗教的な自律性を強化し、国家のアイデンティティと正統性を国内外に示す重要な出来事となった。イヴァン・アセン2世はこの動きを通じて、教会の権威を利用し、政治的な統合を進めるとともに、ブルガリアの文化的独自性を保持しようとした。この決断は、後のブルガリア国教会の発展に長期的な影響を与えた。

 

1241年 イヴァン・アセン2世死去

ブルガリア帝国の黄金期を築いたイヴァン・アセン2世が死去。この後ブルガリアは、モンゴル帝国の侵攻を受けるようになり、衰えが始まる。

 

1261年 ラテン帝国の滅亡

ニカイア帝国軍の攻撃と、民衆の蜂起により首都コンスタンティノープルが攻略され、ラテン帝国は滅亡。ビザンツ帝国が復活した。

 

14世紀

14世紀のブルガリアは、封建勢力の分立と政治的混乱により、国力が著しく衰退した時代でした。この世紀、ブルガリア国内ではヴィディン、ドブルジャ、ヴェルブジュド、ストルミツァといった地域に強力な封建領主が独自の勢力を築き、中央政府の統制が弱まります。これにともない、国内の政治的安定が失われ、国家全体としてのまとまりが崩れていきました。

 

この分裂状態の中、ブルガリアは外部勢力からの侵略に対して脆弱となり、ビザンツ帝国ハンガリー王国、さらにはサヴォイア伯国といった外国勢力に対して領土を次々と失っていきます。特に、ハンガリー王国はブルガリア北西部に侵攻し、ヴィディンを占領するなど、ブルガリアの領土は次第に縮小していきました。

 

さらに、14世紀半ばには、ブルガリアはさらに大きな脅威に直面します。それは、オスマン帝国のバルカン半島進出です。オスマン帝国は、1350年代からバルカン半島に本格的な侵攻を開始し、ブルガリアもその圧力にさらされました。特に1371年のマリツァ川の戦いで、オスマン軍がバルカン諸国連合を破ったことで、ブルガリアの命運は大きく揺らぐことになります。オスマン帝国は徐々にブルガリア領内へ進出し、最終的に14世紀末までにブルガリア全土を占領することになります。

 

このように、14世紀のブルガリアは、内部分裂と外部勢力の侵攻により国家が衰退し、中央集権的な統治が不可能となる一方で、オスマン帝国の脅威が迫る中でその独立を失う運命に向かって進んでいきました。

 

このように、14世紀のブルガリアは、封建領主の分裂と外部からの侵略により弱体化し、最終的にオスマン帝国の進出によってその独立を失いかけた時代だったのです。

 

1364年 ビザンツ帝国によるアンヒアロス(現ポモリエ)征服

1364年、ビザンツ帝国はブルガリアのアンヒアロス(現ポモリエ)を征服した。この攻撃は、地中海および黒海地域の支配を巡るビザンツ帝国の拡大戦略の一環であり、この地域の戦略的重要性を高めた。アンヒアロスの占領は、ビザンツ帝国による地中海貿易路の確保と、ブルガリアとの緊張関係を再燃させる要因となった。

 

1365年 ハンガリーによるヴィディン征服

1365年、ハンガリーはブルガリアのヴィディンを征服し、この地域を占領した。この軍事行動は、ハンガリーがバルカン地域での影響力を拡大する試みの一部であり、ブルガリア北西部における政治的な不安定化を引き起こした。ヴィディンの征服は、周辺国との関係において新たな緊張を生じさせ、地域のパワーバランスに影響を与えた。

 

1367年 サヴォイア伯国による黒海沿岸部への攻撃

1367年、サヴォイア伯国は黒海沿岸部に対して攻撃を行い、その海上権益を追求した。この時期に欧州諸国が黒海地域への進出を試みる中、サヴォイアの介入は黒海貿易における競争を激化させ、地域の安全保障環境に新たな課題をもたらした。この攻撃は、サヴォイアが地中海外の地政学的利益を拡大しようとする動きの一環であった。

 

1371年 マリツァの戦い

バルカン半島のマリツァ川流域にて、オスマン帝国軍とバルカン半島国家連合軍による武力衝突が発生。バルカン連合はこれに大敗したことで、南ブルガリアがオスマン帝国から攻撃を受けるようになる。

 

1382年 ソフィアの陥落

78年から、和約を破棄したオスマン帝国による侵攻が始まり、82年にソフィアが陥落する。この事件は、オスマン帝国のバルカン地域への拡張を象徴し、ブルガリアの多くの都市が次々と陥落していく過程の一部となった。ソフィアの陥落は、オスマン帝国が地域の主要な政治および文化センターを支配下に置くことを意味し、ブルガリアのオスマン支配への完全な移行への道を開いた。この出来事は、長期にわたるオスマンの支配と、それに伴う社会経済的な変化の始まりを示している。

 

1389年 コソボの戦い

コソボにてセルビア王国とオスマン帝国の会戦が行われる。結果、オスマン帝国の大勝となり、ブルガリアを含めたバルカン諸国はオスマン帝への服従を余儀なくされた。

 

1393年 タルノヴォの包囲

オスマン軍による侵攻を受け、タルノヴォが陥落する。タルノヴォの陥落は、ブルガリアにおけるオスマン帝国の支配をさらに固める重要な出来事であり、ブルガリア第二帝国の事実上の終焉を意味した。この都市は中世ブルガリアの首都であり、文化的、宗教的な中心地としての地位を持っていたため、その陥落はブルガリア人にとって大きな打撃であり、多くの住民が逃亡または奴隷化された。この出来事はオスマン帝国のバルカン半島における支配を長期化させる結果となった。

 

1396年 ニコポリスの戦い/ブルガリア帝国の滅亡

ドナウ川河畔のニコポリスにて、オスマン帝国とヨーロッパ連合軍との会戦が行われる。キリスト教世界を守るため、イギリスフランスドイツなども派兵を行い、10万の軍勢で臨んだが、オスマン帝国の大勝という結果になった。オスマン帝国のバルカン半島支配を決定的なものとし、ブルガリアは同国に完全に併合され滅亡した。

 

近世ブルガリア

15世紀

15世紀のブルガリアは、オスマン帝国の完全な支配下に入った時代です。14世紀末にブルガリアの主要都市が次々とオスマン帝国に征服され、最終的に1396年には第二次ブルガリア帝国が完全に崩壊しました。その結果、ブルガリアはオスマン帝国の一部となり、約500年にわたるオスマン支配が始まりました。

 

この時期、ブルガリアの政治的独立は完全に失われ、オスマン帝国による中央集権的な統治が導入されました。オスマン帝国は、ブルガリアの領土を「サンジャク」と呼ばれる行政区に分割し、地方の行政を直接支配しました。また、地元の封建領主は排除され、代わりにオスマン帝国から派遣された役人や軍人が支配を行い、イスラム法を基にした統治が進められました。

 

経済的には、オスマン帝国の封建制度である「ティマール制」がブルガリアにも適用されました。これにより、土地はオスマン帝国のスルタンに属し、オスマン軍に従う地元の騎士がそれを管理しました。農民は租税を納める義務があり、多くは厳しい税負担を強いられました。このため、ブルガリアの経済は大きな圧迫を受け、農村部では生活が困窮していくことになります。

 

また、文化的にも変化が起こりました。イスラム教の浸透が進む一方で、ブルガリア正教会はオスマン帝国の監督下に置かれました。正教会は存続を許されましたが、強い制約を受け、その影響力は大幅に制限されます。さらに、教会の資産もオスマン当局によって管理され、ブルガリア人のアイデンティティや文化は厳しい抑圧を受けました。

 

とはいえ、ブルガリア人はオスマン支配に対して強い抵抗心を持ち続けており、山岳地帯や地方では時折反乱が発生しましたが、オスマン帝国の軍事力の前にことごとく鎮圧されました。

 

このように、15世紀のブルガリアは、オスマン帝国による厳しい支配のもとで政治的・文化的な抑圧を受けつつも、ブルガリア人は独自のアイデンティティを保持し続けた時代だったのです。

 

16世紀

16世紀のブルガリアは、オスマン帝国の支配が完全に確立され、安定した統治が行われていた時代です。この時代、ブルガリアはオスマン帝国内の一地方として扱われ、独立した政治的地位を持たないまま、オスマンの制度や文化の影響を深く受けることになります。オスマン帝国の統治体制の下で、ブルガリアの人々は帝国の経済、社会、文化の枠組みに組み込まれていきました。

 

オスマン帝国はブルガリアにティマール制(土地を封建騎士に与え、彼らが税を徴収する制度)を適用し、地元の農民は重い税負担を課される一方で、帝国内の広範な経済活動にも従事しました。ブルガリアは帝国内の重要な農業地帯であり、農産物や家畜がオスマン帝国全土に供給されました。また、イスタンブールと中央ヨーロッパを結ぶ交易路の一部として、ブルガリア地域は商業的にも重要な役割を果たしました。

 

宗教面では、ブルガリア正教会がオスマン帝国の監督下で存続しましたが、その影響力は制限されていました。教会は帝国の非ムスリム共同体を管理する役割を担い、ブルガリア人の精神的な支えとなっていました。しかし、イスラム教の影響も強まり、特に都市部ではイスラム教徒のコミュニティが増加しました。それでも、ブルガリアの農村部では正教の伝統が強く守られ続けました。

 

また、文化面では、オスマン帝国の広大な領域内での交流が進む一方で、ブルガリア独自の文化は抑圧されていました。多くのブルガリア人知識人や職人は、オスマン帝国の他地域やイスタンブールへ移住し、そこで活躍しました。一方、国内では大規模な建築プロジェクトや公共施設の建設が行われ、オスマン風のモスクやハンマーム(浴場)が増加しました。

 

このように、16世紀のブルガリアは、オスマン帝国の厳しい支配の下で経済的に重要な役割を果たしつつも、文化的・宗教的には抑圧を受ける一方で、正教の伝統を維持し続けた時代だったのです。

 

1598年 タルノヴォで蜂起発生

タルノヴォ地方でオスマン支配に対する蜂起が発生するも、まもなくオスマン政府により鎮圧される。この蜂起は、長期にわたるオスマン帝国の圧制と重税に対する地元住民の不満が爆発したもので、タルノヴォを含む広範囲の地域で支持を集めた。しかし、オスマン帝国の強力な軍事力により、蜂起は短期間で厳しく鎮圧され、参加者は厳罰に処された。この出来事は後のブルガリア独立運動の火種となり、民族意識の高揚に寄与した。

 

17世紀

17世紀のブルガリアは、オスマン帝国の支配が依然として続いていた時代です。この時期、オスマン帝国自体が徐々に衰退し始めており、その影響はブルガリアにも及んでいました。オスマン帝国の弱体化に伴い、統治の緩みや地方の不安定さが増し、ブルガリア地域でも社会的・経済的な停滞が進行しました。

 

ティマール制の崩壊も、17世紀のブルガリアに大きな影響を与えました。ティマール制とは、オスマン帝国の封建制度であり、軍人に土地を与えて税を徴収させるものでしたが、この制度が機能しなくなると地方の統治は混乱し、農民への税負担がさらに増加しました。この結果、ブルガリアの農民は生活が厳しくなり、経済的な困窮に苦しむことになります。

 

また、オスマン帝国内での宗教的圧力も続いており、イスラム教への改宗が奨励されましたが、ブルガリア人の大部分は依然としてブルガリア正教を守り続けました。正教会は、ブルガリア人のアイデンティティの維持に重要な役割を果たしており、教会を中心とした文化的・宗教的な活動が続いていましたが、その活動は厳しく制限されていました。

 

一方で、17世紀はオスマン帝国全体で反乱や内乱が頻発し、地方の自立性が高まった時代でもあります。ブルガリアでも、地方の権力者や領主が自立化し、オスマン帝国の中央からの統制が弱まることが多くなりました。特に、山岳地帯では反乱が発生し、農民が武装蜂起することもありましたが、こうした反乱はオスマン軍によって鎮圧されることが常でした。

 

また、経済面では、交易が縮小し、都市部の商業活動は停滞しましたが、ブルガリアは依然としてオスマン帝国内の重要な農業地帯として機能し続けました。特に、家畜や農産物の生産がブルガリアの主要な経済活動でしたが、その利益の多くはオスマン当局に吸い上げられ、地元経済の発展は阻まれていました。

 

このように、17世紀のブルガリアは、オスマン帝国の衰退とともに地方の混乱が増し、経済的・社会的な停滞が進行する一方で、ブルガリア人は正教を守りながら厳しい状況の中で生き抜いた時代だったのです。

 

1688年 チプロフツィ蜂起

ブルガリア北西部のチプロフツィで、オスマン帝国に対する武装蜂起が発生。一時的にクトロヴィツァ(現モンタナ)を占領するまでいたったが、最終的にはオスマン帝国により鎮圧された。

 

18世紀

18世紀のブルガリアは、依然としてオスマン帝国の支配下にありましたが、この時期は帝国全体で徐々に衰退が進み、ブルガリア地域でも変化が現れ始めました。地方の統治力低下や、経済的な停滞が続く中で、ブルガリアの人々は新たな動きに直面していくことになります。

 

オスマン帝国の支配が弱まるにつれて、ブルガリアの村や都市では地元の権力者が自立化し、地方の自治が強まる場面も見られました。特に山岳地帯や僻地では、中央政府の統制が届かないため、武装蜂起や反乱も断続的に発生しました。しかし、これらの反乱は大規模な成功には至らず、オスマン軍によって鎮圧されることが多かったのです。

 

一方で、18世紀後半になると、ブルガリア地域でも徐々に「国民復興運動」(ブルガリアのナショナル・ルネサンス)の兆しが現れ始めます。この運動は、ブルガリアの民族意識の高揚と正教会を中心とした文化の再生を目指すものであり、後の19世紀に本格化する独立運動の基盤となります。18世紀にはまだ限定的な活動にとどまっていましたが、教育や文化活動を通じて、ブルガリア人の間で民族意識が徐々に強まりつつありました。

 

また、この時期のブルガリアでは、交易と手工業の復興が見られました。オスマン帝国の支配下で、経済的な抑圧が続いていたものの、18世紀後半には一部の都市で商業活動が活発化し、ブルガリア人商人がオスマン帝国内やヨーロッパ諸国と交易を行うようになりました。特に、ヴェネツィアやオーストリアとの交易が盛んになり、ブルガリア地域の一部で経済が回復し始めます。

 

さらに、ブルガリア正教会も再び重要な役割を果たすようになり、教会や修道院が知識と教育の中心地となりました。教会はブルガリア人のアイデンティティを支える場であり、オスマン帝国の支配下で抑圧を受けながらも、ブルガリア文化の継承を担っていました。

 

このように、18世紀のブルガリアは、オスマン帝国の統治の中で徐々に地方の自立化や文化復興の兆しが見え始め、民族意識が芽生える時代だったのです。

 

1768年 露土戦争の勃発

同年夏にウクライナで起きたコリーイの乱から露土戦争に発展。一部のブルガリア人は、ロシアオスマン帝国からの解放者になることを期待して、義勇兵としてロシアを支援した。最終的にロシアが勝利したことで、独立の気運は高まった。

 

近代ブルガリア

王国としては中世に滅ぼされてしまったブルガリアですが、19世紀末にロシア・トルコ戦争(露土戦争)でオスマン帝国が敗れると、サン・ステファノ条約により大ブルガリア公国として独立。 20世紀に入り、ブルガリア公国の大公フェルディナンド1世がツァール(国王)を自称したことで、ブルガリア王国が復活を遂げました。

 

しかし、復活間もなく勃発した、バルカン戦争と第一次世界大戦では敗れ、多くの領土を喪失。次ぐ第二次世界大戦では枢軸国側を支援したことで、ソビエト連邦の侵攻を受け占領されてしまいます。そのため戦後しばらくはソ連の強い影響下におかれ、共産党による一党独裁体制が続きました。

 

19世紀

19世紀のブルガリアは、オスマン帝国支配からの独立を目指す重要な転換期でした。この時期、ブルガリア人の間でナショナル・ルネサンスと呼ばれる民族復興運動が活発になり、政治的・文化的な意識が急速に高まっていきました。教育や文学、宗教を通じてブルガリアの民族アイデンティティが再生され、独立への機運が強まります。

 

19世紀前半、ブルガリアでは学校や出版活動が盛んになり、多くのブルガリア人が民族の歴史や文化を学び始めました。特にパイシイ・ヒレンダルスキの『スラヴ・ブルガリア史』は、ブルガリア人の誇りを呼び覚まし、独立意識を高める上で大きな役割を果たしました。また、ヴァシル・レフスキフリスト・ボテフといった革命家たちは、武力による独立を目指して反乱や革命運動を指導しました。彼らはブルガリアの自由を取り戻すため、地下組織を形成し、オスマン帝国への反乱を準備していきました。

 

一方で、オスマン帝国も内部の衰退が進み、支配が弱体化していましたが、ブルガリア地域での反乱を鎮圧するために軍事力を行使しました。特に、1876年の「4月蜂起」は、ブルガリア人による大規模な反乱の一つで、オスマン軍によって残酷に鎮圧されました。この蜂起は失敗に終わったものの、国際社会にブルガリアの独立問題を強く訴えるきっかけとなりました。

 

その後、1877年から1878年にかけて、ロシア・トルコ戦争が勃発します。この戦争において、ロシアはオスマン帝国からブルガリアの解放を目指し、ブルガリア人はロシア軍を支持しました。戦争はロシアの勝利に終わり、1878年のサン・ステファノ条約によって、ブルガリアは形式上独立を果たします。しかし、この条約は列強の反対を受け、同年に結ばれたベルリン条約でブルガリアの領土は縮小され、実質的にはオスマン帝国の宗主権下に留まることとなります。

 

それでも、1878年にブルガリア公国が自治領として誕生し、ブルガリアは独立への第一歩を踏み出しました。この後も独立を目指した動きが続き、ついに1908年に正式にブルガリア王国として完全独立を達成します。

 

このように、19世紀のブルガリアは、民族復興運動が高まり、オスマン帝国からの独立を目指す闘争の中で、最終的に自治権を獲得し、独立への道を歩み始めた時代だったのです。

 

1876年 4月蜂起の発生

ブルガリア全土で、オスマン帝国に対する武装蜂起が発生。オスマン帝国はこれを鎮圧し、1万人を越えるブルガリア人が犠牲になった。

 

1878年 サン・ステファノ条約締結/大ブルガリア公国の成立

露土戦争の講和条約サン・ステファノ条約の効力により、民主的な『タルノボ憲法』のもとで自治権を獲得。大ブルガリア公国として独立を果たした。

 

20世紀前半

20世紀前半のブルガリアは、独立の完成から二度の世界大戦を経て、大きな政治的変動を経験した時代です。この時期、ブルガリアは領土拡大を目指す一方で、国際的な失敗や戦争の敗北によって、国内外での立場が不安定になりました。

 

1908年、ブルガリアはオスマン帝国からの完全独立を宣言し、ブルガリア王国として新しい国家を築きます。この時期、ヨーロッパ全体で緊張が高まり、ブルガリアもバルカン半島の大国としての地位を確立しようと動きました。第一次バルカン戦争(1912年)では、オスマン帝国に対抗するため、セルビア、ギリシャ、モンテネグロと連合を組み、ブルガリアは勝利を収めます。しかし、第二次バルカン戦争(1913年)で同盟国と対立し、敗北。この戦争により領土を失い、国力も弱体化しました。

 

続いて第一次世界大戦(1914年〜1918年)では、ブルガリアは中央同盟国側(ドイツ・オーストリア)として参戦しました。バルカン半島での影響力を拡大し、失った領土を取り戻すことを目指したのです。しかし、戦争の結果はブルガリアにとって厳しく、1919年のヌイイ条約でさらなる領土割譲と軍縮を強いられました。これにより、経済的な混乱と政治的不安定が続き、国内では反政府運動やクーデターが頻発しました。

 

1920年代には、農民党のアレクサンダル・スタンボリスキが首相として農民を支援する政策を打ち出しますが、彼の改革は保守派や軍部の反発を招き、1923年のクーデターで失脚・暗殺されます。その後、ボリス3世が実権を握り、国内の秩序を回復しようとしましたが、政治的には強権的な体制へと向かいました。

 

第二次世界大戦(1939年〜1945年)では、ブルガリアは枢軸国側に加わり、再び領土拡大を図ります。ナチス・ドイツと同盟を結び、領土の一部を回復することに成功しましたが、1944年にソ連がバルカン半島に進出すると、ブルガリアは連合国側に転向しました。1944年9月、ソ連の支援を受けたクーデターによって共産主義政権が成立し、ブルガリアは戦後、共産主義体制へと移行することになります。

 

このように、20世紀前半のブルガリアは、独立達成後、二度の世界大戦を通じて領土を巡る闘争を続ける一方、戦争の敗北と国内の不安定に苦しんだ時代だったのです。

 

1908年 ブルガリア王国の成立

大公フェルディナンド1世がツァール(国王)を称することでブルガリア王国が成立した。この王国の成立は、オスマン帝国からの完全な独立宣言と見なされ、ブルガリアの国家主権と国際的地位を確立する重要なステップとなった。フェルディナンド1世の即位は、バルカン半島の地政学における新たな力学を創出し、地域の競争と協力のパターンを変化させた。この時期はブルガリアの国民統合と近代化の進展が顕著であり、国内外の政治的・経済的発展が加速した。

 

1912年 第一次バルカン戦争の勃発

バルカン同盟諸国が、バルカン半島に勢力を持つオスマン帝国に対して戦争をしかける。結果はバルカン同盟の勝利となり、敗北したオスマン帝国はマケドニア、トラキア、クレタ島などを失った。

 

1913年 第二次バルカン戦争の勃発

第一次バルカン戦争の領土配分に対する不満から、ブルガリアがギリシャ、セルビアに対し攻撃をしかけ第二次バルカン戦争が始まった。しかしブルガリアはこれに敗れ、セルビア、ドブロジャ地方、東トラキアを失う結果となった。

 

1914年 第一次世界大戦の勃発

サラエボ事件を発端として第一次世界大戦が勃発。ブルガリアは第二次バルカン半島でセルビアに奪われた失地回復を目論み、中央同盟国側として参戦するも敗北。ヌイイ条約でギリシャに西トラキア地方を割譲するはめになった。

 

1939年 第二次世界大戦の勃発

ナチス・ドイツのポーランド侵攻に端を発し第二次世界大戦が勃発、ブルガリアは当初枢軸国側についたため、44年にソ連軍の侵攻を受けた。その後クーデターで政権交代が起こり連合国側に鞍替えし、ドイツに宣戦した。

 

現代ブルガリア

冷戦末期になるとソ連でペレストロイカが過熱し、ブルガリアでも民主化運動が高まりをみせます。そしてついに社会主義体制が打倒され、大統領制に移行するとともに、国名を「ブルガリア人民共和国」から「ブルガリア共和国」に変更。新たなに制定した民主的憲法のもとで再スタートし現在にいたるのです。

 

20世紀後半

20世紀後半のブルガリアは、共産主義体制下での統治と、冷戦の終結に伴う民主化への移行が進んだ時代でした。この時期、ブルガリアはソビエト連邦の強い影響を受け、政治、経済、社会において大きな変革を経験しましたが、冷戦後の変化により、最終的に民主主義国家へと転換しました。

 

1946年、王制が廃止され、ブルガリアはブルガリア人民共和国として正式に共産主義国家となりました。ソビエト連邦の衛星国として、ブルガリアはソ連主導の共産主義政策を強く受け入れ、トドル・ジフコフが1954年から1989年まで長期にわたり共産党指導者として支配しました。ジフコフの政権下で、ブルガリアは一党独裁体制を確立し、経済は中央集権的な計画経済に基づいて運営されました。

 

工業化と農業の集団化が推進され、ブルガリアは農業国から工業国へと移行を試みましたが、その過程で多くの経済的困難に直面しました。生産性の低下や資源不足などにより、経済は安定せず、多くのブルガリア人が生活の困難に直面しました。それでも、教育や医療などの社会福祉制度は整備され、識字率の向上や医療の普及といった社会的な進展も見られました。

 

一方、ブルガリアは外交面では「ソビエト連邦に忠実な同盟国」として行動し、ワルシャワ条約機構(東側諸国の軍事同盟)やコメコン(東欧経済相互援助会議)のメンバーとして、冷戦の激しい対立の中で西側諸国とは距離を保ちました。また、ジフコフは国内の反対勢力や改革派を厳しく抑圧し、言論の自由や政治的な多様性は限られていました。

 

1980年代後半になると、ソ連でのミハイル・ゴルバチョフによる改革(ペレストロイカやグラスノスチ)が進展し、ブルガリアにも民主化の波が押し寄せました。1989年、ジフコフ政権は大規模なデモや社会的圧力により崩壊し、ブルガリアは共産主義体制を放棄し、民主化への道を歩み始めます。

 

1990年には初の自由選挙が行われ、ブルガリア人民共和国は解体され、ブルガリア共和国として新たに再出発を果たしました。これにともない、市場経済への移行が進められましたが、過渡期には経済的混乱やインフレ、失業率の上昇などがブルガリア社会を悩ませました。

 

このように、20世紀後半のブルガリアは、共産主義体制の下で安定と抑圧を経験し、冷戦終結後には民主化と市場経済への転換を果たした時代だったのです。

 

1946年 ブルガリア人民共和国の成立

国民投票で王政が廃され、当時9歳の国王シメオン2世はエジプトに追放される。共産党による一党独裁体制に移行し、社会主義国ブルガリア人民共和国が成立した。

 

1989年 東欧革命

東ヨーロッパ諸国で、共産主義打倒・民主化に向けた運動が活発化し、ブルガリアでも同様の動きが見られた。1989年11月、ブルガリアの共産党指導者トドル・ジフコフが辞任し、これが国内の政治変革の契機となった。この政治変革は、平和的な手段で進められ、ブルガリアは民主的な制度へと移行を開始。この期間、多数の政治囚が釈放され、言論の自由が大きく改善されるなど、社会全体に大きな変化がもたらされた。

 

1990年 共産主義体制の崩壊/国号を「ブルガリア共和国」に変更

東欧民主化運動の嵐はブルガリアにも波及し、共産主義体制は崩壊に追い込まれる。国名を「ブルガリア共和国」に変更し、民主国家として歩みを新たにした。

 

1996年 シメオン2世の帰還

1996年、ブルガリアの最後の皇帝であったシメオン2世が50年以上の亡命生活の後、ブルガリアに帰還。彼の帰還は、国内外から注目され、後に政界入りし、首相としてブルガリアの近代化と欧州統合に向けた政策を推進することになる。

 

21世紀

21世紀のブルガリアは、民主化の深化と国際社会への統合が進んだ時代です。共産主義体制の崩壊後、ブルガリアは西側諸国との関係を強化し、民主主義と市場経済を軌道に乗せるための改革を続けてきました。特に、EUおよびNATOへの加盟は、21世紀のブルガリアにとって大きな転換点となりました。

 

2004年、ブルガリアはNATO(北大西洋条約機構)に加盟し、西側諸国との軍事的連携を強化しました。この加盟は、冷戦後にロシアの影響圏から離れ、西側の安全保障体制に加わる重要なステップでした。また、2007年には、ブルガリアは欧州連合(EU)に正式加盟し、経済的・政治的にヨーロッパとの一体化を進めました。EU加盟は、ブルガリアに対する投資やインフラ整備を促進し、国際的な経済協力を強化する契機となりました。

 

経済面では、EU加盟によりブルガリアは欧州統合プロセスの一環として、多くの改革を実施しました。市場経済への移行が進み、農業や製造業、観光業などが経済の重要な柱となっています。特に、EUの補助金やインフラ投資によって、道路や鉄道などのインフラ整備が進展し、欧州内での経済活動が活発化しました。しかし、貧困や失業率は依然として高く、特に地方では経済格差が顕著です。多くの若者が仕事を求めて他のEU諸国に移住し、人口減少が問題となっています。

 

政治面では、ブルガリアは汚職問題司法制度の改革が大きな課題として浮上しています。政府はEUの圧力のもと、汚職対策や法の支配を強化するための改革を進めていますが、進展は遅く、国民の政治への不信感が根強い状態です。このため、国内では度々抗議デモが発生し、透明性の向上や腐敗撲滅を求める声が高まっています。

 

また、ブルガリアは地政学的に重要な位置にあり、エネルギー政策や移民問題でも注目を集めています。特に、ロシアからのエネルギー供給に依存しているため、EU内でのエネルギー自立や多角化が課題となっています。加えて、シリア内戦などに伴う難民危機では、ブルガリアは多くの移民の通過点となり、EU内での移民政策の調整に関与しています。

 

このように、21世紀のブルガリアは、EU・NATOへの加盟を通じて国際社会と密接に関わりながらも、国内では経済的課題や汚職問題などの解決に取り組んでいる時代なのです。

 

2001年 シメオン2世首相に就任

ブルガリアの民主化後に帰還を果たした元国王のシメオン2世は、2001年にシメオン2世国民運動を結成し党首に就任。その後の総選挙で議席の半数を獲得し首相に就任した。ただし王政復古の意図はないとした。

 

2004年 NATOに加盟

2004年、ブルガリアは北大西洋条約機構(NATO)に正式に加盟。この加盟は、冷戦後の国際政治の枠組みにおいてブルガリアの安全保障を強化し、西側諸国との軍事的・政治的結びつきを確かなものにした。

 

2007年 EUに加盟

2007年、ブルガリアは欧州連合(EU)に加盟した。EU加盟は経済的、社会的、法的改革を進める重要な機会となり、ブルガリアの市場経済の発展と国際社会での立場をさらに強化することに寄与した。この加盟はブルガリア国民にとって長年の目標であり、国の近代化と欧州統合の象徴的な成果とされる。

 

ブルガリアの歴史は、古代から現代にかけて多様な文化と政治的変動に富んでいます。古代には、トラキア人が現在のブルガリア地域に住んでおり、紀元前1世紀にはローマ帝国の一部となりました。6世紀から7世紀にかけて、南スラヴ人が移住し、ブルガリアの民族的基盤が形成されました。

 

681年には、ブルガリア帝国が成立し、バルカン半島で強力な国家となりました。第一次ブルガリア帝国は9世紀から10世紀にかけて最盛期を迎え、キリスト教を受容し、文化と学問が栄えました。1018年にビザンツ帝国に征服されましたが、1185年には第二次ブルガリア帝国が復活し、再び繁栄しました。

 

1396年にオスマン帝国に征服され、約500年間の支配が続きました。19世紀後半にはナショナリズムが高まり、1878年のロシア・トルコ戦争の結果、ブルガリアは自治公国として独立を回復しました。1908年には完全独立を宣言し、ブルガリア王国が成立しました。

 

20世紀には、二度の世界大戦と共産主義政権の成立を経験しました。1946年にブルガリア人民共和国が成立し、ソビエト連邦の影響下で共産主義体制が続きましたが、1989年の東欧革命により民主化が進みました。1991年には新憲法が制定され、ブルガリア共和国が成立しました。2007年には欧州連合に加盟し、現在も欧州との統合を進めながら発展を続けています。