ブルガリアの歴史年表

ブルガリアの国旗

 

ブルガリアの国土

 

ブルガリア(正式名称:ブルガリア共和国)は、東ヨーロッパの ルーマニアセルビア北マケドニア・ギリシャ・トルコと隣接し、バルカン半島に位置する 共和制国家です。国土は 1/3を占める山岳地帯と、平原地帯で構成され、気候区は 北部が湿潤大陸性気候、南部が温暖湿潤気候に属しています。首都は ヨーロッパ最古の都市の一つとして知られるソフィア

 

この国ではとくに 製造業が発達しており、中でも0 加工食品や化学製品、繊維・アパレル製品の生産がさかんです。また外資企業の参入を背景にした不動産や金融などサービス業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんな ブルガリアの歴史は、7世紀にに建設された第1次ブルガリア帝国から始まるといえます。第1次ブルガリア帝国は、11世紀に東ローマ帝国領となるも、12世紀に第2次ブルガリア帝国として再独立。しかし14世紀末オスマン帝国に占領され、以後5世紀に渡り服従を強いられることになりました。1908年にはフェルディナンド1世の尽力でブルガリア王国として再独立しますが、1944年にはソ連の侵攻を受けソ連の衛星国家に。戦後は一党独裁の共産主義政権の支配が続きますが、1989年の東欧革命で共産党政権が崩壊。まもなく民主的な新憲法が採択されて現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなブルガリアの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

ブルガリアの歴史年表

 

古代ブルガリア

古代ギリシア時代、現在のブルガリアをふくむバルカン半島南東部の地域は「トラキア」と呼ばれ、トラキア人による文化が栄えていました。とくにブルガリア領内からは、多くのトラキア時代の遺跡・金細工などが発掘されており、その精巧な造形から、かなり高度な文明を築いていたことがわかっています。

 

前6世紀

前6世紀末に、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世によりトラキアが征服される。

 

前5世紀

前480年頃 オドリュサイ王国の成立

ブルガリアを中心にルーマニア南東部、ギリシャ北部、トルコ北西部にまたがる地域に、トラキア人諸部族を統合した連合国オドリュサイ王国が成立する。

 

前4世紀

オドリュサイ王国は3つに分裂する。政治力・軍事力が弱まったところで、ブルガリアの地はマケドニア王アレクサンドロス3世に征服され、古代ギリシア化が進行していった。

 

前3世紀

ブルガリアにガリア人一派ケルト人による国家が建設。このケルト人国家は、バルカン半島の中央部に位置し、トラキア人との文化的交流を通じて地域の発展に寄与した。ケルト人は高度な金属加工技術を持ち込み、地域経済を活性化させた。また、彼らの信仰や習慣も地元文化に影響を与え、ブルガリアの歴史において重要な文化的足跡を残した。

 

前2世紀

オドリュサイ諸王国は共和政ローマの支配下に入る。ローマの支配により、この地域はローマの影響を受けて統治制度やインフラが整備され、交易も活発化した。

 

前1世紀

オドリュサイ諸王国は独立を回復する。この時期に再び自治を得たものの、ローマの影響力は依然として強く、地域の政治的安定には限界があった。

 

1世紀

46年 トラキア属州の成立

トラキアがローマの属州となり、オドリュサイ王国は完全に滅亡した。これにより、トラキア全域はローマの直接統治下に置かれ、ローマ風の都市建設や道路網が発展し、地域のローマ化が進んだ。

 

中世ブルガリア

ブルガリアの歴史は、7世紀後半、タタール系のブルガル族が現在のブルガリアの地に侵入し、先住のスラブ系民族を駆逐、ブルガリア王国が成立させたところから始まりました。最初のブルガリア国家は長く続かず、11世紀になると東ローマ帝国に征服されます。12世紀末に反乱を起こし再度独立を勝ち取るも、14世紀末には新興のオスマン帝国に征服され、王国としては一度滅んでしまいました。

 

7世紀

681年 第一次ブルガリア帝国の成立

西ローマ帝国崩壊後ブルガリアに流入してきたテュルク系のブルガール人が、この地を支配していた東ローマ帝国を破り、ブルガリア帝国を建国した。

 

8世紀

8世紀には東ローマ帝国との覇権争いが激しくなる。しかしブルガリア帝国はこの覇権争いに勝利し、8世紀末には東ヨーロッパ屈指の大国に成長した。

 

9世紀

9世紀初頭、ブルガリア皇帝クルム・ハーンの治世で、東ローマ帝国への攻勢を強め、トラキア地方にまで支配を拡大。のちに首都となるソフィアを勢力圏に組み入れた。

 

809年 ソフィアの占領

第一次ブルガリア帝国のハーン・クルムがソフィアを占領する。この占領により、ブルガリア帝国はバルカン半島中央部への支配を拡大し、戦略的要地であるソフィアを掌握した。ソフィアの占領は、ブルガリアの領土拡大と帝国の強化に大きく寄与し、経済的および軍事的な要衝としての重要性を高めた。

 

811年 プリスカの戦い

ブルガリア帝国と東ローマ帝国とのあいだでプリスカの戦いと呼ばれる武力衝突が発生。ブルガリアの勢力拡大を危惧する東ローマ皇帝ニケフォロス1世がブルガリアに侵攻したことで開始された。結果はブルガリアの勝利と終わり、東ローマ帝国軍は返り討ちにされた。

 

864年 ボリス1世キリスト教に改宗

ブルガリア帝国のハーンであるボリス1世(在位852年〜889年)が、異教信仰からキリスト教に改宗。洗礼名ミハイルを名乗った。以後、ブルガリアではギリシア正教が受容されていく。

 

893年 ブルガリア正教会の設立

893年、ブルガリア正教会が設立される。この設立は、第一次ブルガリア帝国のシメオン大帝によって推進され、東ローマ帝国からの宗教的独立を確立した。ブルガリア正教会の成立により、ブルガリア語による聖書や典礼が導入され、キリル文字の普及が進んだ。これにより、ブルガリアは文化的にも独自性を強め、スラブ文化圏における宗教的中心地としての地位を確立した。

 

10世紀

918年 シメオン1世が皇帝を称するようになる

918年、シメオン1世が正式に皇帝(バシレウス)を称するようになる。シメオン1世の治世下でブルガリア帝国は最盛期を迎え、領土を大幅に拡大し、バルカン半島の覇権を握った。彼の即位は、ブルガリアの政治的および文化的な独立を強調し、東ローマ帝国と対等な帝国としての地位を主張する重要な象徴となった。

 

970年 キエフ大公国に占領される

970年、ブルガリアはキエフ大公スヴャトスラフ1世の軍によって占領される。この時期、キエフ大公国はバルカン地域への影響力を拡大し、ブルガリア東部を一時的に掌握したが、この支配は短期間に終わった。

 

971年 東ローマ帝国に併合される

971年、東ローマ帝国の皇帝ヨハネス1世ツィミスケスがブルガリアを征服し、ブルガリア東部を併合する。この征服により、ブルガリアは東ローマ帝国の支配下に入り、その文化的および政治的影響を受けることになる。

 

976年 独立を回復

976年には、ブルガリアは東ローマ帝国からの支配を脱して再び独立を回復する。この独立は、地方の貴族たちの支持を背景に、サムイル王が主導し、その後のサムイルの帝国として知られる新たな王朝が樹立された。

 

986年 トラヤヌスの門の戦い

ブルガリアのソフィア周辺の山脈で、東ローマ帝国と第一次ブルガリア帝国が武力衝突を起こす。ブルガリアはこの戦いで勝利した勢いで、プレスラフ、プリスカなどを取り戻した。

 

11世紀

11世紀に入りブルガリア帝国内の政治的分裂が進み、東ローマ帝国の支配を受けるようになった。東ローマ帝国と同様にテマ制(軍管区制)が適用され徴税が強化された。

 

1014年 クレディオン峠の戦い

ブルガリアのクレディオンにて、東ローマ帝国との間で会戦が起こる。東ローマ帝国の決定的勝利と終わり、半世紀戦い続けている敵国の進撃を勢いづけることになってしまった。

 

1018年 第一次ブルガリア帝国の滅亡

東ローマ皇帝バシレイオス2世により、残った全てのブルガリアの国土が東ローマ帝国領に併合され、第一次ブルガリア帝国は滅亡した。

 

1040年 ペタル・デリャンの蜂起

東ローマ皇帝ミカエル4世(在位1034年〜1041年)は、財政改革を実施し、ブルガリア人に貨幣での納税を課す。これによりブルガリアの人々の生活は苦しくなり、不満が高まっていった。そんな中ブルガリア皇帝の血を引くペタル・デリャンは、不満をもつブルガリア人をまとめ反乱を起こす(ペタル・デリャンの蜂起)。一時期バルカン半島の大部分を反乱軍が制圧するも、東ローマ帝国軍の物量にはかなわず鎮圧させられた。

 

12世紀

1185年 アセンとペタルの蜂起の発生

東ローマ帝国支配に対する不満から、ブルガリア住民による蜂起が発生。タルノヴォ近郊の地主アセンとペタル兄弟が首謀したことから「アセンとペタルの蜂起」と呼ばれる。反乱軍は第一次ブルガリア帝国の首都だったプレスラフを制圧することに成功した。

 

1187年 第二次ブルガリア帝国の成立

アセンとペタルはブルガリアの独立を宣言するとともに、皇帝(ツァーリ)として共同で即位。第一次ブルガリア帝国の正当な継承国として第二次ブルガリア帝国を成立させ、170年近い東ローマ帝国の支配に終止符を打った。

 

1190年トリャヴナの戦い

ブルガリア中部トリャヴナ近郊で起きたブルガリアと東ローマ帝国の武力衝突。ブルガリアはこの戦いに勝利したことで、真の独立を確立した。

 

1196年 アセン1世の暗殺

アセン1世の中央集権的な政策に反発する貴族層の手引きで、宮廷内でクーデターが発生し、アセン1世が暗殺される。

 

1197年 ペタルの暗殺

アセン1世の死後兄のペタルが即位するも、貴族の反抗は止まらず、またしても暗殺されてしまう。ペタルの死後はペタルとアセンの弟、カロヤンが即位した。

 

13世紀

イヴァン・アセン2世(在位:1218年〜1241年)の治世でブルガリア帝国は最盛期を迎えた。婚姻により近隣諸国といい関係をたもち、国際社会での地位を向上。トラキアの大部分を勢力下におさめ、その版図は第一次ブルガリア帝国と同等におよんだ。一方でアセン2世の治世末期になると、東アジアで覇権を築いたモンゴル帝国の脅威が、東ヨーロッパにまで及ぶようになる。

 

1202年 ビザンツ帝国と和約

1202年、ブルガリアはビザンツ帝国と和約を結び、両国間の緊張が一時的に緩和された。この和約は、ビザンツ帝国の皇帝アレクシオス3世アンゲロスの治世下で締結され、ブルガリアに対する領土的要求の一部を緩和し、経済的な利益をもたらす条件が含まれていた。この条約により、ブルガリアはビザンツ帝国との貿易を拡大し、内部の政治安定を図ることが可能となった。この時期の外交的な努力は、周辺国との関係改善に向けたブルガリアの戦略的な一環であった。

 

1204年 ラテン帝国の成立

ビザンツ帝国のコンスタンティノープルが十字軍に占領され、ここにラテン帝国が建国された。ラテン帝国はブルガリアを含めたバルカン諸国の征服を図るようになる。また国を追われた東ローマの皇族は、ニカイアに逃亡しニカイア帝国を建国した。

 

1205年 ブルガリア帝国軍とラテン帝国軍の戦闘

アドリアノープル近郊でブルガリア帝国軍とラテン帝国軍の戦闘が行われるが、ブルガリア軍の大勝となった。続くセレスとフィリッポポリスの戦闘でもラテン帝国軍を打ち破り、ラテン帝国勢力に大ダメージを与えた。

 

1232年 ブルガリア正教会の独立

1232年、イヴァン・アセン2世の治世下で、ブルガリア正教会がカトリック教会から独立を果たし、東方正教会の自立を再確立した。この独立は、ブルガリアの宗教的な自律性を強化し、国家のアイデンティティと正統性を国内外に示す重要な出来事となった。イヴァン・アセン2世はこの動きを通じて、教会の権威を利用し、政治的な統合を進めるとともに、ブルガリアの文化的独自性を保持しようとした。この決断は、後のブルガリア国教会の発展に長期的な影響を与えた。

 

1241年 イヴァン・アセン2世死去

ブルガリア帝国の黄金期を築いたイヴァン・アセン2世が死去。この後ブルガリアは、モンゴル帝国の侵攻を受けるようになり、衰えが始まる。

 

1261年 ラテン帝国の滅亡

ニカイア帝国軍の攻撃と、民衆の蜂起により首都コンスタンティノープルが攻略され、ラテン帝国は滅亡。ビザンツ帝国が復活した。

 

14世紀

14世紀はヴィディン、ドブルジャ、ヴェルブジュド、ストルミツァなど、国内に強力な封建勢力が分立し、政治的安定に欠けた世紀であった。その影響で国力も衰退し、ビザンツ帝国、ハンガリー、サヴォイア伯国など外国に次々と領土を取られるようになった。さらに14世紀半ばにはオスマン帝国のバルカン半島進出も始まっていた。

 

1364年 ビザンツ帝国によるアンヒアロス(現ポモリエ)征服

1364年、ビザンツ帝国はブルガリアのアンヒアロス(現ポモリエ)を征服した。この攻撃は、地中海および黒海地域の支配を巡るビザンツ帝国の拡大戦略の一環であり、この地域の戦略的重要性を高めた。アンヒアロスの占領は、ビザンツ帝国による地中海貿易路の確保と、ブルガリアとの緊張関係を再燃させる要因となった。

 

1365年 ハンガリーによるヴィディン征服

1365年、ハンガリーはブルガリアのヴィディンを征服し、この地域を占領した。この軍事行動は、ハンガリーがバルカン地域での影響力を拡大する試みの一部であり、ブルガリア北西部における政治的な不安定化を引き起こした。ヴィディンの征服は、周辺国との関係において新たな緊張を生じさせ、地域のパワーバランスに影響を与えた。

 

1367年 サヴォイア伯国による黒海沿岸部への攻撃

1367年、サヴォイア伯国は黒海沿岸部に対して攻撃を行い、その海上権益を追求した。この時期に欧州諸国が黒海地域への進出を試みる中、サヴォイアの介入は黒海貿易における競争を激化させ、地域の安全保障環境に新たな課題をもたらした。この攻撃は、サヴォイアが地中海外の地政学的利益を拡大しようとする動きの一環であった。

 

1371年 マリツァの戦い

バルカン半島のマリツァ川流域にて、オスマン帝国軍とバルカン半島国家連合軍による武力衝突が発生。バルカン連合はこれに大敗したことで、南ブルガリアがオスマン帝国から攻撃を受けるようになる。

 

1382年 ソフィアの陥落

78年から、和約を破棄したオスマン帝国による侵攻が始まり、82年にソフィアが陥落する。この事件は、オスマン帝国のバルカン地域への拡張を象徴し、ブルガリアの多くの都市が次々と陥落していく過程の一部となった。ソフィアの陥落は、オスマン帝国が地域の主要な政治および文化センターを支配下に置くことを意味し、ブルガリアのオスマン支配への完全な移行への道を開いた。この出来事は、長期にわたるオスマンの支配と、それに伴う社会経済的な変化の始まりを示している。

 

1389年 コソボの戦い

コソボにてセルビア王国とオスマン帝国の会戦が行われる。結果、オスマン帝国の大勝となり、ブルガリアを含めたバルカン諸国はオスマン帝への服従を余儀なくされた。

 

1393年 タルノヴォの包囲

オスマン軍による侵攻を受け、タルノヴォが陥落する。タルノヴォの陥落は、ブルガリアにおけるオスマン帝国の支配をさらに固める重要な出来事であり、ブルガリア第二帝国の事実上の終焉を意味した。この都市は中世ブルガリアの首都であり、文化的、宗教的な中心地としての地位を持っていたため、その陥落はブルガリア人にとって大きな打撃であり、多くの住民が逃亡または奴隷化された。この出来事はオスマン帝国のバルカン半島における支配を長期化させる結果となった。

 

1396年 ニコポリスの戦い/ブルガリア帝国の滅亡

ドナウ川河畔のニコポリスにて、オスマン帝国とヨーロッパ連合軍との会戦が行われる。キリスト教世界を守るため、イギリスフランスドイツなども派兵を行い、10万の軍勢で臨んだが、オスマン帝国の大勝という結果になった。オスマン帝国のバルカン半島支配を決定的なものとし、ブルガリアは同国に完全に併合され滅亡した。

 

近世ブルガリア

15世紀

14世紀末期にオスマン帝国に完全併合され、滅亡に追い込まれたブルガリアだが、15世紀になってもブルガリア人によるオスマン帝国に対する抵抗運動は続いた。しかし反乱はことごとくオスマン軍により鎮圧され、独立の回復にはいたらなかった。

 

16世紀

1598年 タルノヴォで蜂起発生

タルノヴォ地方でオスマン支配に対する蜂起が発生するも、まもなくオスマン政府により鎮圧される。この蜂起は、長期にわたるオスマン帝国の圧制と重税に対する地元住民の不満が爆発したもので、タルノヴォを含む広範囲の地域で支持を集めた。しかし、オスマン帝国の強力な軍事力により、蜂起は短期間で厳しく鎮圧され、参加者は厳罰に処された。この出来事は後のブルガリア独立運動の火種となり、民族意識の高揚に寄与した。

 

17世紀

1688年 チプロフツィ蜂起

ブルガリア北西部のチプロフツィで、オスマン帝国に対する武装蜂起が発生。一時的にクトロヴィツァ(現モンタナ)を占領するまでいたったが、最終的にはオスマン帝国により鎮圧された。

 

18世紀

 

1768年 露土戦争の勃発

同年夏にウクライナで起きたコリーイの乱から露土戦争に発展。一部のブルガリア人は、ロシアオスマン帝国からの解放者になることを期待して、義勇兵としてロシアを支援した。最終的にロシアが勝利したことで、独立の気運は高まった。

 

近代ブルガリア

王国としては中世に滅ぼされてしまったブルガリアですが、19世紀末にロシア・トルコ戦争(露土戦争)でオスマン帝国が敗れると、サン・ステファノ条約により大ブルガリア公国として独立。 20世紀に入り、ブルガリア公国の大公フェルディナンド1世がツァール(国王)を自称したことで、ブルガリア王国が復活を遂げました。
しかし、復活間もなく勃発した、バルカン戦争と第一次世界大戦では敗れ、多くの領土を喪失。次ぐ第二次世界大戦では枢軸国側を支援したことで、ソビエト連邦の侵攻を受け占領されてしまいます。そのため戦後しばらくはソ連の強い影響下におかれ、共産党による一党独裁体制が続きました。

 

19世紀

1876年 4月蜂起の発生

ブルガリア全土で、オスマン帝国に対する武装蜂起が発生。オスマン帝国はこれを鎮圧し、1万人を越えるブルガリア人が犠牲になった。

 

1878年 サン・ステファノ条約締結/大ブルガリア公国の成立

露土戦争の講和条約サン・ステファノ条約の効力により、民主的な『タルノボ憲法』のもとで自治権を獲得。大ブルガリア公国として独立を果たした。

 

20世紀

1908年 ブルガリア王国の成立

大公フェルディナンド1世がツァール(国王)を称することでブルガリア王国が成立した。この王国の成立は、オスマン帝国からの完全な独立宣言と見なされ、ブルガリアの国家主権と国際的地位を確立する重要なステップとなった。フェルディナンド1世の即位は、バルカン半島の地政学における新たな力学を創出し、地域の競争と協力のパターンを変化させた。この時期はブルガリアの国民統合と近代化の進展が顕著であり、国内外の政治的・経済的発展が加速した。

 

1912年 第一次バルカン戦争の勃発

バルカン同盟諸国が、バルカン半島に勢力を持つオスマン帝国に対して戦争をしかける。結果はバルカン同盟の勝利となり、敗北したオスマン帝国はマケドニア、トラキア、クレタ島などを失った。

 

1913年 第二次バルカン戦争の勃発

第一次バルカン戦争の領土配分に対する不満から、ブルガリアがギリシャ、セルビアに対し攻撃をしかけ第二次バルカン戦争が始まった。しかしブルガリアはこれに敗れ、セルビア、ドブロジャ地方、東トラキアを失う結果となった。

 

1914年 第一次世界大戦の勃発

サラエボ事件を発端として第一次世界大戦が勃発。ブルガリアは第二次バルカン半島でセルビアに奪われた失地回復を目論み、中央同盟国側として参戦するも敗北。ヌイイ条約でギリシャに西トラキア地方を割譲するはめになった。

 

1939年 第二次世界大戦の勃発

ナチス・ドイツのポーランド侵攻に端を発し第二次世界大戦が勃発、ブルガリアは当初枢軸国側についたため、44年にソ連軍の侵攻を受けた。その後クーデターで政権交代が起こり連合国側に鞍替えし、ドイツに宣戦した。

 

現代ブルガリア

冷戦末期になるとソ連でペレストロイカが過熱し、ブルガリアでも民主化運動が高まりをみせます。そしてついに社会主義体制が打倒され、大統領制に移行するとともに、国名を「ブルガリア人民共和国」から「ブルガリア共和国」に変更。新たなに制定した民主的憲法のもとで再スタートし現在にいたるのです。

 

20世紀

1946年 ブルガリア人民共和国の成立

国民投票で王政が廃され、当時9歳の国王シメオン2世はエジプトに追放される。共産党による一党独裁体制に移行し、社会主義国ブルガリア人民共和国が成立した。

 

1989年 東欧革命

東ヨーロッパ諸国で、共産主義打倒・民主化に向けた運動が活発化し、ブルガリアでも同様の動きが見られた。1989年11月、ブルガリアの共産党指導者トドル・ジフコフが辞任し、これが国内の政治変革の契機となった。この政治変革は、平和的な手段で進められ、ブルガリアは民主的な制度へと移行を開始。この期間、多数の政治囚が釈放され、言論の自由が大きく改善されるなど、社会全体に大きな変化がもたらされた。

 

1990年 共産主義体制の崩壊/国号を「ブルガリア共和国」に変更

東欧民主化運動の嵐はブルガリアにも波及し、共産主義体制は崩壊に追い込まれる。国名を「ブルガリア共和国」に変更し、民主国家として歩みを新たにした。

 

1996年 シメオン2世の帰還

1996年、ブルガリアの最後の皇帝であったシメオン2世が50年以上の亡命生活の後、ブルガリアに帰還。彼の帰還は、国内外から注目され、後に政界入りし、首相としてブルガリアの近代化と欧州統合に向けた政策を推進することになる。

 

21世紀

2001年 シメオン2世首相に就任

ブルガリアの民主化後に帰還を果たした元国王のシメオン2世は、2001年にシメオン2世国民運動を結成し党首に就任。その後の総選挙で議席の半数を獲得し首相に就任した。ただし王政復古の意図はないとした。

 

2004年 NATOに加盟

2004年、ブルガリアは北大西洋条約機構(NATO)に正式に加盟。この加盟は、冷戦後の国際政治の枠組みにおいてブルガリアの安全保障を強化し、西側諸国との軍事的・政治的結びつきを確かなものにした。

 

2007年 EUに加盟

2007年、ブルガリアは欧州連合(EU)に加盟した。EU加盟は経済的、社会的、法的改革を進める重要な機会となり、ブルガリアの市場経済の発展と国際社会での立場をさらに強化することに寄与した。この加盟はブルガリア国民にとって長年の目標であり、国の近代化と欧州統合の象徴的な成果とされる。

 

ブルガリアの歴史は、古代から現代にかけて多様な文化と政治的変動に富んでいます。古代には、トラキア人が現在のブルガリア地域に住んでおり、紀元前1世紀にはローマ帝国の一部となりました。6世紀から7世紀にかけて、南スラヴ人が移住し、ブルガリアの民族的基盤が形成されました。

 

681年には、ブルガリア帝国が成立し、バルカン半島で強力な国家となりました。第一次ブルガリア帝国は9世紀から10世紀にかけて最盛期を迎え、キリスト教を受容し、文化と学問が栄えました。1018年にビザンツ帝国に征服されましたが、1185年には第二次ブルガリア帝国が復活し、再び繁栄しました。

 

1396年にオスマン帝国に征服され、約500年間の支配が続きました。19世紀後半にはナショナリズムが高まり、1878年のロシア・トルコ戦争の結果、ブルガリアは自治公国として独立を回復しました。1908年には完全独立を宣言し、ブルガリア王国が成立しました。

 

20世紀には、二度の世界大戦と共産主義政権の成立を経験しました。1946年にブルガリア人民共和国が成立し、ソビエト連邦の影響下で共産主義体制が続きましたが、1989年の東欧革命により民主化が進みました。1991年には新憲法が制定され、ブルガリア共和国が成立しました。2007年には欧州連合に加盟し、現在も欧州との統合を進めながら発展を続けています。