マルタの歴史年表

マルタの国旗

 

マルタの国土

 

マルタ(正式名称:マルタ共和国)は、南ヨーロッパの 地中海中心部・中欧海峡に位置する 共和制国家およびイギリス連邦加盟国です。 マルタ島,ゴゾ島,コミノ島などで構成される島国で、気候区は 地中海性気候に属しています。首都は 地中海交通の中心地で、騎士団関係の建造物で知られる バレッタ。

 

この国ではとくに繊維工業やワイン製造、造船業などが発達しており、また旧市街など観光資源を背景にした観光業もこの国の基幹産業となっています。

 

そんな マルタの国としての歴史は、16世紀に建設された4 マルタ騎士団領から始まるといえます。その後マルタ騎士団はフランス革命期の18世紀末にナポレオン軍により追放され、ナポレオン失脚後にはパリ条約でイギリス領に併合されます。以来イギリス地中海艦隊の基地となり、第一次大戦、第二次大戦では連合国の要衝として機能しました。そして20世紀後半に国民投票でイギリス連邦内の自治国として独立、共和制に移行 して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなマルタの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。

 

 

古代マルタ

古代マルタは、地中海の戦略的な位置にあることから多様な文化の影響を受けました。紀元前3600年頃からのマルタ文明は、驚異的な巨石神殿を建設し、これらは現在も世界遺産として保存されています。フェニキア人が紀元前1000年頃に到達し、その後、カルタゴ人、そしてローマ人の支配を受けました。ローマ時代には、マルタは重要な海上交易の中継点として栄え、キリスト教の伝播の地ともなりました。この島はその独特な文化と重要な地理的位置により、古代地中海世界の一環として重要な役割を果たしていました。

 

前1000年頃 フェニキア人による支配

地中海東岸の民族フェニキア人のマルタ島入植が始まり、前218年に共和政ローマに占領されるまでフェニキア人支配が続いた。

 

前400年頃 カルタゴによる支配

フェニキア人により北アフリカに建設された国家カルタゴの支配を受けるようになる。

 

前218年 ローマによる支配

ローマとカルタゴの全面戦争第二次ポエニ戦争が開始されると、まもなくマルタ島はローマ軍に占領された。以後マルタ島の町はローマの支配下で繁栄した。

 

60年頃 使徒パウロの漂着

使徒言行録によればイエス・キリストの使徒パウロがマルタ島北部の港町「セント・ポールズ・ベイ」に漂着したとされる。

 

395年 東ローマ帝国による支配

皇帝テオドシウス帝の死にともない、ローマ帝国が西ローマ帝国と東ローマ帝国に分裂し、以後マルタ島は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)による支配を受けるようになる。

 

中世マルタ

中世マルタは、地中海の交易ルート上に位置し、さまざまな外国勢力の影響下にありました。870年にアラブ人が侵攻し、その支配下で灌漑システムや農業技術が導入され、マルタ語にセム語系の要素が加わりました。11世紀にノルマン人によってキリスト教が再導入された後、1530年には聖ヨハネ騎士団が島を授けられ、彼らの統治下でマルタは要塞化され、イスラム勢力からの攻撃に備える戦略的要地として発展しました。この時期、マルタはキリスト教世界とイスラム世界の文化が交錯する場となり、その独自性を強めていきました。

 

870年 イスラム勢力による支配

北アフリカを牙城とするイスラム勢力のアグラブ朝によって占領される。イスラム勢力による支配の中で、灌漑や綿の栽培をはじめとした、新しい農業技術がマルタ島にもたらされた。

 

1090年 ノルマン人による支配

北欧を原住地に持つノルマン人が南イタリアに襲来し、イスラム勢力を駆逐した。ノルマン人はマルタを征服し、島をシチリア王国の一部として統治した。この支配により、マルタはキリスト教世界の一部として再統合され、ノルマン人の影響下で経済的、軍事的な発展が進んだ。ノルマン人の統治は、マルタの防衛力を強化し、後の歴史においても重要な基盤を築いた。

 

1130年 シチリア王国による支配

ノルマン人が南イタリア一帯を領土とするシチリア王国を建国。マルタ島もその支配下に入った。

 

1479年 スペインによる支配

マルタ島を支配していたアラゴン王国がカスティーリャ王国と統合しスペイン王国が成立。以後マルタ島はスペイン王国の領土となった。

 

近世マルタ

近世マルタは、聖ヨハネ騎士団の統治下で大いに発展しました。騎士団は1565年のオスマン帝国の包囲攻撃、いわゆるマルタ包囲戦を勝利で飾り、その後、マルタを地中海の重要な防衛拠点として強化。特に首都バレッタの建設は、この時期の象徴的な出来事であり、要塞都市として設計されました。騎士団はマルタで病院を建設し、高度な医療サービスを提供することで知られるようになりました。また、彼らは芸術と学問を奨励し、バロック様式の建築物や教会が多く建設されたことで、マルタは文化的にも栄えました。

 

1530年 聖ヨハネ騎士団による支配

シチリア王国の家臣国家・聖ヨハネ騎士団による統治が始まった。神聖ローマ皇帝カール5世によって騎士団に与えられたマルタは、騎士団の拠点として要塞化され、オスマン帝国の侵攻に対する重要な防衛拠点となった。聖ヨハネ騎士団はマルタを堅固な要塞に変え、1565年のマルタ包囲戦でオスマン帝国を撃退するなど、その軍事力を発揮した。彼らの統治期間中、マルタは文化的にも発展し、騎士団によって多くの建築物やインフラが整備された。

 

1565年 マルタ包囲戦

オスマン帝国がマルタ島の支配を目論みマルタを包囲。聖ヨハネ騎士団の抵抗によりオスマン帝国を撤退に追い込むことに精巧した。

 

1566年 首都バレッタの建設

マルタ島東部・シベラス半島の丘の上に聖エルモ砦が建設された。この砦を中心に築かれた新都市が現マルタの首都バレッタの礎となった。

 

近代マルタ

近代マルタは、1798年にナポレオンの短期間の占領を経て、イギリスの保護領となりました。この時期、マルタはイギリス帝国の重要な海軍基地として機能し、特に第一次世界大戦と第二次世界大戦中には地中海戦略の中核を担いました。第二次世界大戦中の激しい爆撃に耐え、1942年にはジョージ十字勲章を授与されるほどでした。イギリスからの独立は1964年に達成され、マルタは独立後もイギリス連邦に残り、1974年には共和国に移行しました。この時期、マルタはその地政学的重要性から多大な国際的関心を集める一方、自国のアイデンティティと主権を確立する過程でもありました。

 

1798年 フランスによる支配

ナポレオン率いるフランス軍に占領される。フランスの支配下で、マルタはフランス共和国の一部として統治され、封建制度の廃止や教育改革などが行われた。しかし、フランスの支配は短期間であり、住民の反発も強かった。この占領期間中に、フランス軍は聖ヨハネ騎士団の財宝を没収し、マルタの防衛施設を強化するための工事を行ったが、1799年にはイギリス軍が介入し、フランス軍は最終的に撤退することとなった。

 

1801年 イギリスによる支配

マルタ包囲戦 (1798年?1800年)により島内のフランス勢力は一掃され、以後イギリスによる支配を受けるようになる。イギリスはマルタを重要な海軍基地として整備し、地中海における戦略的な要衝として活用した。イギリス統治下で、マルタは近代的なインフラが整備され、経済や教育の発展が進んだ。また、第二次世界大戦中には、マルタは枢軸国の激しい攻撃を受けたが、その重要性からイギリスと連合国による防衛が行われ、戦後もイギリスの支配が続いた。

 

1800年 第二次武装中立同盟

1800年、マルタは第二次武装中立同盟の一環として、ナポレオン戦争中にイギリス海軍の支援を受け、フランスの支配から解放された。この同盟は、ロシアとプロイセンを中心とする北欧諸国がイギリスの海上封鎖に対抗するために結成されたものであった。マルタの戦略的重要性は再認識され、イギリスはその後、マルタを保護国として統治することとなった。イギリスの支配下で、マルタは地中海における軍事および海上交通の要衝としての地位を確立した。

 

1814年 パリ条約で正式にイギリス領に

ナポレオン戦争中、パリで締結されたパリ条約により、マルタ島は正式にイギリス領となった。以後マルタ島はイギリス地中海艦隊の司令部として重要な役割を果たした。

 

1914年 第一次世界大戦(〜18年)

サラエボ事件に端を発し第一次世界大戦が勃発。マルタは主に協商国(連合国)の負傷兵の治療に努めたため、「地中海の看護師」と呼ばれるようになった。

 

1939年 第二次世界大戦(〜45年)

ナチス・ドイツポーランド侵攻に端を発し、第二次世界大戦が勃発。大戦中マルタは連合国の軍事的要衝として枢軸国軍からの空爆を受けた。

 

1945年 マルタ会談

第二次世界大戦末期のマルタ島にて、アメリカ大統領ルーズベルトと、イギリス首相ウィンストン・チャーチルによる会談が行われた。ドイツ軍との最後の戦いについての計画、赤軍の勢力拡大への対応について話し合われた。

 

1964年 イギリス連邦王国自治領マルタ国として独立

イギリス議会でマルタ独立法が可決され、マルタは立憲君主制国家として独立を遂げた。エリザベス2世がマルタ女王を兼ねた。

 

現代マルタ

1974年に共和国となったマルタは、その後の現代においても地中海地域の重要な戦略的拠点としての役割を継続しています。経済は観光業を中心に成長し、情報技術と金融サービスが新たな産業として発展。2004年には欧州連合(EU)に加盟し、国際社会との結びつきを一層深めました。多文化が共存する社会として、マルタはその豊かな歴史的遺産とともに、多様な文化イベントや言語の使用が見られる点も特徴です。EU加盟国としての立場を活かし、地域協力と経済発展に注力しています。

 

1974年 共和制に移行/マルタ共和国の成立

1974年12月13日、マルタは英国王室から完全に独立し、共和国へと移行した。これにより、国家元首としての女王の代わりに大統領が就任し、アントン・ブタジッジが初代大統領に選出された。これはマルタが完全な主権国家として独自の道を歩み始めた象徴的な瞬間だった。

 

1979年 駐屯していたイギリス軍の撤退

1979年3月31日、イギリス軍はマルタから撤退した。これはマルタが完全な軍事的独立を達成した日とされ、現在では「自由の日」として祝われている。イギリス軍の撤退は、長年にわたる英国の影響からの脱却を意味し、マルタの国際的な中立政策を強化する基盤となった。

 

1980年 3つの文化財が世界遺産に登録

1980年、マルタの3つの文化財、首都バレッタ、ハル・サフリエニの地下墓所、およびタルシーンの巨石神殿群がUNESCOの世界遺産に登録された。これらの遺産はマルタの豊かな歴史と文化的重要性を国際的に認知させることに寄与した。

 

1989年 マルタ会談

1989年12月、米ソ首脳会談がマルタで開催され、ジョージ・H・W・ブッシュ米大統領とミハイル・ゴルバチョフソ連大統領が冷戦終結に向けた重要な対話を行った。この会談は「冷戦の終わり」を象徴する出来事とされ、マルタは国際的な平和の促進に貢献した場として注目された。

 

2004年 欧州連合(EU)に加盟

2004年5月1日、マルタは欧州連合(EU)に加盟した。これにより、経済の近代化、政治の安定化が進み、EU加盟国としての様々な恩恵を享受することになった。EUへの加盟はマルタの国際的地位をさらに高め、経済成長にも寄与した。

 

2008年 ユーロ通貨を導入

2008年1月1日、マルタはユーロ通貨を導入し、ユーロ圏の一員となった。これにより、マルタは経済的な統合を一層深め、ユーロ圏内での取引の便宜性が向上した。ユーロ導入はマルタの金融安定と国際的なビジネスの拡大を支える要因となっている。

 

以上が古代から現代にかけてのマルタの歴史的歩みです。地中海の交差点に位置するマルタは、その豊かな歴史を通じて、多様な文明の影響を色濃く反映しています。古代の巨石神殿から、フェニキア人、ローマ人、そしてアラブ人に至るまで、多くの支配者たちがこの島に足跡を残しました。中世には聖ヨハネ騎士団が島を要塞化し、その歴史的な重要性を一層高めました。イギリス領となった後の1964年に独立を果たし、1974年には現代のマルタ共和国として新たなスタートを切りました。2004年のEU加盟は、経済や社会の近代化に向けた大きな一歩でした。今日のマルタは、その多彩な遺産と共に、国際社会での新たな役割を模索しています。