
リヒテンシュタインの国旗
リヒテンシュタインの国土
リヒテンシュタイン(正式名称:リヒテンシュタイン公国)は、中央ヨーロッパの スイスとオーストリアに囲まれた領域に位置する 立憲君主制国家です。国土は 旧ファドゥーツ伯爵領のオーバーラント(高地)と旧シェレンベルク男爵領のウンターラント(低地)で構成され、気候区は 大陸性気候に属しています。首都はレティコン山塊の北西麓の ファドゥーツ。
この国ではとくに 工業が発達しており、中でも繊維・機械部品・電気製品などの生産がさかんです。また中世の古城や宮殿など観光資源を背景にした2 観光業もこの国の基幹産業となっています。
そんな リヒテンシュタインの歴史は、18世紀に神聖ローマ皇帝カール6世が、ファドゥーツとシュレンベルクを統合し公国としてリヒテンシュタイン家に与えたところから始まるといえます。その後もしばらくは神聖ローマ帝国領として過ごし、神聖ローマ帝国滅亡後はドイツ連邦(オーストリア主体の同盟)に参加。19世紀後半に独立・永世中立国になりました。20世紀に入りスイス・フランを導入するなどスイスとの関係が強化され、外交や国防をスイスに依る、事実上スイスの保護国化。20世紀末に国際連合に加盟して現在に至る・・・というのがこの国の歴史のおおまかな流れです。ここではそんなリヒテンシュタインの歴史的歩みをもっと詳しく年表形式で振り返ってみましょう。
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ローマ時代のリヒテンシュタイン地域は、洪水被害が頻発するため、ほとんど人は済んでいなかった。現リヒテンシュタイン北部のシャーンヴァルトとネンデルンが、古代ローマ時代に建設された数少ない町である。またリヒテンシュタインはローマ帝政期において属州ラエティアの一部だった。
西ローマ帝国崩壊後は、西ヨーロッパに勢力の基盤を築いたフランク王国の支配下に入り、カロリング朝の伯爵領となった。
スイス南部のヴァレーを原住地とするヴァルザー人が、現在のリヒテンシュタインに移住してくる。現在は主にトリーゼンベルクにヴァルザー人の末裔が暮らしている。
スイスのアッペンツェル地方にて、ハプスブルク家の支配に対する反乱が勃発。リヒテンシュタインも戦火に巻き込まれ、被害を被った。
ドイツのシュヴァーベン地方にて、ハプスブルク家の支配に対する反乱が勃発。リヒテンシュタインも戦火に巻き込まれ、被害を被った。
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モラヴィアのリヒテンシュタイン家出身のカール1世が、初代リヒテンシュタイン侯に就任する。
神聖ローマ帝国内において、新教・旧教の宗教対立に端を発する三十年戦争が開始される。その名の通り戦乱は三十年続き、オーストリア、スウェーデン軍による破壊の他、宗教迫害(魔女狩り)や疫病の蔓延も重なり、リヒテンシュタインは深刻な被害を被った。
シュレンベルクとファドゥーツの統合によりリヒテンシュタイン公国が成立した。
ナポレオン戦争(1802〜15年)が勃発するとフランス帝国軍により占領される。また1806年、ナポレオン主導のライン同盟に、神聖ローマ帝国の大半の領邦が加わったことで、原型を保てなくなった神聖ローマ帝国は崩壊。それにともないリヒテンシュタイン公国は主権国家に昇格し、ライン同盟にも加盟した。
ナポレオンの失脚によりフランス支配に終止符が打たれ、戦後はオーストリア主導のドイツ連邦に加盟した。
近代的な価値観を盛り込んだ憲法が発布され、リヒテンシュタインは議会制民主主義に移行した。
プロイセン王国とオーストリア帝国との戦争・普墺戦争が勃発し、プロイセンの勝利によりドイツ連邦は解体。その2年後、リヒテンシュタインは軍を解体し、永世中立国を宣言した。
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サラエボ事件に端を発し、第一次世界大戦が勃発。リヒテンシュタインは中立の立場を貫いたが、オーストリア=ハンガリー帝国との関係は維持したため、連合国から経済制裁を受けた。
第一次世界大戦中の経済制裁で痛手を受けたリヒテンシュタインは、オーストリアとの関税同盟を解消した。
アンシュルスによりオーストリアがナチス・ドイツに併合される。これを受けリヒテンシュタイン公フランツ1世は退位して、姉の孫フランツ・ヨーゼフ2世が即位した。
ナチス・ドイツのポーランド侵攻に端を発し第二次世界大戦が勃発。リヒテンシュタインは再び中立を維持したが、枢軸国により多くの領土や資産が没収された。
ドイツ・日本の降伏により第二次世界大戦が終結した。戦後のリヒテンシュタインは、戦時に負った被害からの復興が当面の課題となった。そのためにリヒテンシュタイン家が所有していた芸術品の数々が、各地の美術館に売却された。
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